三
今日の空は、快晴。不穏な出来事を思わせるような曇り空は嘘だったのではないかと思わせる位に、海のごとく真っ青に晴れ渡っていた。桜はほぼ散ってしまったが、暖かい陽射しと空を行き交う小鳥の歌い声が春を告げている。
古今高校の土曜日は、基本的に午前の四時間授業をこなせば終了らしい。帰りのHRが終われば、後は帰るなり部活を行うなり自由だ。しかし、今日はどの学年も校内に残っている生徒の割合が多いだろう。何故なら、今日の午後一時からは全部活による一斉勧誘が行われるのだから。
一斉勧誘に参加する落研も、授業終了後はいつもの部室に集まることになっている。主役の新入生は、自分の教室や食堂で勧誘の時間になるのを待っているというのに。自分が上級生側に混じるのは、何だか複雑な気持ちだ。
普段は人気の無い部室棟校舎であるが、この日ばかりは人の出入りが多い。その証拠に、いつもはガラガラに空いていた下駄箱が既にすし詰め状態だった。靴二足を入れられる隙間も無いので、仕方なく下駄箱の下のほうに置いて、生徒の声で騒めいている部室棟校舎に入る。廊下を半分位占領しながら、慌てて立て看板を仕上げている人達の姿もあった。
「こ、こんにち――」
「杏姫! 今日は髪下ろしているんか! 今風のアイドルっぽくて似合ってるぞ!」
部室棟校舎三階部室。開け放たれた部室の扉からそっと覗き込むと、案の定、挨拶代わりの褒め言葉でお出迎えされた。毎回思うことであるが、一体どのようにして見たら、私のことがアイドルに見えるのか不思議でたまらない。
「部長、お黙りっ! 杏ちゃん、浴衣着替える前に、髪の毛やっちゃうよ」
「うん」
一足先に部室で寛いでいた菜花は、待っていましたと言わんばかりに私の手を引いて、すぐ近くのパイプ椅子に座らせた。今日は腰までの長い髪の毛を一切結んでこなかったが、その理由は一日限りのスタイリストである菜花に頼まれたからだ。
「あ~、胡桃来ねえかなぁ~」
部長が、ペットボトル入りの麦茶を片手に大きな溜息をつく。
「ん~、来ないと思うよ?」
「もう、こっち大変なんだから少しは協力しろよ~」
ここで部長達が言っている「胡桃」とは、落研のグループリストに名前が残っている桑染胡桃先輩のことだろう。落研の集まりは今日まで何度かあったが、その人の顔は未だに見たことがない。かなり謎に満ちた落研の幽霊先輩部員と言える。
「杏ちゃん、今からお弁当食べちゃいな?」
「え、菜花は――」
「二時間目の休み時間に食べちゃった」
コロコロと笑いながらそう言う菜花は、今朝も寝坊して朝ご飯を食べられなかったらしい。物置部屋にまで響く目覚まし時計を持っていながら起きられないとは、ここまでくると呆れるのを通り越して逆に感心してしまう。
菜花に促されながら、鞄の中からお弁当箱を取り出す。菜花との約束通り、水曜日に持ってきた幼稚園年少の頃に使っていたものよりも一回り大きいものにしてもらったし、おかずもなるべく食べられそうなものを詰めてもらった。
しかし。
「はぁっ!? 杏姫、何だその弁当箱は! あのヒビ割れた卵のやつはどうした!?」
眼球が飛び出しそうな勢いで目をかっ開いて驚く部長。無理もない。今日のお弁当箱は、幼稚園年長から小学校低学年の頃まで使っていたものだから。
「駄目だぞ、ダイエットは! 最近、食わないダイエットしているアイドルとか聞くけど、あんなんちっとも良くねえからな! 死ぬこともあるんだぞ! ネットの画像見てみろ! あんなガリガリに痩せたアイドルなんて、可愛くねえぞ!」
「いや、ダイエットじゃなくて――」
「杏姫、俺から見ても痩せすぎだぞ! これやるから、ちゃんと食え! 杏姫の場合、もっと太ったほうが可愛く見えるぞ!」
「…………」
食べないダイエットをしていると勘違いした部長が喚くように熱弁したのち、何かが入ったビニール袋を投げ渡される。古今会館にある購買部で買ったものらしく、中には紫色の蒸しパンが値札付のラップに巻かれた状態で入っていた。
「これ、焼き芋味だってよ! マジで食わないと倒れるぞ!」
自信満々そうに、よく磨かれていそうな位に白く輝いている歯を見せてニッと笑う部長。見開かれた凛とした瞳から、純粋に心配してくれているのが伝わってくる。
「あの、部長は――」
「俺か? さっきでっかいお好み焼きパン食ったから大丈夫だ! それが思った以上に大きくて、蒸しパンまで腹に入りそうもなかったから助かったぞ! むしろ買って良かった! あっ、金は要らないからな!」
「ありがとうございます」
部長の好意を素直に有難く受け取る。確かに、これから外でビラ配りするのだから体力は付けたほうがいいかもしれない。部長には申し訳無いけれど、食べ物はとても有難い。
しかし、一昨日のバナナとヨーグルトに加え、部長から色々と貰いすぎな気がする。
「部長。ご飯食べない杏ちゃんに言ってくれてありがとう。でも、これ以上セクハラ発言したら、容赦なくぶつよ?」
「セクハラじゃねえよ! 思ったことを言っただけだぞ!」
「『太ったほうが可愛い』はセクハラにあたるからね!」
「そんなんお前らの勝手な基準だろ!」
一方で、私も長い髪をスイスイと梳かしながらも部長に噛みつく菜花。勿論噛みつかれた部長も反撃し、またもや戦闘が始まってしまった。助け舟を出してくれるのは有難いけれど、積極的に喧嘩を売り込んでいく菜花のスタイルはいい加減どうにかしてもらいたいところだ。
「おいおい、またこいつら二人は喧嘩してんのかよ」
「今日も平和ですね」
やっと菫君と南雲君がやって来た。食堂にでも寄っていたのだろうか、二人の手に持っているのは、赤い渦巻き模様が特徴のラーメンの器がのせられたお盆。そこから、醤油や味噌が混じり合った香ばしい匂いが白い湯気とともに漂ってくる。
「ラーメンだぁぁっ! 一口くれないか!」
欲しい玩具を見つけた子どものように目をキラキラ輝かせながら、二つのラーメンを眺める部長。先程、お好み焼きパンを食べてお腹一杯だと言っていたような気がするが。
「よし、出来た!」
箸を黙々と動かしている最中に、漸く髪のセットが完了したらしい。掛かった時間が前回と比べて短いことに驚きながら、菜花の手鏡を二枚使って自分の姿を確認してみる。どうやら今回は後ろのほうでアレンジを施したらしい。髪はハーフアップにされているが、結び目の両脇は、美容師も顔負けするのではないかという位に綺麗に編み込まれていた。
「クルクルに巻いたらめっちゃ可愛いだろうけど、そこまでやったら校則違反だし。本当は一つに纏めちゃったほうが良いんだけどなぁ」
流石の菜花でも、腰まで伸びた長い髪を下ろしたままアレンジするのは難しかったらしい。しかし、編み込みのハーフアップも自分はとても気に入っているし、何よりこんなアレンジしにくい髪をアレンジしてくれただけでも物凄く有難い。
「おぉっ、良いぞ! アイドルが空から降臨してきた感じ!」
この前のお団子ヘアーは渋っていた部長だが、今回のアレンジは気に入ったようで、菫君から貰ったラーメンの黄色い麺をくわえながらグーサインを立てている。もう「アイドル」という言葉に一々反応していたら身が持たないので、軽くスルーすることにした。
「おい、部長。あんま杏ちゃんのことアイドル扱いすんなよ。困ってるだろ?」
「え~、だってアイドルにしか見えないだろ!」
「こいっつ……」
見かねた菫君が忠告するが、部長は右から左へと受け流している。残念ながら、諦めるしかないような気がした。
「ら、ラーメンの煮卵が……こんな美味いものだとは……! メンマももやしもシャキシャキ! 待ってください、古今高校には、プロのラーメン職人が隠れていらっしゃるのですか! そうしたら、是非とも握手を! 握手を!」
「落ち着け、ナグ」
その一方で、学食のラーメンに入っていた煮卵に感動したらしい南雲君が、自分の好きな歌手を道端で見かけたかのごとく興奮している。この前のコンビニ肉まん談義といい、食べ物のことになると本当によく喋ると思う。
「そうだ! 提案があるんだが――」
いきなり溌溂とした声をあげたかと思うと、足元から黒いケースのようなものをテーブルの上にドンと置く部長。それまで一心不乱にラーメンを啜っていた南雲君だったが、長方形の黒いケースが登場すると、忙しなく動かしていた彼の箸はピタリと止まった。
「ぶ、部長さん! まっ、まさか、それは――」
「おっ、もしやナグも吹部出身か!」
「あっ……は、はい!」
ほんの一瞬真顔になったような気がするが、すぐに朗らかな表情に戻って頷く。
「マジか! 何吹いてたんだ!?」
「僕はトロンボーンを担当していました」
「おぉっ、トロンボーンって音が柔らかくてめっちゃ綺麗だから俺も好きだぜ! 俺はトランペット! たまに河原とか公園で吹くと、結構ストレス発散になるんだよなぁ~」
「あ~、トランペットって音色がすごく華やかで、聞いているだけで心地よくなりますよね」
「そう! そんで、ソロもいっぱいあってな……いっぺんソロやってみたかったんだよなぁ。でも、部内に同期の凄腕のトランペット奏者がいてな、ソロは最初からそいつで決まりっていう風潮だったんだよなぁ。中学からトランペット始めた俺は、毎回呆気なく敗れたぜ」
「わ、分かります。トロンボーンは小学五年から始めていたのですが……」
南雲君と部長が吹部トークを繰り広げている。そして、部長の手によって開かれた黒いケースには、果たして黄金色に輝くトランペットが眠っていた。トランペットはテレビで見たことがあるが、生で見るのは初めてだった。
それにしても、部長が中学時代に吹奏楽部に入っていたのは初耳だ。正直言うと、楽器を吹いているイメージが無かったので、ケースから本当にトランペットが出てきたのはかなり衝撃だった。ちなみに南雲君の場合は、前から何となく厳しい部活に入っていたんだろうなと想像ついていたから、「吹部」と聞いても特に驚きはしなかった。
「ナグ、中学は自然科学部に入ってたんじゃなかったのか?」
「あ、勿論それも入っていました。吹部で毎日楽器を吹きつつ、自然部にも顔を出していました。ちなみに、吹部は厳しい上下関係や同級生争いがありましたので、精神面を鍛えるのにもってこいでしたよ。ハハハ……」
余程大変だったのだろうか、途方に暮れたような笑みを浮かべる南雲君。しかし、肉体的にも精神的にもハードな部活と緩やかな部活をどちらも経験しているからこそ、今の南雲君があるだろう。やはり、その丁寧な言葉遣いや振る舞いの原点は、中学時代の吹奏楽部だと考えられる。
豆腐を扱うかのごとくトランペットを丁寧に取り出し、口に当てて何回か軽く音を出した後、あるメロディーを吹き出した。
パララァ~。
朝顔のようなトランペットの口から華やかな音色が弾き出され、部室内に木霊する。それまで騒がしい部室内だったが、一気に静まり返る。
斜め上を向きながらトランペットを吹く部長の横顔は、弾けるような溌溂さを感じない程にとても真剣で、まるで別人が乗り移ったようにも見える。こんな部長の姿を見るのは初めてだ。
「部長……それ、ラーメンじゃん……」
呆れ顔をしながら、静かに突っ込みを入れる菜花。しかし、部長は尚も真剣な顔をしながら一つの曲を吹き続ける。
「あ~……」
国民的に有名なラーメン屋のテーマソングを一通り吹き終えた部長であるが、何処か物足りなさそうな表情をしている。
「やっぱりこれじゃねえ! つうかトランペットだと、吹部と間違えられる!」
どうやらトランペットでこの曲を吹きながら、新入生を勧誘する予定だったらしい。物事がここまで進んだところで、部長がソプラノリコーダーを持ってくるよう頼んだ理由が分かった気がする。
「杏姫! リコーダープリーズ! これでさっきの吹いてみるぞ!」
やはり部長は、縋るように私のほうを見てきた。
「えっ、ちょっ、待ってくだ……きゃぁっ」
慌てて鞄を膝に置いて、リコーダーを取り出そうとする……が、手が滑って鞄を床に落としてしまった。その弾みで、バラバラッと教科書やらファイルやらが床に四方八方散らばる。
「落ち着けよ。ほら」
呆れ顔の菫君が、床に落ちた教科書やノートを手渡してくる。
「あの~、部長さん部長さん。一人でリコーダー吹いていたら、誰が活きの良い宣伝文句を言いながらビラを配るのかね? 言っとくけど、私と杏ちゃんは、そこまで出来ないよ? 凄腕の宣伝部長が側につくっていう話だから、ビラ配り引き受けたのになぁ~」
「うおぉっ、そうだった!」
「それに、これ吹いたら、ガチな『ラーメン同好会』だと勘違いされて、一日三食ラーメンを求めるいかつい奴らが来ちゃうよ?」
菜花の巧みな言葉遣いにすっぽり丸め込まれたように、部長は考えを改め直す。「活きの良い宣伝文句」や「凄腕の宣伝部長」と褒められて気を良くしたのか、その表情には照れ笑いが浮かんでいた。ひとまず、持ってきたリコーダーは必要なくなったらしい。
「ラーメン同好会……」
「ナグちゃん、それジョークだから! ラーメン同好会にさせないでぇっ!」
菜花の喩えに対し、目を輝かせながら反応したのは、正しくラーメンを食べている南雲君。確かに、食レポが上手い南雲君は食べ物関係のサークルで活躍しそうなイメージはあるが。
「そういや、今日の準備はどうすんだ? 着物着る組は、着替える場所あるのか?」
菫君の一声で、漸く今日の流れの確認が始まった。今までのは何だったのか。
「あっ、それなら大丈夫! 今日は体育館の更衣室、開放されているって! 早速鍵貰ったから、杏ちゃんが食べ終わったら着替えにいくつもり!」
勝ち誇ったような笑みを見せる菜花の手には、タグ付きの二つの鍵。どうやら、更衣室のロッカーの鍵は既に回収済みらしい。
「えっ、マジかよ! そんなん知らなかったぞ!」
「お前は部室でいいだろ。俺らも残るし」
「あっ、僕たちは部室組ですね」
どうやら、相談ブースの担当組は部室に居残って準備することになるようだ。今やっと自分達が何をすべきか見えてきた気がする。
「よっしゃぁあっ! 今日は一斉勧誘終わったら、焼肉食うぞ! 新歓だ!」
すっかり気持ちが高揚した部長が、今日一番の弾んだ声で提案する。新歓パーティーならこの前やったのではと思ったが、新たに仮入部してきた南雲君も交えてちゃんとした新歓イベントをやったことが無かったと思う。
「やったぁっ! 今日は部長の奢りだって!」
「あぁん!? 杏姫やナグはともかく、お前らは金払ってもらうぞ!」
「焼肉! えっ、もし先輩方が良ければ砂肝頼んでもよろしいですか?」
「相変わらず凝った嗜好してんな、ナグは」
「皆! 今日は気合入れて頑張るぞ! 終わったら焼肉が待ってるからな!」
柔らかい陽射しが窓から差し込む部室に溢れかえるのは、部員達の活き活きとした笑い声。ずっとこの場にいたいと願いたくなるような温かい空間が保証される。
この時の私は、落研の個性的且つ賑やかな雰囲気にすっかり飲みこまれ、その後に何が起こるかなんて想像すらも巡らせていなかった。




