演目『一斉勧誘』
気が付くと、私は真っ白な世界に一人佇んでいた。辺りをどんなに見回しても、白しか映らない。不思議に思って暫く歩いても、違う色が一切見えない。白い靄に全身を覆われているようだ。
一歩一歩足を踏み出すごとに、身体の軽さを感じる。空の上を浮遊しているような、変な感覚までも覚える。今にも強風が吹いてきたら、簡単に飛ばされてしまいそうだ。
『――杏姫ぇっ!』
後ろのほうから、唐突に聞き覚えのある陽気な声が響いてきた。声のした方向を振り返ると、見慣れた制服を着た誰かの影が歩いてくるのが見える。よく目を凝らすと――。
(部長!?)
何と、部長だった。その部長は私に近づいてくるなり、いきなり身体を真っ二つに折り曲げてきた。この姿はいつか何処かで見たことがある気がする。
『頼む! 落研を救ってくれ!』
「は、はい……というか、今仮入部です」
突然のことに驚きながらも、返事をする。そこまで大声を張り上げたつもりはないが、トンネルの中にいるかのように、声が重々しく反射して響く。辺りを見渡す限り、壁も何も見えないのに。
『そうだ、杏姫は何処の部活に入っていたんだ!?』
懇願してきたかと思えば、いきなり話題が飛んだ。しかも、よりによって過去の部活のこと。星のごとくキラキラと輝いた部長の瞳が、自分の胸を鋭く射抜いてくる。
美術部のことは話したくないが、何も事情を知らない部長は期待のこもった瞳で見つめてくる。純粋無垢な瞳がキラキラ放つ光線に耐え切れず、とうとう口を動かした。
「は、はい、美術部です。え、えっと、小さい頃から絵を描くのがとにかく大好きで、どんな時でもスケッチブックと鉛筆が欠かせなかった位で……」
『やっべえ、絵を描くことが好きとか、マジ凄すぎるぞ! 安心しろ、落研に入っても、好きな時に絵を描いて良いぞ!』
「あ、ありがとうございます……」
『そうだ! 杏姫、新歓用のポスターを描いてくれ! 杏姫の素晴らしい画力で、新入生をぎゃふんと言わせるんだ!』
「え?」
『杏姫、絶対絵が上手そう! 一度で良いから、杏姫が中学の時に描いた絵、マジで見たいぞ!』
部長は私の拙い言葉に対し、小さな子どものような生き生きとした笑顔でどんどん褒めてくる。
絵を見たいと言われて嬉しいはずなのに、素直に喜べない。絵を描くことを生きがいにしていた中学時代の自分が聞いていたら、その場を飛び跳ねて喜んでいたと思う。それなのに、今は褒め言葉を聞いているだけで胸が苦しくなる。こんなに期待してくれている部長には申し訳無いけれど、見せられる絵すら手元に無い。
「申し訳ありませんが、私の手元にはあの頃の絵は無いんです。あと、私には――」
『杏姫の作品を見るの、落研一同で、楽しみに待っているからなっ!』
しかし、部長はキラキラした瞳のまま私の顔を見てくる。先程絵が無いと言ったばかりなのに、聞こえていなかったのだろうか。
「あ、あの――」
「おっ、あっちから何か聞こえるぞ!」
突然、部長がそう言うと、クルリと背を向けて走り出した。部長の見つめる方向には、白い靄だけで何も無いはずのに。
「ま、待ってください」
『――この盗作犯!』
後ろから、女子の鋭い声が響き渡る。反射的に後ろを振り返ると、そこに人の姿は見当たらない代わりに、真っ白い空間の中で濃い紫色の靄がモクモクと現れ出した。
『逢坂さんがそんなことするなんてねぇ』
『春菜ちゃん可哀想~!』
『前からあんたのこと嫌いだったんだよ!』
『コンクールで最優秀賞取ったからって調子乗ってんじゃねえよ!』
『誰もあんたの受賞に納得してないから』
紫色の靄が私の周りをどんどん取り囲んでくる。それまで白しか視界に映っていなかったのに、今は紫以外何も見えない。靄の中からは、どんどん責める声が聞こえてくる。
「ち、違……」
『逢坂さん。あなたにはがっかりしたわ。大切な仲間を傷つけただけでなくチームプレイを壊すような人は、うちの美術部にはいらないわよ』
「せ、先生……」
部員達の声の中に、顧問の先生の責める声も聞こえてくる。盗作疑惑を掛けられたあの時、先生も一緒に疑って責めてきたのだ。
『盗作するなんて、サイッテー』
『ねえ、知ってる? あいつ、春菜ちゃんの作品をパクったらしいよ』
『人のアイデアを平気な顔で盗むとか有り得な~い!』
『そんなんでよく学校来れるよね。マジキモイ』
『ほら、あいつだよ。盗作犯。第一中の恥だよな~』
やがて関係の無い人の声までも混ざり合い、いつしか一つのざわめきとなる。耳を強く塞いでも、指の僅かな隙間から言葉がどんどん入り込んでくる。
消えてしまった部長の姿を探そうと辺りを見渡すものの、もう何も見えない。あの陽気な声も、あのキラキラした瞳も、何処にも見つからない。今、目の前にあるのは地獄のみ。
『あんたのことなんて、誰も信じないわよ』
『逢坂さんと友達になりたい人なんて、いないわよねぇ~』
『逢坂さんの人生マジ終わってるわ~。高校でもぼっちでしょ』
『ねえ、あいつマジ臭い。風呂入ってんの』
『盗作犯は、死ねばいいのに』
死ねばいいのに。
その声を最後に、騒めきがプツンと途切れる。次の瞬間、目の前を映し出していた濃い紫色が一気に真っ黒いものに変わった。何も見えないし、音一つも聞こえない。まるで、聴覚と視覚を一気に奪われたような感覚だ。
しかし、それは一瞬の間だけだった。遠くのほうから、雨のような音が微かに聞こえてくる。それはどんどん大きくなり、やがて耳を劈く位の大音量となる。その時、美術部を退部したあの日のことがいきなり頭の中に蘇ってきた。まるで映画が上映されたかのように。
~ ~ ~
二年前の十月。
この時期、私の所属していた市立第一中学美術部は、文化祭展示用の絵と冬季絵画コンクールに出品する用の絵を一人一枚仕上げていた。確かあの頃は、県内の夏季絵画コンクールで最優秀賞を取ったことでますますやる気が出て、個人用のスケッチブックに候補の絵を沢山描き溜めていた。
そんなある日、手提げ袋に入れていたはずのスケッチブックが、何故か机の上に置かれてあった。奥深く入れていたから落とすはずは無いと思いながらも、その時は特に気に留めなかった。たまたま落ちたかもしれない、と呑気だった。
しかし、家に帰って確かめると、ページが一枚抜き取られていた。そこには今度の冬季絵画コンクールの下描き絵が描かれており、数日後の合評会に出す予定だった。当然盗まれたかもしれないと考えたが、先生や親に言わなかった。合評会までの貴重な数日間と時間を無駄にしたくなかったのと、親に心配掛けたくなかったからだ。まさか盗作されているとは露知らず、必死に記憶を辿ってどうにか完成させた。
スケッチブックのページが消えた日から数日後、とうとうお互いの絵を見せ合う合評会の日がきて、誰がスケッチブックのページを盗んだか発覚した。
美術部に顔を出さないで家で作業していたという同期の野々原春菜の絵が、私の描いた絵と酷似していた。いや、酷似というより、野々原さんの絵はスケッチブックから抜き取られたページの絵そのもので、細部までもしっかり真似されていた。
「ひどい、逢坂さん! 私のデザイン盗むなんて……!」
私が問い詰めようとした時、野々原さんはすぐにわあっと泣き出した。
野々村さんはしゃくりを上げて泣きながら、レポート用紙何枚かに描かれた絵の束を、部員全員に見せた。そこには私のものとそっくりな絵が鉛筆で走り書きされたものがいくつも描かれていた。これらの嘘の証拠品を皆に見せ、「一週間徹夜で考えた絵なのに……」とさらに泣かれた。
それだけではない。野々原さんは、「大事にしたくなかったから先生に言わなかったけれど」と前置きして、三日前にデザインの紙を誰かに盗まれて困っていたという嘘話までもした。盗まれたのも、真似されたのも、全部私のほうなのに。
美術部の皆は派手に泣き出す野々原さんの話をあっさり信じ、私を口々に攻撃してきた。その場にいた全員が「春菜ちゃんの頑張りをよく知っている」と言い続け、私は「人の頑張りを踏みにじる裏切り者」呼ばわりされて責められた。「やってない」と言っても誰も信じてくれず、味方さえもしてくれなかった。
野々原さんは部活にあまり顔を出さない上にコンクールも無断ですっぽかしていたのに、「可愛い」というだけで部員達と先生から慕われていた。だから、皆は野々原さんの話を全く疑いもしなかった。
しかも、その場にいた顧問の先生は止めるどころか一緒になって責めてきて、何と退部届と鉛筆を持ってこられたのだ。そして、皆が見ている前で退部届を書かされた。
『退部理由:他の部員の心身を傷つける行為を行ったため』
あの時書かされた退部理由は二年経った今でも覚えている。
こうして、呆気なく私の退部処分を下された。私の話を誰にも聞いてもらえないまま、あっさりと美術部から追放された。
あの日は朝から降っていたザアザア降りの雨のせいで、秋が始まったばかりなのに妙に肌寒い日だったのを今でも覚えている。その日の荷物と美術室に置いていた絵具と一緒に美術室を叩き出された後、傘も差さずに泣きながら家まで走って帰った。
濡れ鼠になりながら家に帰り、「ただいま」も言わずに自分の部屋へ飛び込んだ。
日が差さないせいで薄暗い部屋の中、雨粒が染み込んで重くなった制服を脱ぐことなく、私は常日頃手提げ袋に入れているスケッチブックを取り出した。そこには、ポスターのデザイン用の絵だけでなく、日常で感じたことや家族友人の似顔絵などの思い思いに描いた絵が沢山描かれている。本当はそこに次の冬季コンクールに出す絵も描かれていた。
私はスケッチブックの一枚目を迷わず両手で掴み、真ん中を思い切り引き裂いた。
一度破ってしまった後は、もう自分自身を止められなかった。
使いかけのスケッチブックをビリビリに引き裂いた後は、クローゼットから使い終わったスケッチブックを全て取り出し、同じように引き裂いた。もう二度とつなぎ合わせられないように、細かく、細かく。
紙を引き裂いている両手に、熱い涙がポタポタ落ちてくる。しかし、それでも構わず、声を殺して泣きながら、絵の描かれたスケッチブックを一心不乱に破いていく。全てのスケッチブックを破り終えた時は、部屋の床は雪が積もったかのごとく、真っ白に染まっていた。
それでも気は晴れず、通っていた絵画教室で使っていたノートまでも引き裂いた。その後は壁に貼られたポスターや絵画を一枚一枚乱暴に取り外しては、両手で細かく引き裂いていく。それらは、絵画教室や美術部の活動で描いてきた絵だ。紙の鋭い切れ端で指を切りまくって血まみれになっても、構わず破り続けた。
壁に貼られた最後のポスターを取り外し、思いっきり引き裂いた瞬間。
「――何してるのっ!」
いつの間にか部屋に入ってきた母に、後ろから強く抱き締められる。
「お、お母さん……」
不意打ちで抱き締められたことによって全身の力が抜け、両手から破りかけのポスターが滑り落ちた。気づけば、部屋の床一面は破られた紙片で覆われて、もはや一面の銀世界と成り果てていた。
絶対に叱られると思っていた。
「ビショビショじゃない。早く着替えなきゃ、風邪引いちゃうわよ」
「……え?」
母が最初に掛けてきた言葉は、それだった。
「杏? 何があったの?」
どういうわけか、母の声は落ち着いていた。改めて振り返ると、眩い太陽を思わせるいつもの優しい眼差しと、夕飯の匂いが染み付いた花の刺繍付きの白いエプロン。いつもと何一つ変わっていない母の姿を見た途端、止まっていた涙が次から次へと溢れ出した。
「うわぁぁぁぁぁぁん」
何があったのかちゃんと言葉に出来ないまま、母に真正面から抱きついて、大声を上げて泣いた。
悔しくて、悔しくて、死にそう。――そんな強い気持ちを、泣くことで表現する。泣くことが仕事である赤ちゃんに戻ったかのよう。
しかし、そんな私を母は窘めることも叱ることもなく、しっかり抱き締めて頭を優しく撫でてくれたのを覚えている。私は母の温もりに甘えながら、声が枯れるまでわんわん泣き続けていた。
あの日全て破り捨ててしまったため、私の絵は手元に一枚も残っていない。
そして、美術部を退部させられた日の翌日。
登校した私に待ち受けていたのは、周囲の冷たい視線と陰口。そして、机には美術室に置きっぱなしだった筆や水入れの道具、活動中に描いた絵が置かれていた。
話はあっという間に学校中に広まり、一週間もしないうちに、私は学年中から「盗作犯」と白い目で見られるようになった。
クラス内を漂う険悪な雰囲気に、普段から私のことを何かと見下していた佐伯さんが一早くのっかり、中心になって酷い嫌がらせをしてきた。何をされたかは思い出したくもない。ただ、嫌がらせをする佐伯さんは、遊びを楽しむように爛々と瞳を輝かせていたのを覚えている。
悪口言われるのは日常茶飯事。クラス全員から机を離され、あからさまに避けられるのも当たり前。直接関係の無い男子にまですれ違い様にわざとぶつけられたり、前から唾を掛けられたこともあった。佐伯さんの流した根も葉もない噂で、一部の一学年下の人にまで聞こえよがしに悪口を言われるようになった。
元々頭痛持ちのため月一の程度で体調崩していたが、事件以降は頻繁に体調を崩すようになり、中学二年の三学期は不登校状態に陥った。中学三年になってから高校受験のことを意識して徐々に行き始めたが、辛い日々は変わらなかった。学校は相変わらず休みがちとなり、一生に一度の大イベントになるはずの中学の修学旅行にも行っていない。
大好きな美術部に裏切られたあの日から、私は生き地獄に突き落とされたのだった。
~ ~ ~
あの頃の日々を思い出していくうちに、涙が止め処なくポロポロ溢れてくる。
今泣いていても、誰も助けに来てくれない。
雨の音しか聞こえない真っ暗闇の中、あの日の記憶の中の自分のように、一人で泣くことしか出来なかった。




