演目『希望の光』
もう部活に入らないって、決めたはずなのに――。
私が初めてあの人と出会ったのは、中学三年生。部活も行事も一段落し、誰もが本腰を上げて受験勉強に取り掛かり始めた、十一月の半ばだった。
「はあぁぁ~」
分厚い教科書やノートが詰まった学校指定のスクールリュックを玄関のたたきにドサッと置くと、足から崩れ落ちるように上がり框に座り込んだ。と同時に、自分でも驚く位の大きな溜息が、口から漏れ出た。ダラダラ引き摺っていた眠気はほぼ半分覚めたというのに、まるで大きな岩石を背負っているかのような重さを、身体全体に感じる。
これから学校行かなきゃいけないのは分かっているけれど、心と身体が全くついていかない感覚だ。
「菜花~、ほら学校遅れちゃうでしょ!」
「もぉ~、分かってるよ~! 朝ご飯いらないっ!」
「何言ってんの!」
開け放たれたリビングの扉から聞こえてくるのは、言い合いをしているような、二人の声。よく目立つ呆れ声は母のものであり、もう一方の怒鳴るような声は高校生の姉のものである。姉はよく寝坊をするので、毎朝家を出るまでの間は本当に慌ただしい。我が家の朝は、縁日の準備を行っているかのごとく忙しいのが当たり前だ。
言い合う声と慌ただしく走り回る足音をぼんやり聞きながら、重苦しい体に鞭打って、ヨロヨロと立ち上がる。クローゼットのような大きい靴箱の扉に埋め込まれた鏡の前に立って、身だしなみを確認するためだ。
まず鏡に映ったのは、プラスチック製の黒ゴムで二つ結びをした、胸の下あたりまでの長い髪。それと一緒に、一際冴えない自分の顔が映る。
続いて、丸襟の白いブラウスを覆う灰色のジャケットと、膝下丈の灰色のボックススカートといった、鼠を思わせるような野暮ったい制服を着た自分の姿が目に入る。この制服はもう三年も着ているのに、未だに着られているような感じがする。
地味な制服を着た自分の姿を鏡で見るたび、こう思わずにはいられなくなる。――早く、あんな中学校から卒業してしまいたい。
「杏ちゃん、おまたせっ!」
「……菜花」
しばらくして、漸く支度を終えた菜花が、愛用している水色のリュックサックを背負いながら、玄関のほうへ駆けてきた。その右手に握られているのは、母に無理矢理持たされたのだろう、真っ赤な苺ジャムが塗りたくられたトースト。それは、ついさっき私が朝食として食べたものでもある。
菜花は、私より一つ年上の姉で、現在高校一年生だ。中学と高校、通学先はお互い別々だけど、朝は途中の分かれ道まで一緒に行くのが日課だ。
肩に掛からない位に短く切り揃えられた、艶やかな黒髪(別名ベリーショート)。キリッと引き締まった顔。規則正しく着こなした紺のブレザー上下。曲がったところは見られない、真っ直ぐに整えられた紅いリボン。鼠のような野暮ったい姿をしている私とは対照的に、菜花はいつも格好良い身なりをしている。
「この子は毎日朝ご飯抜こうとするんだから、困ったものだわ。もっとちゃんと早起きすればいいのに」
菜花に続いて、昔から見慣れた花の刺繍入りの白いエプロンをかけた母が、慌ただしい足音を立てながら玄関に来る。いつもは穏やかで優しい笑みを浮かべている母だが、寝坊する菜花に毎回手を焼かされているからか完全に呆れ顔だ。
「だって、今日は数学のテストだもん。昨日は、生物と英語の予習が多かったし……それに……」
菜花は、トーストをモグモグ食べながら、蚊の鳴くような声で言い訳を述べる。口の中に食べ物を詰めているせいか、カ行とサ行が全てハ行に聞こえてくる。普段は滑舌が良いのに。
母は、大きい溜息をもう一度つくと、今度は私のほうに目を向けてきた。
「杏も、夜更かししないで、ちゃんと寝なさいよ。試験の結果が良くても、体調崩したら元も子も無いからね?」
「う、うん……」
「ほら、元気出して! 高校に入っちゃえば、色んな子が入って来るから、全て変わるわよ! あと五か月耐えたら、杏もビックリする位に素敵な学校生活が待っているって!」
余程萎れた顔をしていたのだろうか。母が両肩をバンッと叩いて励ましてくれる。私の視界には、空よりも大きい母の笑顔が入って来るが、三秒見ただけでパッと目を逸らす。母の笑っている顔は昔から大好きだけれども、今はそれを見るのが辛くて仕方がない。
「行ってきまーす!」
菜花と声を揃えて母に挨拶した後、玄関のドアを開けて外に出る。今日は快晴で、濃く塗られた水彩絵の具のように透き通った青い空に、雲一つも見当たらない。しかし、朝特有の冷え切った空気が突き刺さるかのごとく肌に感じ、思わず身震いをした。
「杏ちゃん、ちゃんと寝てる?」
菜花が、トーストの残りをかじりながら聞いてくる。母がいつもしているような、心配の目つきをしながら。
「もう、全然。何か、昨日はよく眠れなくて……勉強のし過ぎかなと思ったけど、十一時には布団に入ったし……本当に、何でだろうねぇ」
ハハハと、途方に暮れたように笑いながら話す。しかし、菜花はつられて笑うことがなく、相変わらず真剣な目つきのままだ。
「というか、昨日も何か言われて、泣きながら色々考えこんじゃったんでしょ?」
「えっ、な、何で分かったのっ」
「そりゃ、目がウサギさんになっているもの。お母さんも、あの時は夜更かしって言っていたけど、本当は気づいていたと思うよ?」
「うぅ……お母さんまで……」
だからあの時、母は少々大袈裟に励ましてくれたのか。納得すると同時に、急に恥ずかしくなって、思わず顔を両手で覆う。家を出る前に、鏡の前で身だしなみチェックしたはずなのに、目の腫れまでは見ていなかった。
「あんな酷い奴らの言葉なんて気にしなくていいのに。もっと堂々としてなって!」
励ますように背中をバンと叩きながら、カラカラ笑ってくれる菜花。私も笑おうとしたが、頬が強張っているせいか、口の両端が上手く上がらない。そもそも、今笑いたい気分ではなく、むしろ泣きたいという気持ちのほうが大きい。無理して笑っている。
「そんな、無理して笑わなくていいって! 家族にまで気を遣っていたら、余計疲れちゃうでしょ?」
「うん……」
菜花が、家を出る前の母のように、ニッと笑いかけてくれる。こんなグズでのろまな妹なのに、菜花はいつも明るく話し掛けてくれて味方してくれる。昔から自慢の姉だ。
こんなに色々してもらっているのに、自分は意見を言うどころかただ頷くことしか出来ない。家族にはこれ以上心配掛けたくないのに、自分のことで心配を掛けている事実がとても情けない。
「そうそう、聞いて! 昨日さ――」
それから、駅に向かう分かれ道までの通学路を、制服の違う姉妹で何気ない話をしながら、肩を並べて歩いていた。人気がまだ少ない朝の住宅街を、菜花と一緒に歩くのは、私にとって幸せに感じる日課の一つだ。
小さい頃から、菜花との仲は、とても良い。たまに小さな喧嘩したり、菜花にきつく叱られることはあるけれど、一日以上続いた試しは無い。それよりも、二人一緒になってこうして笑い合っている時間のほうが長いと思う。性格も趣味嗜好だけに留まらず、普段している服装や髪型までも、お互いに正反対なのに。
今、私が一番安心出来るのは、大好きな菜花と一緒にいること。それは、小さい頃から一ミリも変わっていないことで、これからも変わることがないと思っている。
* * *
少女漫画や小説で描かれている中学校生活は、部活や行事、友人関係、ついには恋愛……キラキラと輝いている主人公中心に動いているものだ。しかし、それは二次元の世界限定の幻想だと思っている。当時は憧れをも感じていたが、今は何も感じない。
市立第一中学校の三年三組の教室は、受験生特有のピリピリモードの欠片も見当たらない位に賑やか過ぎる。授業終わった直後の休み時間なんて、日曜日の動物園よりも騒がしいと思っている。
給食終わりの、昼休みのこと。この時間はお腹が満たされているからか、特に五月蠅い。
「ねえねえ聞いた? 次の数学さ、抜き打ちテストやるらしいよ?」
「嘘でしょお!? マジ、あのジジイKY過ぎる! ウチら受験生なんだから気ぃ遣えよ!」
「ミキ! やばいよ、成績超ピンチだよ! 次の模試で成績下がったら、塾もう一日増やされるよぉ! マジ何なの、うちのクソババア!」
「え~っ、最悪じゃん! うちのババアも毎日うるさくて、本当消えろって感じ!」
「おいおいおい、聞いたか? 山村の奴、方丈高校受けるんだってよ!」
「あのウンコが方丈!? 無理無理、あいつは馬鹿だから、その辺の三流がお似合いだぜ!」
「やっべ、言えてる!」
私を含めて受験初経験者しかいないからか、私のクラスである三年三組は、とことん緊張感が緩み切っているように思える。そのせいか分からないけれど、ずっと人の悪口ばかりが聞こえてきてうんざりだ。受験勉強が思うように進まない、成績が上がらないという理由でイライラするのは分かるけれど、どうして周囲の人を貶し陥れようとしているのか。
私は、この三年三組を好きだと思ったことなんて一度も無い。悪意と敵意が銃弾のごとく飛び交う戦場だと思っている。どの漫画や本でも、中学三年生の教室は受験モードでピリピリしている風に描かれているのに、この教室は例外だ。
「あっ、逢坂さぁん!」
座っていた席から立ち上がり、戦場から抜け出そうとすると、甲高い女子の声で呼び止められた。誰だかは分かっている。
クラスのリーダー的存在である、佐伯梨々(りり)音。中学の頃から三年間同じクラスで、体操が上手いとのことで周囲から「体操部のエース」と評判が高い。おまけに佐伯さんの周りには男女構わずいつも誰かがいて、クラスの中で一番目立っているイケてるリーダーだ。
教室の各所から聞こえてくる悪口話では、佐伯さんの声が一番よく聞こえていた。
「悪いけど、これ片付け忘れちゃってさぁ。本当は私が給食当番だけど、今から塾の宿題やらなきゃだから、給食室まで宜しくっ!」
そう言って、佐伯さんは、綺麗に畳まれた牛乳パックがギッシリ詰められたプラスチックの籠を渡してきた。そこから漂ってくる牛乳の強烈な匂いが鼻の奥まで漂ってくる。
教室の壁に取り付けられている時計を見ると、昼休みは既に半分過ぎている。片付けが遅れたことを怒られるのが嫌だから、適当な理由をつけて私に押し付けようとしているのが見え見えだ。これまで佐伯さんには、掃除当番や日直の仕事を押し付けられたり、球技大会のチーム決めで私を露骨に仲間外れにしたりなど、散々な目に遭わされてきた。そして、ちょっと気に食わないことがあると、原因の相手が自分の友達だろうとすぐ陰で悪口を言う最悪な性格だ。
「ね、お願い!」
真っ先に頭の中で浮かんだ言葉は、「嫌だ、やりたくない」や「自分でやって」などといった断る言葉のみだ。しかし、小心者の私は実際に口にすることは出来ず、代わりに吐き出した言葉は「うん」だった。
「助かったぁ! 今度お礼するからねっ!」
出た、佐伯さんの口癖。今までそう言われてきて、一度もお礼されたことがない。
それから、佐伯さんは言った通り塾の宿題をするのかと思いきや、友達が集まっているところへ行き、再び悪口話で盛り上がっていた。
(こんなことだろうと思った……)
その場からノロノロと歩き出し、悪口に満ち溢れている戦場を出ようとした瞬間、佐伯さんグループのヒソヒソ話す声が聞こえてくる。本当は耳に入れたくないけれど、要らない情報までも敏感になっている自分の脳が勝手に反応して、無意識にその情報を取り込もうとしてしまう。厄介な性格だ。
「ねえねえ、りっちゃん。前から思っていたけど、逢坂さんってさ、ダサくない?」
「わっかる~! それに、何か臭くない?」
「それ思った! 風呂入ってないって、あの匂い!」
「まあ、あいつは盗作犯で美術部追放された身だからねぇ。同情出来ないわぁ」
「盗作とか、マジサイッテー! 人のアイデアを平気な顔で盗むとか有り得な~い! あの時は、春菜ちゃんが超可哀想だった!」
「本当それ。一発殴ってこようか? ビニール手袋装着して」
「止めなよ~! 手袋しても匂いが移るって! それに、今やっちゃったら、先生に目を付けられて、推薦取れなくなるよ!」
「それはマジで嫌!」
聞くに堪えない自分の悪口が、次々と耳の中に入り込んでくる。慌てて耳を塞いでも、塞ぎ切れていない僅かな隙間から侵入してきて、それが鋭い刃物として、グサグサと容赦無く胸に突き刺さってくる。
とても痛い。痛くて痛くて、もう耐えられない。
しかし、佐伯さんのところへ行って「違う!」と言う勇気も無い小心者の私は、聞こえない振りをして教室を出ることしか成す術が無かった。言ったところで、向こうは悪質な奴らだから、今度は被害者ぶって私がそれを言ったことにさせられるだろう。
「あ……」
扉をカラリと開けて出たところで、一人の同級生が目に留まる。彼女は美術部の同輩である永井未来さんで、去年まで一緒に活動してきた。
こんな時間帯に牛乳パックの籠を持っているせいで目立ったからか、永井さんも私の存在に気づいたらしい。次の瞬間、その人はその場で回れ右をして、小走りで立ち去って行った。背を向ける直前のほんの一瞬の間に見たのだが、明らかに私のほうを睨みつけていた。
永井さんは、先程佐伯さん達が言っていた『春菜ちゃん』では無い。だが、私はその人に顔も見たくない位に嫌われているのは確かだ。
廊下は、殆どの窓が開け放たれているせいで北極のように冷え切っている。そのため、人の気配があまりない。
「――盗作犯」
その直後、誰かの低い囁き声が、不意打ちで耳に入ってきた。
「ひゃっ!」
何の前触れも無く聞こえてきた声に驚き、その弾みで、持っていた牛乳パックの籠を地面に落としてしまった。それなりに人が行き交っていた廊下に大きな落下音が響き渡り、籠に詰まっていたパックが幾つか散乱した。運が悪いことに、落としたパックのうちの一つには、中身がかなり残っていたらしく、上履きの跡で薄汚れている水色の床に真っ白な牛乳が零れてしまう。
「聞いた、あの声? キッモ!」
「シッ! 盗作犯に聞こえるよ」
その前を通り過ぎるのは、顔見知りの女子生徒三人。彼女達は美術部の同級生では無いが、佐伯さんらが流した事実無根の噂を信じ込んで、言葉で攻撃してくる。
盗作なんて、全部真っ赤な嘘なのに、誰も信じてくれない。
「ねえねえ。かなちんは、高校入ったらどんな部活入りたい?」
「もっちろん、吹部に決まってるでしょ! あそこ、全国大会で優勝しちゃう位、強いんだよ!」
「かなちんファイト! 私は漫研かなぁ」
「え~っ、テニス部入るんじゃなかったの!?」
「だって漫画好きだし、描いてみようかなぁって!」
「なっつんの描いた漫画、超読みたい! 文化祭で買うからね!」
床に散乱した牛乳パックを拾い集めていると、二人組の女子生徒が楽しそうにお喋りをしながら、その脇を通り過ぎていく。スキップするみたいに弾んでいるその声に、敵意や嘲りは全く無いものの、それもかなり堪える。
「……どんな部活って……」
彼女達の言葉を、誰にも聞こえないような小声で繰り返す。改めて言葉にした途端、瞼に熱いものがじわじわと込み上がってくる。そして、瞬きをした瞬間、一粒の雫が瞼の縁から溢れ出し、真っ白い水溜まりの上に零れ落ちる。
牛乳の匂いは嫌いじゃない。だが、今はその匂いさえも拒んでいる。
私は、以前入っていた美術部で盗作犯に仕立てあげられ、ほぼ無理矢理辞めされられた。しかし、辞めても尚、皆に白い目で見られ、口汚く責められている。信頼していた仲間だけでなく、好きで入った部活にも好きな絵にも裏切られて全て失ったのだ。
全てのものに裏切られた去年のあの日、冷たい雨に濡れ、泣きながらこう誓ったのを今でもハッキリ覚えている。
もう一生、部活なんて入らない――。