第3話
翌日、昨日に引き続き、本日も雨。粒は小さいけれど、その分は数で補おうとするかのような、しっとりとした霧雨が降りしきる。
「おはよう、神城君っ」
そんな中、学校へと赴いた僕に声を掛けて、僕の右隣に腰掛ける昨日の女性。
「おはよう」
昨夜、あれから杏にあの女性は誰だと尋ねた僕に対して、八つ当たりだったのだろう、思いつく限りの罵詈雑言を放ち、最終的には「明日になれば分かるっしょ――この鈍感」と一蹴されたこの鈍感な僕にでも、この女性が誰なのか分かる。
隠岐ひかり。昨日まで風邪をこじらせて学校を欠席していた右隣の席の主。僕とは小、中学校と同じクラスメイト。
「……あれから、杏ちゃんの機嫌はどうだった?」
口元を手のひらで隠し、他人に聞かれないように、肩と肩が触れ合う位の距離まで近づいて、こっそりと小声で僕に問いかける隠岐。
「あ~大丈夫だよ」
僕は仲の良いクラスメイトと楽しそうに雑談をしている杏を見て、苦笑いでそれに答える。
「……その様子だとかなりご機嫌斜めだったみたいだね……ごめんね」
そんな僕の顔を見て、隠岐がすまなそうに両手を合わせてから、僕を上目遣いで見つめる。
「――ひっかっり~。おはよ」
と、そこで杏がにこやかに登場。
「あっ、杏ちゃん。おはよう」
「うん。杏ねっ」
「杏ちゃん」
「杏」
バチバチと今にも火花でも散りそうな勢いで二人は笑顔で見つめあう。
人はたかだか、呼び方位でここまで熱くなれるものだろうか? 僕には全く理解不能である。
それにしても、隠岐ひかり。
つい、最近になってその存在を知った僕が知った風な口で言うのも何なのだが、彼女ってこんな性格をしていたか?
いや、性格だけではない。その髪型や口調、歩く姿やその仕草、その全てが僕の知っていた隠岐ひかりという女性とはかけ離れている。
その証拠に隠岐が登校してきてから、僕と杏を除く全員のクラスメイトが彼女の外見を見て、杏と言い争うその態度を見て、皆一様に目を丸くして驚いている。
「ねぇ、あんたは」
「ねぇ、神城君は」
「「――どっちの呼び方が可愛いと思う!?」」
変わってしまった、いや、変わり果ててしまったと表現しても過言ではない隠岐を観察していると、言い争っていた杏と隠岐が同時に鬼気迫る表情で、僕に向かってそう問いかけてくる。
「……えっ? ごめん、何の事?」
「あ~しの呼び方に決まってんでしょ? 絶対に杏だよねっ」
「杏ちゃんのほうが可愛いよねっ」
どうやら二人の間では決着が付かなかったらしく、第三者である僕に二人はその決着を委ねているらしい……正直、どっちでも良いのだが。
「そうだね。どう呼ぼうとその人の勝手だと思うけれど、どう呼ばれても、杏は杏だから杏で良いんじゃないかな?」
僕の答えはどっちでも良い。であるならば、本人が望むように呼ばれるのが一番良いのでは無いだろうか。
「っし! あんた分かってるわ~見直したっ」
「ぶ~絶対に身内びいきだよ」
「ひかりだって賛成したじゃんっ。ほら、杏って呼んでみ?」
「うぅ~……杏」
「っし! あ~しの完全勝利っ」
「はぁ~……まっ、神城君がそうしろって言うなら仕方ないよね」
何度も笑顔でガッツポーズを決める杏と、それを見てやれやれと言ったように肩を竦める隠岐。どうでも良い僕は何となく外を眺める。
小雨に濡れた窓には小さな水滴がいくつも付き、重力に引かれて窓を這い落ちる。その過程に小さな水滴が二つ、三つと集まって、大きな一つの塊となり、つ~っと流れ落ちる。
まるで、涙みたいだな。
そんな水滴を見て、ふと僕がそんな事を思ったのと同時に、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
その日の帰り道。僕は昨日とは違って、いつも通りに一人で帰っていた。流石に朝から降り続ける雨の中、傘も差さずに、または僕の傘をほぼ占領して登校するなんて愚かな事は杏もせず、いつも通りに友人達と寄り道をしてから帰宅するらしい。その友人の中に隠岐の姿もあった。
あれから僕の隣の席では大勢の人が休み時間の度に集まり、怒涛の勢いで、まるでテレビのレポーターのように、隠岐を取り囲んで質問攻めの嵐だった。
もっとも、あの隠岐の変わりようを見れば仕方の無い事だろう。隠岐と仲の良かった友人達すら目を皿のようにして驚いていたのだ、昨日、僕が気付かなかったのは仕方の無い事といえよう。それを杏は一目見て見抜いていたと言うのだから驚嘆の一言である。
左隣の席に居座っている僕には意識せずとも、その怒涛のような質問やら返答、様々な話が耳に流れ込んできた。
隠岐本人の談ではあるのだが、ここまで変化したのは昨日、正確には一昨日までらしいのだが、風邪をこじらせて入院していたらしいのだ。
その時に、死ぬかとすら思ったらしい。そして、後悔したらしい。今までやりたかった事、興味があった事、叶えたかった事、それら全て、一つたりとも自分はやっていない、思っているだけで行動に移せなかった、と。
風邪というものに特効薬は存在していない。だから、治る過程で、しかも入院するまで酷くなってしまって不安になり、もしかしたら死んでしまうと思ってしまう事はあるかもしれない。現に、体力の落ちた高齢者は風邪から肺炎などになり命を落とすケースも珍しくない。
しかし、隠岐の風邪は完治した。そして、隠岐はもう後悔しないように、行動を退院したその日に起こした。
それが短くした髪であり、その髪色であり、行動、言動である……ふむ、とても筋が通っている気がする。
しかし、髪の毛に関しては直ぐに変えられるだろうけれど――行動や言動。つまり、性格まで、そう簡単に普通、変えられるものだろうか?
隠岐だって、まだ短いとはいえ、おおよそ十五年は生きているのだ。それまでに培ったものをそう簡単に変えられるだろうか? 死ぬ思い、もとい、ほとんど死んだ状態にあった僕だって、そう易々と変わったりはしていないはずである。多分、それが普通。
だが、変わった隠岐の評判は概ね良好である。クラスの男たちはその多くの者が可愛らしくなった隠岐を見て、心を奪われたみたいである。
しかし、僕はどうにも腑に落ちないというか、今の隠岐を見ていると、何かが引っかかるのだ。それは小さな違和感。例えるならば魚の小骨が喉に引っかかってる位の違和感。だけれど、この違和感は変わった事に対するもので、時間と共に薄れゆくものかもしれない。
そんな事を考えながら歩いていると、ふと目に付く鳥居。いつも通る通学路にある、小さく寂れた神社へと続く鳥居だ。ほぼ毎日見る光景で、あまりにも見慣れた光景で逆にその存在を忘れてしまっていた。
ふと、何となく、足が神社に向く。
塗料が所々剥がれ落ちている鳥居を潜り、隙間から雑草が逞しく伸びる石段を上り、その途中にある、鬱蒼と生い茂る花粉症持ちには堪らない杉の木を何となく眺める。雨の日は花粉が飛びづらいと聞く、もしかしたら花粉症持ちにとって雨というものは行幸なのかもしれないと、そんなくだらない事を思って。
そうしてたどり着いた頂上には参道があり、僕はその端を歩く。長い事手入れもされず、風雨に晒されていたのだろう、手水舎には苔が生え、参道の近くに建てられた、所々欠けている灯篭にもその勢力を伸ばして我が春を謳歌しているようである。
周囲がその様な状態なのにも関わらず、古びて寂れた感じは隠せないけれど、拝殿の見た目はしっかりとしており、流石は日本式建築と感心する。と、同時に周囲の荒れた状態との比較でそう錯覚するのか、はたまた本当にそうなのか、この拝殿が霊験あらたかな物に感じられる。
神様だって、怪異には変わらず、きっと僕の主人である杏、ひいてはその眷属である僕自身もきっと、それらの天敵、アンチテーゼ的な存在なのだけれど、ここまで来ておいて参拝もせず帰るのは失礼と思い、僕はボロボロで今にも落ちてきそうな鈴は怖いので鳴らさず、お賽銭をひょいっと投げ入れて参拝する。願い事はきっと神様を困らせてしまうのでしない。誰だって、天敵にお願いされてそれを叶えてやろうとは思わないだろう。そもそも、たった五円しか投げ入れていない。例え、願ったとしても大したことは叶えてくれないだろう。どこかの誰かがこの世は等価交換と言っていたので間違いない。
さて、そろそろ帰ろうかと思って、踵を返すと、まるでそれを許さんとばかりに、バケツをひっくり返したような凄まじい勢いに雨脚が強まる。
その凄まじい勢いの雨量に僕は思わず顔をしかめて、ついてないなぁと心中でため息を吐いた――その刹那。
「――っ」
声が聞こえた気がした。
「ん?」
その小さな声を耳にして、拝殿を振り返って見るけれど、そこには人っ子一人、それどころか、動物一匹すら見当たらない。
「……気のせいかな?」
拝殿に当たった雨粒が人の声のように聞こえたのかもしれない。風に吹かれた木の葉の擦れ合いがそう聞こえたのかもしれない。
それでも、僕は首を傾げながらも一応は周囲を見回してみる。けれど、やっぱり人の気配なんてどこにも感じられず、僕は雨脚の強くなった空の下をため息交じりに歩き出した。