愚図と獣
本日晴朗ナレドモ波高シ、とは誰の言葉だっただろうか。そんなことを少年はふと考えながら図書館の一角で目立たぬように本を読んでいる。吉野郁実、と書かれた生徒手帳が少年の制服のズボンのポケットから転がり出た。それを拾い、窓の外へ目をやった。街中はいつもとなんら変わりがない。
学校をサボった。
それも、一度や二度の頻度ではない。ここ二日間連続だ。郁実は普段は真面目なほうの生徒だったけれども、ときおりどうしてもこうやってサボタージュしてしまうくせがあった。
高校三年生。受験生という肩書きを背負いながら、毎日学校と家とそれから予備校の道を通う日々。ときどき予備校に行かない日が続けばそれでいいのかと脅され、学校ではやる気のでない郁実の態度が成績にも顕著に表れだした。家に帰れば母親からの脅迫じみた期待、ときおりそれが父になることもあった。
期待されなくなるということも、悲しいものだ。そう父が言っていたことを思い出す。確かに、一年生のころから高い予備校に通わせてもらっておいて、未だに成績が芳しくない自分を恥じている。期待に応えたい―そう思う。それでも、なぜ自分が期待されるのか分からなかった。たまたま今までが都合よくいっただけなのだ。そもそも今の高校にだって特別入りたくて入ったわけではなく、むしろ家が近所であること、それから自分の偏差値ならばするりと受かる場所だったから決めたのだ。中学三年間も充実していたかと言われるとそうでもない。高校の生活も自分の思うようなものではなかった。決して楽しいことがひとつもない、などということはなかったが、郁実のこれまでの人生はどちらかというと楽なほうへ楽な方へ流れていっただけで、自分でも大いにつまらない人間だと思ってしまう。こらえ性のない子だね、努力ができない子だね、とはよく言われたものだった。勉強が嫌いなわけではない。ただ、思うようにいかない自分が憎たらしくて仕方がない。親が望むような子にもなれない、学校が望むような生徒にもなれない、自分自身をうまく形作ることができない。
恥ずかしい。同時に自分が憎い。
そうは思ってもやはりできない。するとまた苛立たしくなって、なにもかもがおろそかになって。このままではいずれこのサボタージュも両親に露呈することになるだろう。そうなったときが本当に恐ろしい。
少し頭が良かっただけ。少しセンスがあっただけ。少し。この「少し」が郁実を苦しめる。
何者にもなれない。ずば抜けて才のある人々と出会うにつけ、郁実は自分がただ小器用に生きてきただけの人間だと知る。母親に自分は大したことのない、本当はしようもない息子だということを言ってみれば、わたしの子育てを馬鹿にしているのね、と怒られるし、かと言って他者を下に見るような発言をしてみれば傲慢だといって批難される。どちらも面倒だった。
才能というのは人の何十倍も飛び抜けてからはじめて認められるものだ。郁実のそれはよくて数倍、見栄えのする程度でしかない。
愚図だ、と思った。どうしようもない愚図だと。
けれど自分のことを嫌いにもなりきれないのだ。中島敦の小説に出てくる主人公のようだ。気位ばかり高くて、己の過ちに物事がなにもかも終わってしまってからはじめて気づくのだ。ただし彼の小説に現れる男はみな本当の才を持つ者ばかりで、屈折した考えをもってしまっている郁実には興味は湧きこそすれ、共感は一切としてできなかったのである。




