村の言い伝え
サキの家は村から続く、森への一本道の途中にありました。
お父さんは村の役場で働いています。何でも知っている、薪割りが得意なたくましいお父さんです。
お母さんはお父さんと結婚するまで、役場の近くの食堂で働いていました。今はサキと、生まれたばかりの弟をしっかり育てる、厳しくも優しいお母さんです。
サキは歩いて村の学校に通っています。三十分くらいかかります。
毎日、勉強道具と二人分のお弁当を持って通います。学校は役場の隣に建っていて、お昼ご飯をお父さんと一緒に食べるからです。学校の先生も友達もそれを知っていて、許してくれています。天気の良い日は、校庭がわりの広場でみんなで食べることもありました。
「お父さん」
「サキ、もうすぐ終わるからちょっと待ってておくれ」
「うん」
サキのお父さんは役場で『うけつけ』という仕事をしています。村の人たちの話を最初に聞いて、どの係に行ったらいいかを教えてあげるのです。
お父さんの机と向かい合って、三つの長椅子が置かれています。その一番前にひとりのおばあさんが座っていました。サキは、そのおばあさんの横に座りました。隣をのぞくと、おばあさんは目をつむり、うたた寝をしていました。
「テージさん、お待たせしました」
お父さんがおばあさんの名前を呼びました。でも、おばあさんは立ち上がりません。
「テージさん、今日はどんなご用ですか?」
もう一度声をかけても、おばあさんは起きません。
「困ったな……」
このおばあさんのご用が終わらなければ、お父さんと一緒にお昼を食べられないと思ったサキは、おばあさんの体をゆっくり揺すってみました。
だめでした。今度は声をかけてみました。
「おばあさん、おばあさん、お話はなあに?」
それでもやっぱり、おばあさんは目を覚ましませんでした。
お父さんが席を立って、近づいてきました。
「テージさん、起きてください。テージさんの番ですよ」
お父さんが少し強くおばあさんを揺すると、やっと薄目を開けてくれました。
「あら、ごめんなさい。はい、おしまいね。どうもありがとう」
おばあさんはそう言って立ち上がり、出口に歩いていってしまいました。その年にしてはしっかりとした足取りで、杖なんかも必要ありません。
村のお年寄りはテージさんだけでなく、みんな元気で働き者です。長く寝込んだり、大きなけがをして動けないなんてことは、めったにありません。サキには意味がよくわかりませんが、大人たちはその理由を『恵みのおかげだ』と言っています。
「お父さん、お話いいの?」
サキは自分のせいかと心配になって、小さな声で言いました。
「いいんだよ。よくあることさ。テージさんは散歩にここまで来て、時々ああして一休みしていくんだよ。お話は次でも大丈夫」
お父さんは答えました。
おばあさんは出口の前ではたと立ち止まり、サキとお父さんのほうを振り返りました。
「おじょうちゃん、森には近づいちゃいけないよ。鬼につかまってしまうからね」
おばあさんはそう言い残し、帰っていきました。
おばあさんが言ったこの言葉、村の子供たちは生まれてから何度となく聞かされています。家でも、学校でも、おつかいにいったお店でも。
『森には近づいちゃいけないよ。鬼につかまってしまうからね』
村の大人たちの全員が、呪文のように唱えます。そして、子供たちはきちんと守ります。ですから、森に近いサキの家に、友達が遊びにくることはありません。
一度だけ、サキが学校に通い始めてすぐの頃、元気のいい男の子がサキの家から森へ行こうとしました。サキは止めましたが、男の子は構わず走っていってしまいました。
森の入口のずっと手前で、木の柵が道を塞いでいます。『入るな』と書かれた看板も立っています。男の子はそこでサキのお父さんに見つかり、村中の大人に叱られました。それきり、サキの家には誰も来なくなりました。
そんなことがあっても、学校でサキが仲間はずれになるようなことはありませんでした。子供たちは、みんな仲良しです。
おばあさんが帰ったので、サキとお父さんは役場の休憩室でお弁当を食べ始めました。
「ねえ、お父さん」
お弁当の卵焼きを食べながら、サキが言いました。
「なんだい?」
お父さんも、卵焼きを食べながら言いました。
「今度の金曜日、何の日か知ってる?」
「え? 何の日だっけ?」
お父さんはとぼけたようすで答えました。
「もう、意地悪してる。あたしの十歳の誕生日でしょ」
サキはほっぺたをふくらませて言い返しました。
「プレゼント、もう決めちゃった?」
「んー、どうかな」
「あのね、あたしウサギのぬいぐるみが欲しいの。首に真っ赤なリボンを結んでる、真っ白いウサギのぬいぐるみ」
サキはそのぬいぐるみを、お母さんのおつかいで行った雑貨屋さんで見たのです。長い耳が左右に垂れ下がった、にんじんを大事そうに抱えたウサギでした。
「またぬいぐるみかい? 去年クマをあげたじゃないか」
「今度はウサギだもん」
サキは引き下がりません。
「そういえば、最近あれで遊んでないな」
「あ、う、うん」
サキは言葉に詰まりました。
「今年はな、サキがたくさんお勉強できるように、新しい石盤とチョークをあげようって、お母さんと決めたんだけどな」
村の子供たちは、何度も消して使える石盤で勉強します。足し算でも引き算でも、同じ問題を何度も繰り返して勉強します。文字も、何度も書いて練習できます。サキが使っている石盤はお母さんのお下がりで、表面がでこぼこになってしまいました。それでは上手に文字が書けません。だからお父さんとお母さんは、新しいのをプレゼントしようと決めていたのです。
古い石盤は捨てません。重石にしたり、かまどの修理に使います。
「どうしても、そのウサギのぬいぐるみが欲しいのかい?」
「うん」
「そうか、ならお母さんに相談してみよう」
「ありがとう、お父さん。大好き」
サキはお弁当を食べ終え、スキップしながら学校へ戻っていきました。
お父さんは本当に、ウサギのぬいぐるみをプレゼントしてくれるでしょうか。