四
「ちょっと杏ちゃん。こういうのは相談しなきゃ駄目でしょ」
「ご、ごめんなさい……」
それぞれ浴衣の入った風呂敷を手にしながら体育館の更衣室へ行く最中。我が家の物置部屋からリコーダーを持ち出した件について、菜花に叱られてしまった。
今、菜花と一緒に通っているのは、薄桃色の花びらが絨毯のごとく散らばった校舎外の通り道。一斉勧誘前ということで、校舎の外は準備に追われている上級生の往来が激しい。特に、楽器運搬に追われている吹奏楽部の部員は先程からよくすれ違っている。
「考えてみて? 小学校の頃の話だとしても、杏ちゃんは実際リコーダーに口をくわえているんだよ?」
「あ……」
そこまで言われて、鈍感ながら漸く事の重大さを理解した。
もしも菜花があの時止めなかったらとんでもない事態になっていた。そのことを実感すると同時に、背筋に恐ろしい戦慄が走る。と同時に、そこまで考えが至らなかった自分は相当間抜けだったと改めて思い知らされた。
「油断しちゃ駄目。人っていうのは、何考えているのか分からないからね。ましてや、相手は異性だから、もっと気を付けること」
「はい。ごめんなさい」
「分かればよろしい。よし、それじゃ、一斉勧誘始まるまでゆっくり着替えさせてもらお? まだまだ時間は沢山あるんだし」
お説教が終わり、菜花の顔にいつもの笑みが戻った時には、体育館に着いていた。通常授業日の放課後の体育館は、バレー部の掛け声やバスケ部のボールをつく音がひっきりなしに響いているが、今はバタバタと行き交う生徒の足音と会話が聞こえるのみ。一斉勧誘時の体育館は、主に発表系の部活のコンサート発表の会場に使われるらしい。
更衣室はそこまでギュウギュウに混んでいなかったが、鍵の抜かれたロッカーはかなり多かった。部屋には当然上級生しかおらず、その集団の中に混じっていくのは少しどころかかなり勇気がいる。しかし、上級生達は自分の着替えに夢中で、来訪者のことを気に留める様子は無い。
菜花は、真っ先に目的のロッカーへと向かい、二つの鍵を同時に差し込む。そして、人口がまばらな更衣室の様子を見回すなり、ホッと息をついていた。
「良かったぁ。今日は広々と着替えられそう」
「そうだね」
「これから浴衣着るけど、トイレは大丈夫?」
「えっと――」
「はい、行ってきなさい。その様子じゃ心配だよ」
「あの、菜花は……?」
「私は大丈夫! 浴衣に着替えているから! さあ行ってきて行ってきて」
「う、うん」
「ごゆっくりどうぞ~」
結局、菜花に背中をグイグイ押され、そのまま更衣室を放り出されてしまった。小さい頃の私をよく知っている菜花に「心配」と言われたら反論出来ないので、大人しく更衣室から背を向けてノロノロと歩き出す。ごゆっくりということは、やはり自分の着替える姿を妹に見せたくないのだろうか。
行き交う生徒を掻き分けながら体育館の入り口を横切り、体育教官室の脇にあるトイレへと向かう。今でもそのトイレの近くに行くと、入学式で気持ち悪くなった際にここで力尽きた記憶が思い出されるので、気持ちが少し萎える。
かなり特徴的なピンク色の扉を押して開けると、洗面台の鏡の前には二人の上級生らしき女子が占領していた。二人は一瞬扉を開けた私のほうを見たが、すぐに鏡のほうへ向き直って化粧を再開する。化粧は校則で禁止されているので、先生の目を隠れてやっているのだろう。気合入っているなぁと思いながら、個室に入る。
個室を出た時には、既に化粧していた二人組はいなかった。手を洗って扉を開けると、人だかりがあった体育館の入り口は嘘のように閑散としていた。演劇部のリハーサルが始まったのだろうか、張りのある声が玄関中に大きく響いてくる。
そして、何気なしに、一面ガラス張りになっている出入り口のほうを向いた時だった。
「――っ!」
視界にあるものが映った瞬間、心臓の鼓動が一気に早くなった。まるで心臓を銃で撃ち抜かれたかのごとく、胸の辺りがどんどん締め付けられていく。
ガラスの向こう側を通り抜けたのは、きゃいきゃいと騒いでいる三人の女の子達。その内の一人は、髪の長さや背丈を見ただけで誰だか分かる位に知っている人物である。
佐伯さん。
中学時代の元クラスメートで、卒業するまで嫌がらせをしてきた人。
『逢坂さんって、大人しい顔つきしていて、本当に腹黒いよね~』
敵意と嘲りの込めた気持ち悪い笑みとともに、いつか言われた言葉までも蘇ってくる。それだけでない。今や、その人の姿を見るだけで、拳で殴られたかのように胸や腹が苦しくなって吐きそうになる。
佐伯さん達は、体育館のほうを見ることなく、そのまま通り過ぎて行った。しかし、激しい動揺は収まる気配がなく、新しく記憶に刻まれた佐伯さんの姿を振り払うように更衣室へと走っていった。
(やめて、やめて……もう思い出させないで!)
心の中で叫んでも、生き地獄で過ごした記憶はしつこく追いかけてくる。何故なら、毎日教室で聞こえよがしに悪口を言われた日々も、佐伯さんグループにされた嫌がらせも、全て覚えているからだ。
大きな音を立てて扉を開けると、着替えていた上級生達が一斉に私のほうを向いた。
「もう、そんな急がなくてもいいのに」
目が点になっている上級生達の脇を通り過ぎながら、菜花が私のほうへ歩み寄ってくる。今の菜花は、もう制服姿ではない。白装束みたいな下着を着た上に、青い花の模様が散らばった水色の浴衣を羽織っているだけの状態だ。
「杏ちゃん?」
何も言えずにその場で固まっていると、菜花が眉をひそめながら顔を覗き込んできた。
「どうしたの? そんな血相を変えて」
「……うん」
「気持ち悪い?」
「それは、大丈夫」
話しているうちに、どんどん呼吸が浅くなっていく。深く息を吸わないと、いつも通りに呼吸が出来ない。精神的なことが原因でこんなに息苦しい状態になったのは、中学時代以来だったと思う。
「杏ちゃん、慌てないで。息を深く吸ってみてごらん?」
過呼吸の症状にすぐに気づいた菜花が、背中を擦ってくれる。眠ってしまいそうな位の心地良いリズムで撫でられたお陰で、気持ちの波はどんどん静まっていく。そうしているうちに、軽く乱れた呼吸は徐々に落ち着きを取り戻していき、意識して息を深く吸わなくても普通に呼吸が出来る状態にまで戻った。
「どうしたの?」
自分の呼吸が落ち着いても、菜花の表情は一向に硬いまま。一点の曇りも見当たらないような真剣な瞳で、問い詰めるように私の顔をジッと覗き込んでくる。
「……き、緊張しちゃって」
今、言葉にしたことも、理由の一つである。駅前か何かで見かけるティッシュ配りのような活きの良い宣伝文句を言うこと自体も初めてのことで、今までに感じたことのない大きな不安に襲われている。
本当はトラウマの元である佐伯さんに会ったからだけれども、一斉勧誘が始まる前ということもあり、言い出せなかった。佐伯さんが古今高校に在籍しているという事実は、誰にも告げていない。菜花や母にはそろそろ言いたいけれど、これ以上余計な心配は掛けたくないから話せない。入学式の時も小運動会の時も、慣れない環境に身を置いたことによる疲れが原因ということになったけれど、それが何度も続くと流石に怪しまれるはずだ。もしも、また中学の頃と同じようなことが続くとなったら、家族はどれだけ心配するだろう。
「こ、こういうの……初めてだから……」
本当のことを言えず、ついつい嘘に逃げてしまう。いくら一斉勧誘の前だとしても、隠したままの状態は決して良いとは言えないのは分かっているけれど――。
「大丈夫」
昔から聞き慣れた魔法の言葉とともに、両肩にそっと手を置かれた。俯いた顔を上げると、太陽のように輝く菜花の笑顔が、真っ先に目に飛び込んでくる。
「私がちゃんと側についているよ。部長には、杏ちゃんに恥をかかせる真似は絶対させないからね。だから、心配しなくても大丈夫」
「菜花」
「大丈夫だよ」
今度はペットを愛でるかのごとく、頭をクシャクシャに撫でてくれる。手の温もりも、優しい微笑みも……菜花の全てが母によく似ていて、その心地良さに、身体ごととろけてしまいそうな感覚だ。母に抱き締められている時と今の感覚は、殆ど変わっていない。
菜花が側にいてくれるから、今の自分に自信を持てなくても何でも出来る気がする。だからこそ、私は「落研部員(まだ仮だけど)」としてこの場に立っている。もしも私一人だったら、膨れ上がる不安に決して耐えられるはずがない。
菜花がいてくれて、良かった。――普段恥ずかしくて言えない言葉を、心の中で呟く。
「杏ちゃんのことは、しっかりフォローするからね」
「ありがとう……」
「それから、一斉勧誘終わったら、部長にたっか~い和牛奢ってもらおうね! 一年生を歓迎する側に放り投げた罰として!」
「…………」
菜花は、部長に焼肉を奢らせる気満々らしく、狐のごとくニンマリとした瞳にキラッと光を灯していた。
尚、更衣室には見知らぬ上級生が何人かおり、私達の姉妹劇を好奇の目で見られていたというのは、改めて誰かに言われる前から分かっていた。
* * *
「おぉっ! 杏姫はやっぱり浴衣が似合うアイドルだったぁっ! 可愛いぞ!」
体育館への入り口と校舎の勝手口を繋ぐ小道にて。ベージュ色の浴衣を綺麗に着こなした部長が、私の姿を見つけるなり、周囲の上級生達にも響くような声量で歓喜の声を上げてきた。下手すれば、アイドルに匹敵する可愛い一年生が落研にいると誤解されなりかねないので、正直勘弁して欲しい。
ちなみに、私が今着ているのは、赤い色の花が散らばった模様が特徴の、薄桃色の浴衣。帯の色も形もこの前着た時と同じもので、違うところといえば髪を下ろしていること位しかない。慣れない白の足袋の上に、家から持参した下駄を履いているため、今は足の指の間がかなり痛い。それは、真新しい革靴を履いている時の痛みを遥かに超えていて、今すぐに脱ぎ捨てたいと思う程だ。
「それに引き換え、ナッパはなぁ~……この浴衣のセンス、どうにかならねえのか? 似非日本人みてえだな」
「私は日本生まれの両親から生まれました! 似非とか意味分かんないんだけど!」
「やっぱセンスは、アイドルの妹に全部持ってかれたんだなぁ~。ははっ、哀れだのう」
「何ですってぇっ?」
ほぼお揃いの水色の浴衣を美しく着こなした菜花が、周囲の人のことを気にせず、部長と火花をバチバチ散らしている。浴衣を着た者同士で争っている姿も大分人目につくから、それも勘弁して欲しい。
今は、一斉勧誘が始まる十分前。ビラ配りが許可されている体育館の小道や校舎の昇降口近くには、既に大量のビラや段ボールの看板を手にした上級生がスタンバイしている。中にはルール違反で、一年生の階段前で待ち伏せしている人達の姿もあるらしいが。
そして、小体育館や武道館、校舎内の空き教室などには、割り振られた部活が着々と準備を進めているらしい。落研の相談スペースのほうも、私と菜花が浴衣に着替え終わった時には既に完了していたという話を部長から聞いている。
「ナグも玖珂も、相談ブースの準備完了したってよ! あっちは玖珂がいるから大丈夫だとして……そんで、配るビラがこれだ!」
そう言って、部長が束で手渡してきたのは、落研を宣伝した手書きのビラ。書道を習っている部長が書いたらしい、目が奪われるような達筆な文字で部活名や活動日時、活動場所など書かれている。そして、ビラの隅っこには、菜花がたまに描く絵とよく似ている、着物を着た可愛い女の子の絵が小さく描かれていた。
渡されたビラの量は、結構なものだ。恐らく百人分は余裕でありそうな位である。一体、部長はどれだけの量を刷ってきたのだろう。
「杏姫! 宣伝文句は俺に任せろ! ただ配れば大丈夫だ!」
「えっ」
「安心しろ! 杏姫みてえなアイドルは、脇でちょこんと立って、紙切れを配っているだけで可愛いもんだぞ!」
「…………」
そう言われると、逆に不安が増してくる。雑誌やテレビに出てくるような可愛い顔の女の子だったらまだしも、手足が鶴みたいにヒョロヒョロ細くて常にしょんぼりした顔の自分が、格好良く浴衣を着こなした部長の横に立ったら、石を投げつけられてもおかしくない。
「そういや、他の奴らはどんな格好してるんだろうなぁ~。うおぉっ、でっけえウサギが歩いている!」
体育館の方角へ歩いていくウサギの着ぐるみを見つけた部長が、折角格好良く浴衣を着た足を大きく開きながら走っていく。今の部長は、風船売りのワゴンを見つけて駆け出す子どものようだ。
「あいつ……ちゃんと時間になったら戻ってくるのかなぁ。こういう時も構わずフラフラするんだから」
部長の走り去った方向を見て、呆れ顔で大きい溜息をつく菜花。
「校門のほうに行ったけど、まさかそこでビラ配りする気じゃないよね。あっちはビラ配り禁止とか言われてるけど、やりかねないなぁ……」
菜花の言葉を聞いた途端、ある事実に気づいた。
佐伯さん達が歩いて行った方向は、校門への道に繋がっていたはずだ。よくよく思い返せば、あの時三人とも鞄を持っていて、如何にもこれから帰るといった感じだった。ということは、佐伯さんは一斉勧誘に参加するつもりはないだろう……そんな結論が出された。
確か、佐伯さんは幼稚園の頃からずっと体操をやっており、中学時代も体操部で活躍していた。中学三年の国語のスピーチの授業で、「高校に入っても体操部に入りたい」とか言っていたから、きっと体操部に入る気満々だろう。もしも最初から体操部以外考えられないとしたら、わざわざ一斉勧誘に行く必要が無い。つまり、顔を合わせなくても済むということだ。
良かった。
今日は、これで安心だ。
気の抜けるような安心感が胸に広がり、思わずホーッと息を漏らす。安心している場合ではないが、少なくともトラウマの原因人物と顔を合わせる心配が無いと知っているのと知らないのではかなり違う。
「杏ちゃん、少し緊張解れた?」
「えっ、あ、うん」
隣にいる菜花が、肩に手を置きながら優しく微笑みかけてくる。
「ビラを全部配ったら、一斉勧誘は終わり。もし配り切れなかったら、私が代わりに配るから大丈夫だよ」
またもや、魔法のような言葉を掛けてくる菜花。私は、「大丈夫」と言葉で言う代わりに、菜花の優しい手をギュッと握り締めたのだった。
『え~、只今を持ちまして、一斉勧誘を開始いたします。各部活の方々は、規則を守り――』
チャイムが高らかに鳴り響くと同時に、洗練された声での校内放送が入ってくる。その直後、各々待機していた上級生達がわさわさと動き出す。
とうとう、落研最初の一大イベントである、一斉勧誘が開幕したのだった。




