三
古今高校落語研究部。通称「落研」と呼ばれている。
活動内容は、名前の通り、落語の研究が主である。毎週火曜日の放課後に、普通校舎から少し離れたところに存在する部室棟校舎三階に位置する部室に集まって、ゆる~く活動している……という話であるが、部員全員がのほほんと、持ち寄ったお菓子を食べながら、ある者はゲームに熱中し、またある者は学校の課題に勤しみ……といった感じに、まるで自分の家のように自由気ままに過ごしているそうだ。
今のところ、部員は一年生の四人しかおらず、もし来年度、新入生が入って五人以上にならなければ、廃部も有り得ると先生方に脅されている。部活は元々五人以上で活動して成立するものであるらしく、このままの状態が続いたら、先生の手によって、落研は無かったものとされてしまう。
――以上が、少年の話である。
そして、少年の正体は、菜花と同じ一年生の落研現部長だということも、ここで知った。
「頼む、杏! 落研を救ってくれ! せめて、落研に、美しい桜の季節を迎えさせてやってくれぇっ!」
少年は、一通りの説明を終えると、今度は座布団の上で正座したまま、頭を床につけて懇願してきた。この姿を簡潔に言うならば、テレビのドラマやバラエティー番組でよく見る「土下座」である。
しかし、そんな鬼気迫るような表情で土下座されても、私は何の返事もしようがない。もう部活に入らないと心に決めているのも理由の一つでもあるが、そもそも、私はまだ中学生。勿論、私は今現在中学の制服を身に着けているから、部長にもそれは分かっていると思うけれど。
「あのぉ~、部長さん部長さん」
これまでずっと黙って聞いていた菜花だが、尚も土下座し続けている少年の背中を人差し指でツンツン突っつきながら、ニッコリと笑いかける。だが、その目は笑っていない。菜花の表情は、何かに喩えるならば、古くから伝わる岡目さんそのものだ。
「言っておくけど、夏休みを迎えるまでに新入生一人を集めればいいという話で、頑張る頑張らない以前に、桜の季節は迎えられるんですよねぇ。あと、ここにいる杏ちゃんはまだ中学生で、入試すら迎えていないのですが、それはご存知?」
揶揄いの含んだこの言葉に、少年は床に伏せていた顔をガバッと上げて、大きい声を上げる。
「そりゃ分かっているぞ! 今、杏が着てる鼠みたいな制服を見てるとな!」
「まぁ、そうだよねぇ……って、サラッと失礼なこと言うなぁっ!」
「お前もさっき肯定したろ!」
飛んでくる菜花の一喝を、勢いよく跳ね返す少年。野球に喩えると、矢のような速さで飛んでくる剛速球を、見事ホームランで打ち返しているようなものだ。
ちなみに、少年が言っていることは事実そのものだ。私の通っている公立中学校は、冬のブレザーから夏のジャンパースカートまでも、全て灰色の生地で作られている。同級生達が「まさに溝鼠」と陰口叩いている姿をしょっちゅう見ているので、正面切って「鼠」と言われても、感じるものがない。というか、あんな中学校なんて、どうでも良い。
「杏、ナッパと同じ古今高校受けるんだろ!? 受かったらで良いから、頼む!」
「ひゃあっ!」
ぼんやり考え事をしていると、相変わらずなまはげのような怖い形相をしている少年の顔が突然ドアップになった。少年が、今にもお互いの鼻の先が触れそうな距離まで近づいてきたことに恐怖し、思わず後退りしてしまった。
「部長、近過ぎぃっ!」
バシッ!
菜花の短い怒鳴り声と一緒に、あの巨大ハリセンによる鋭い音が部屋中に響き渡る。その後の展開は言うまでも無いが、雪だるまのごとく二つ重なったたんこぶ頭の少年は、床に倒れ込み、再び死体に戻った。
しかし、それは一瞬の出来事だった。
「そうだ、杏は何処の部活に入っていたんだ!? それを落研の活動にも取り入れるから!」
何と、三秒も経たないうちに少年は生き返り、まるで飼い主に飛びつく犬のごとく、再び私に迫ってきた。距離は先程よりも近くはないものの、唇の微かな震えも見落とさないといわんばかりに、顔をズイッと突き出して私の表情を凝視する少年。
その質問は、今の私にとって、かさぶたで蓋をされた治りかけの傷の皮膚を根こそぎ剥くようなものだ。無残にもむき出しになった傷跡は、みるみるうちに血が滲みだし、それと一緒に痛みが湧きあがってくる。痛くて、痛くて、もう限界だ。
しかし、痛がってのたうち回る惨めな姿も、会ったばかりの少年に見せたくない。ましてや泣いているところなんて、もってのほかだ。だから、美術部を辞めたということを感づかれないように、普通の表情で話さなければ。
「び、美術部です。も、もう引退しましたけど……」
咳払いを一度し、平静を装いながら、相手が聞き違えないようなハッキリとした声で答える。これが、今の私に出来ること。少なくとも、涙を一滴も流さなければ、私の目標は達成だ。
「杏、絵描けるのかっ!? えっ、部活でどんなことやってたんだ!? イラスト? 油絵? デッサン? それとも、まさかの漫画か!?」
すっかり興味を持っただろう少年は、宝石のごとく瞳をキラキラと煌めかせながら、同じ姿勢のまま聞いてきた。その姿は、もはや、幼稚園か保育園に新しくやってきた先生に次々と質問攻めをする園児にしか見えない。
「え、えっと……ぽ、ポスター描いたり……あっ、あとは、が、合唱コンとか、三年生を送る会とかの、えっと、かっ、飾りを作ったり……あっ、た、体育祭で、えっと、応援旗を作ったり……よ、要するに、まぁ雑用部というところ……」
他人が聞いたらドン引きされるレベルに吃りながらも、目の前にいる少年にどうにか美術部の活動内容を伝えた。今思えば、少年にこうやって長々と話したのは、これで初めてだったと思う。
私は、家族以外の人と話すのが元々苦手で、初対面の人や異性の人と話すとなると、緊張のあまり吃ってしまったり、黙り込んで一言も喋らなくなるのが常であった。それは、小さい頃からずっと続いていたことであるが、去年美術部を退部して以降は、階段を一気に転げ落ちるように、それが悪化した。
『盗作するなんて、サイッテー』
『ねえ、知ってる? あいつは、人の作品をパクる盗作犯なんだよ』
不意に、いつか言われた言葉が胸に蘇り、パックリ開いた傷跡をさらに抉ってくる。
もう二度と、傷つきたくない。もう辛い思いをするのは、嫌。だから、私は、中学を卒業し、高校や大学に入っても、一生部活には入らないって決めていた。
きっと、今目の前にいる少年も、落語に触れていなさそうな私の姿(実際のところ、全くもって触れていない)、落語とは真逆の趣味、そして誰もが鬱陶しいと思うようなオドオドした喋り方から、私を落研に誘うのを諦めてくれるだろう――。
「うおぉぉっ、ポスター描いていたのか!? やっべえ、絵を描くことが好きとか、マジ凄すぎるぞ! 安心しろ、落研に入っても、好きな時に絵を描いて良いぞ! よっしゃ、これから落語研究兼美術部に改名するぞぉぉぉおっ!」
しかし、少年は諦める素振りを見せるどころか、太陽のような眩しい光を、瞳にギラギラ灯している。おまけに、私の得意分野である「絵」に固執し過ぎるあまり、勝手に部活の名前までも変えようとしているとは。
少年にはかなり失礼だけれど、ほんの一瞬、「この人は日本人?」という疑問が脳に浮かんでしまった。
「あ、あの――」
「というわけで、頼むっ! 役職に美術担当を増設するから、古今高校入学したら、是非とも、落研に入ってくれっ!」
少年による、本日二度目の土下座が披露される。
「部長帰れぇぇぇえっ!」
ついにブチ切れた菜花は、念力を込めるように、ハリセンを両手で固く握りしめる。そして、土下座したままの少年にハリセンを振り上げ、三回目の制裁を下そうとした瞬間。
「ただいま~。今日は早く帰ってきちゃった~。あれ、誰かお友達が来ているの?」
階下のほうから、ドアを開ける音と共に、帰ってきた母の穏やかな声が聞こえてきた。
「あっ、おかえり~! うん、ちょっと、部活の会議をやっててね~」
まるで手品のごとく鬼のような怖い表情を一気に緩め、いつもの穏やかな顔でスキップするように部屋を出る菜花。その後ろ姿を小走りで追っていく私。
少年には申し訳無いけれど、このまま二人きりになるのはあまりにも気まずいし、何しろ自分が上手く喋れないものだから、少年が顔を上げる前に……置き去りにしてしまった。
「ま、待て……」
冷え切った二階の廊下に、置いて行かれた少年の恨み籠った声が哀しく響き渡った。
* * *
その日の夜十時頃のことだった。
「杏ちゃーん、入っていい?」
勉強しようにも手がつかず、机の上に広がる真っ白なノートや参考書の上に突っ伏して呆然としていると、部屋のドアのノックと一緒に菜花の声が聞こえてきた。
「うん」
のろのろと椅子から立ち上がり、ドアを開けて、菜花を迎え入れた。どうやらお風呂上りに直行で来たようで、まだシットリ濡れている菜花の髪からはグレープフルーツを思わせるような良い香りが漂ってくる。そういえば新しいシャンプーを買ったとか言ってたっけ。
私は、菜花を迎え入れると、再び椅子に座って、入試頻出と言われている故事成語がビッシリ並んだプリントを眺める。しかし、今日は一語も頭に入ってこない。何故なら、今、私の頭の中には、受験勉強以外のことで占めていて、それどころではなかったからだ。
「――ごめんね、杏ちゃん。今日、かなり辛い話題だったでしょ? 部長が言ったこと、忘れて良いからね?」
すると、菜花が私の両肩をそっと掴み、自分のほうに抱き寄せてきた。それだけでなく、まるで小さい子どもをあやすように、優しく肩を叩いてくれる。お風呂上り特有の火照っている手の温もりをしっかりと両肩に感じた途端、思わず涙ぐんでしまう。
「それと、部長に杏ちゃんのこと、勝手に色々喋ってごめんね。でも、美術部のことは喋ってないから、心配しないで。あいつ、結構自由奔放な奴だけど、まさかここまでグイグイ行くなんて……しかも、勝手に『杏』なんて呼び捨てして……」
私のことは、全て菜花から聞いただろうということは、あの少年が「姉貴」と言った時点で察していた。それについて、恨むつもりは無い。きっと、何気ない会話の中で、家族の話題になった時に、軽く話した程度だろう。
あれからどうしたのかというと、少年は、我が家の夕食が終わるまで居座ったのだ。
今日の夕食はカレーライスだったが、少年は遠慮するどころか美味しそうに食べ進め、母に勧められるままにお代わりまでした。そして、風船のごとく膨らんだお腹を抱えながら、上機嫌で帰路についたのだ。
『杏、受験頑張ってな!』
少年が帰る前、私に対してそう言い残していたが、その中には「受かったら落研に来いよ!」という隠しメッセージが込められているだろう。その時に見た少年の瞳は、完全に何かを期待し切っていた。
「でも、大丈夫! 部長のことは明日しっかり叱っておくから! 杏ちゃんが合格しても、あいつが迂闊に近づかないように、ちゃんと監視しておくよ!」
光の纏った太陽のような明るい声に、小さく頷いた。その弾みで、瞼の縁に溜まった涙が何筋か頬に零れ落ちた。
「もう、こんなことで泣かないの! また目がウサギさんになっちゃうよ?」
菜花がニコッと笑いながら、頬に流れた涙をサッと両手で拭ってくれた。それは、小さい頃から、よくされていたものだ。今よりももっと弱虫だった私が泣いた時、母や菜花は必ずそうやって両手で涙を拭いてくれる。
「そうそう、勉強に集中出来なかったら、一旦ちょっと距離を置いて、お風呂でも入ったほうがいいかもよ?」
「あ……」
今更ながら、自分がお風呂に入っていないことに気づいた。ただでさえ、今の自分の髪は長いから、お風呂に入ってから髪を乾かすまでの動作を早目にやらなければ、寝る時間が遅くなってしまう。
私は椅子から立ち上がり、ドアを開けて、菜花と一緒に廊下に出た。部屋を出た直後に菜花と別れ、電気のついた明るい廊下を一人で歩きだす。
『頼む! 古今高校の落研に入ってくれぇっ!』
ふと、少年の言葉と、あの凛とした強い瞳が、頭の中に浮かんでくる。今日の少年のことは忘れていいと菜花に言われたばかりであるが、まるで油が紙に染みるように、記憶から離れようとしない。忘れたいはずなのに、どうしてか忘れることが出来ない。
(そういえば、あの人の名前って何だっけ)
しかし、忘れられないという割には、肝心な部分が抜け落ちているという間抜けっぷり。自己紹介されたはずなのに、それを簡単に忘れてしまう位には、かなりインパクトの強い出会い方ということであろう。
ちなみに、どうでもいい話であるが、母が新しく下ろしてくれたシャンプーの香りの正体は、シトラス。グレープフルーツのような、甘酸っぱい香りがしていた。