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おいでませ落語研究部へ  作者: 椿
睦月〈晩冬〉 ~古典芸能部一年 南雲千草~
2/52

 その日の、午後三時過ぎ頃。

空は相変わらず青く晴れているものの、冷え切った北風が容赦無く吹きつけてきているせいか、今は「寒い」の感覚を通り越して、もはや「痛い」。そういえば、いつものテレビニュースの朝の天気予報コーナーで、気象予報士の見慣れたお姉さんが「今日は今年一番の寒さになるでしょう!」と屈託の無い笑顔で断言していた気がする。

 人気の少ない通学路をトボトボ歩いていたら、いつの間にか、クリーム色の壁と赤い屋根が目立つ二階建ての自分の家に着いていた。持っていた鍵を使って開けようとするが、今日は何故か鍵は掛かっていなかった。

(お母さん、いるのかな……)

 一瞬そんな思いが脳裏を過ったが、すぐに「それはない」と打ち消した。何故なら、今日午後からカルチャー教室の講師をするから多分夜まで帰って来ないと、朝食の席で母が言っていたのを思い出したからだ。

(菜花?)

 しかし、その考えもすぐに霧のごとく消えた。中学よりも自由が利いているという噂の高校でも、テスト期間で無い限りこんな早くには帰って来ないだろう。

 最終的に「母はカルチャー教室に行っていない」と無理に結論付け、ドアをガチャリと開けた。しかし、靴が多く並んでいる玄関ホールに、母がいつも履いている白いヒールは見当たらず、代わりに置いてあったのは白っぽい汚れが目立つ茶色の革靴。誰のものかは分かっている。

「菜花~っ!」

 家中に響くような大声で呼び掛けるものの、返事は返ってこない。しかし、返事しないだけで、家の何処かにいることを何となく感じ取った。

もしかしたら、菜花が体調を崩して学校を早退し、二階で寝込んでいるのかもしれない……と考えたが、すぐに「その線は無い」と思った。何故なら、菜花はすぐに体調を崩す私と違って、滅多に風邪ひかない健康体のはずだから。

 とりあえず家に入ろうと、自分自身も履いていた靴を脱ごうとする。ここで、菜花の革靴の横に、もう一つ白っぽい汚れと傷が目立っている真っ黒の革靴が揃えて置いてあることに気づいた。しかも、サイズは菜花よりも少し大きいように見える。

「お父さん?」

 それは絶対有り得ない、と思った。父はサラリーマンで、夜の九時か十時に帰って来るのが当たり前だ。それに、仮に早く帰ってきたとしても、父は常に一階のリビングにいる人だから私の声にすぐ気づくはず。第一、父の履いている仕事用の靴は、母が毎日磨いている甲斐があってかいつも綺麗だ。こんな汚れているはずがない。

 誰だろうと考えながら上り框に座って靴を脱いでいると、トタトタと階段のほうから人が降りてくる音が聞こえてきた。

 菜花だ!

 足音を聞いた途端、今日一日あったことで暗く澱んでいた胸の奥がパアッと晴れ渡り、固く強張っていた頬が自然に緩んでくる。

 今日は学校で嫌なことが沢山あったから、早く菜花の顔を見たかった。大きな期待を胸に、パッと階段のほうへ振り返った。

「……え?」

 しかし、そこには菜花がいなかった。代わりに、自分の視界に映り込んできたのは、菜花が着ているような上下紺色のブレザーを身に纏った見知らぬ少年。夢でも見ているのかと思い、高速で瞬きをしたり、目を擦ったりしてみるものの、その少年は相変わらずそこに存在している。

 この人は、誰だ。

 何が起こっているのか分からず、私のほうから聞きたい事は山程あるのに、喉に食べ物か何かが詰まってしまったかのごとく声が出ない。

 それから間もなく、少年のほうから信じられない言葉が発せられた。

「お前……アンズか?」

 石になったかのごとく、一瞬にして全身が固まった。血流も止まってしまったかのごとく、血の気がサーッと引いていく。

 何故この人は私の名前を知っているのとか、この人は誰とか、何しに家に来ていたのとか、幾つかの疑問が頭の中を駆け巡っていたが、それらは遥か遠くへ吹っ飛んでいく。空っぽになった頭にジワジワと湧きあがるのは、今まで歩んできた人生で感じたことのなかった底知れない恐怖。

「きゃああああっ!」

 とにかく力の限り悲鳴を上げた。それからすぐに、持っていた鞄を床に投げ出し、後ろにある玄関のドアへ走って行った。その僅かな間、ショックで固まった脳を無理矢理回転させ、必死に逃げ道を考える。

確か、住宅街を抜けて大通りに出たところに、交番があったはずだ。そこに走って逃げ込めば、きっと――。

「待ってくれぇっ! 俺は泥棒でも変態でもない!」

 玄関のドアを開けて三歩位走った時、背中に切羽詰まった声を受けると同時に、手首をガシッと強く握られた。掴んだ手があの少年のものだということは、彼の弁明する声が聞こえる前から気づいていた。

「やっ、やだ、離してっ!」

 私は必死に抵抗し、掴まれた手首を振りほどこうとする。しかし、少年はその力強い手を緩めようとせず、尚も叫び続けてきた。

「頼む、信じてくれ! 俺は、あいつの同級生だ! お前の姉貴の知り合いだ! 杏!」

「えっ?」

 少年が発した「同級生」と「姉貴の知り合い」という単語。普段から必要以上に警戒心が高い割に単純思考な私は、その言葉にあっさりと反応し、抵抗を一気に緩めてしまった。それから、改めて少年の顔をじっくり見た。

「……ゴホン。驚かせて悪かった。俺は、古今(ここん)高校一年の黄蘗(きはだ)晴人(はると)。今日は、ナッパ……逢坂菜花に用があってここに来ていたんだ」

 咳払いの後、神妙な顔つきで話し出す少年。サボテンの如くツンツンにはねている髪型で、見た感じ、ワックスも何も付けていない癖っ毛だということが何となく分かる。髪型以外は、ピアスやシャツ出しなどといった目立つような格好をしていない。一言で説明するならば、「何処にでもいるような、平凡な男子高生」。

しかし、その中で私が一番気になったのは、群れの先頭に立つ狼を思わせるような凛とした二つの瞳。栄養満点のプックリ膨らんだ団栗を思わせるクリクリの丸い目の形だけれども、そこには迷いや戸惑いは映し出されておらず、ましてや悪意の欠片も無い。何も濁っていない、綺麗な湖のごとく澄み切ったそれは、私だけをただ一点に映し出している。

 この人は、何でこんなにも、綺麗な目をしているんだろう。

 しかし、そんなことを思ったのも束の間。少年は、クリクリした瞳をさらに大きくしながら私のほうをジッと見据え、またもや信じられないことを言ってきたのだ。

「おぉ……やっぱりナッパの欠片もねえ……お前、本当にナッパの妹か!?」

 グサッ。

 胸に、鋭くとがった何かが突き刺さるのを感じた。見ず知らずの少年が発した言葉は、今まで生きていて一番気にしているものだった。

「い、妹です……間違っていません……」

「お、おい杏……ど、どうしてそんな怖い顔してんだ? もしや、もうそろそろおやつの時間だから、腹減ったのか?」

 しかも、言った張本人は慌てているが、何処が悪いのかは見当もついていないらしい。そんな少年の姿から、悪意を込めて言われるよりも、見たまま無邪気に言われるほうがショックだという感情を、今日初めて思い知った。

(前言撤回っ!)

 正面切って失礼なことを言う人に、「綺麗な目をしている」と思った自分が恥ずかしい。身体の内部から怒りが込み上がってくるのを感じるが、それを口に出来ない小心者の私は、ただ惚けた顔をしている少年を睨みつけることしか出来なかった。



 これが、初めてあの人と出会った瞬間。

 正直、こんなインパクトの強い出会い方は、今まで歩んできた人生を振り返ってみて一度も無かった。そして、多分だけれども、それ以上の強烈な出会いをすることは一生無い気がする。



* *  *


「ごめん、杏ちゃん! あの時、ちょっとうたた寝しちゃって、杏ちゃんの声にも全然気づかなかった! ごめん!」

 かぐわしい紅茶と甘いクッキーの匂いが立ち込める部屋にて。女の子らしさが殆ど感じられない真っ青なクッションに腰を下ろしている私に対し、ほぼ全ての事情を把握した菜花が、神様を拝み倒すかのごとく頭を何度も下げて謝ってくる。

「本当だよ……もう心臓が止まるのかと思った……」

「本当にごめんね! この人、普段から変な奴だから注意深く見守っていなきゃいけないのは分かっていたけど、つい寝ちゃって……ごめんね!」

 米つきバッタのようにピョコピョコと頭を上下運動させて謝る菜花。その仕草と表情から、真剣に謝っていることは分かった。だから、菜花のことは許したい。

「変な奴って何だよ! 俺を要注意人物みてえに言うなよ! つうか、変人はお前のほうだろ!」

 菜花に「この人」と指された少年は、威嚇する猫のごとく、目を鋭く吊り上げながら抗議している。

 ここは、菜花の部屋。白と茶色を基調としたシンプルな部屋で、少年が来るという事実を予め知っていたのか、部屋は一応片付けられている。今は、部屋の真ん中に置かれている小さな正方形のテーブルを三人で囲んでいる状態だ。

「大体、杏ちゃんが『菜花』って言ってる時点で、私の家族だって分かるじゃん! そんなノコノコ出てきたら、泥棒や痴漢とかに勘違いされるの当たり前でしょ!? しかも、妹らしき人に対して、普通『お前は杏か?』なんて言う!? まずは挨拶しなさいよ!」

「俺をほったらかして、呑気にグーグー寝てた奴が言う台詞か!」

 少年の言葉に、負けじと反論する菜花。その後から始まった二人の言い争いを見る限り、菜花のほうが正論を言っていて、それに対して少年はムキになって屁理屈を叫んでいるように思える。喩えるならば、菜花がお母さんで、少年は小学生低学年位の息子のように見える。

「な……菜花……」

 どうすればいいのか分からないから、とりあえず隣にいる菜花に助けを求める。本当は少年に話しかけたいけれど異性と話し慣れていない私にとって、それはハードルが高いことだ。ここ最近、学校でもまともに男子と話していないのに。

「ん? どうしたの?」

 それまで続いていた言い合いを一旦中断させ、心配しなくてもいいよと言うようにニコッと笑いかける菜花。少年に向けていた怖い表情は、何処にも見当たらない。

 すると、菜花の表情を見ただろう少年が、今度は眉をクッキリと八の字にさせ、しゃがんだまま瞬きするようなスピードで約一メートル後退りし出す。少年は、今にも吐きそうに顔を歪め手を口元に抑えながら訴える。

「これが噂のシス……うえぇ、キモッ」

「はあぁ!? 『キモッ』ってどういう意味!?」

 瞬時に怖い表情に戻った菜花はバッと立ち上がり、右手に白いものを持ちながら、尚も怯えた表情をする少年の元へ歩いて行く。菜花は少年の前に立つと、その右手を高く振り上げた。

 パーンッ!

空気をパンパンに詰められた風船が割れるような乾いた音が一回、部屋の中に響き渡る。

「ヴッ……」

 まともに攻撃を食らった少年は、地の底から湧き上がったかのような呻き声を上げると同時に、床にドサッと倒れ込んだ。そんな少年の頭には、見るだけでかなり痛そうな巨大たんこぶが膨れ上がる。

「な、菜花……!」

「どうしたの?」

 菜花は、倒れている少年にクルッと背を向け、まるで何事も無かったように再びニコッと笑いかける。いつもはその笑顔を見るだけでホッとするものだが、少年への恐ろしい制裁を見てしまった今は、恐怖の感情しか湧いてこない。

しかも、菜花が今手に持っているのは、お笑い芸人が物理的に痛い突っ込みを入れる際に使うような大きいハリセン。勿論、こんな暴力的な制裁を下す姉の姿を見るのは、今回が初めてだ。

「何で、ハリセンなんて持っているの……?」

「いやぁ、高校に入ったら、ちょっと周りが変人揃いで止むを得ずにねぇ。あっ、杏ちゃんは勿論、女の子にはやらないから安心して!」

「う、うん……」

 しかし、ハリセンを片手に持ったままでニッコリと笑いかけられても、胸の中で渦巻く恐怖は簡単に退いてくれない。「もし今後菜花を怒らせたら……」という思いが脳裏を過った瞬間、まるで氷塊を直接身体に押し付けられているような悪寒を全身に感じた。

「ところで、今日はどうしたの? 学校、早く終わったの?」

 動揺がある程度収まったところで、改めて、菜花に一番聞きたかったことを聞く。少年が菜花とどんな関係なのか、それが知りたい。

「今日は、元から午前授業のみだったのよね。何か入試業務とかで」

「え~、早帰りとか良いなぁ。でも、何で家に?」

「今日、あの後校舎立ち入り禁止になって、私達追い出されたのよねぇ。それで……でも、こいつがどうしてもミーティングやりたがって……杏ちゃんが帰ってくる前までには終わらせたかったけど、私ったら寝ちゃって……」

 それまではいつものお姉さん口調で話していた菜花だが、話が進んでいくうちに言葉が途切れていき、最終的には言葉も思いつかなくなったのかとうとう黙り込んでしまった。この状況を言葉に表すならば、窮地に追い詰められているという表現が正しいだろう。

 弱っていく菜花の姿を見て、どんどん居たたまれなくなっていく。

 恐らく、落語研究部の集まりを家でやることになったのだろう。菜花が古今高校に入って、落語研究部に入っていることは流石の私も知っている。

 美術部を退部させられて以降、私は部活の話がとても苦手になった。菜花が所属している落語研究部の話は食卓や団欒の場でちょこちょこ聞いていたが、その度に泣いてしまったため、菜花は気を遣って部活の話をしないようにしていた。今の状況は、私にとって辛いものだと分かっているから、菜花の中で申し訳無い気持ちでいっぱいなのは分かる。

「いいよ、私のこと気にしなくても……」

 菜花の目を見て、笑いかけてみる。いつも、母や菜花が私にしているような、大きな笑顔を目指して。

だけど、笑顔を作ろうと必死に上げた頬が、次第に重くなっていくのを感じる。辛い時こそ笑えというのはよく聞くが、笑うのも辛い時は一体どうすればいいのだろうか。正直、泣くのも我慢しているのに。

「やだ、そんな顔しないでよ。ごめんね」

 案の定、菜花にも止められた。余程私が下手な愛想笑いをしていたのだろうか、目の前の姉はますます申し訳無さそうな表情をしていた。

「――杏っ!」

 暫しの間、死体と化していた少年が突如生き返ったかと思うと、またもや私の名前を呼んできた。しかも、一回目に呼ばれた時の探る感じは何処にもない。少年は、堂々とした真剣な表情で、自信満々に、短く言い切ったのだ。

「あ……」

 いきなり名前を呼ばれたところで、何と答えればいいのか分からない。いや、言いたいことはあるけれど、それを簡単に言語化出来れば、一生苦労することは無いだろう。

 すると少年は、最初出会った時に見た大きな瞳で、私をしっかりと見据えながらこう言った。

「頼む! 古今高校の落研に入ってくれぇっ!」


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