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其ノ七 ~千芹~

 悪霊……負の感情の塊……鬼……

 一月の頭の中には、まるで魚が泳ぐように、三つの言葉が巡る。

 信じられない。いや、とても受け入れがたい事だった。


「しんじられないって顔してるけど……もう、しんじるしかないよね?」


 白い着物の少女が言った通りだった。

 どれだけ現実離れした話でも、馬鹿馬鹿しいと否定してみても、

 一月自身が、身を以てその存在を思い知らされたのだから。

 悪霊……この少女が言う所の、『鬼』の存在を。


「……まあね」


 絞り出すように、一月は呟く。その一月の言葉を最後に、部屋には沈黙が流れる。

 雨水が屋根を叩く音、そして壁の時計が時を刻む音が、部屋の中に響いていた。

 それから、一体どのくらいの時間が経ったのだろう。


「……がっこう、行かなくてもいいの?」


 少女が言った言葉で、一月は我に戻った。


「……あ……」


 壁に掛かった時計に視線を向ける。時刻は既に、七時四十五分を回っていた。

 正直に言えば、学校に行くような精神状態では無かったが、無駄に欠席が増えるのは避けたいし、サボるのは良い気分では無い。

 着替えようとして、一月は自分が既に制服姿だったことに気付く。

 そう。あの廃屋には制服姿で行ったのだった。

 手早く教科書類を揃え、一月はカバンを片手に部屋を出た。


 一月の部屋には、白の着物姿の少女だけが残された。

 少女はきょろきょろと一月の部屋の中を見回す。

 彼女は、机の上に置かれた写真立てに収められた、二人の人間が映った写真に目を留めた。映っているのは、中学二年だった頃の一月と琴音。剣道着に身を包んでいる。

 そう。決勝で一月と琴音が対戦した時の、大会の写真だ。


「…………」


 無言で写真を見つめる少女の瞳は、心なしか悲しげだった。



  ◎  ◎  ◎



 下の階に降り、一月は居間へと足を運ぶ。

 すると居間でもやはり、雨音が響き渡っていた。昨日から雲行きは怪しかったが、結構な大雨のようだ。

 テーブルの上に、母親が残したメモが残っていた。


『今日は帰りが遅くなります。夕飯は冷蔵庫にカレーあるから』


 そのメモの側には、目玉焼きが乗った皿が置いてあった。

 一月の母が、彼の朝食として用意した物だろう。

 ラップを外すと、湯気が立った。作られてからさほど経っていないらしい。

 これならば、レンジで温める必要は無いようだ。


 台所に行き、一月は引き出しから箸を取り出す。

 そして今度は、下の戸棚を開けて、ソースを取り出した。

 ソースの容器のラベルには、『ウスターソース』と書かれている。

 一般に、トンカツや魚のフライにかけて食べるソースだ。


 椅子に座ると、一月はソースの蓋を外して、中身を目玉焼きにかけ始めた。目玉焼きには断然ソース。一月の持論である。


「なんでめだま焼きにそーすかけてるの? しょうゆでしょ? ふつうは」


「へっ!?」


 突然の声に驚いた一月は、思わず素っ頓狂な返事を返した。

 すると、いつからそこに居たのか、白い着物姿の少女が一月の隣にいた。


「君、いつからそこに……!?」


「え? さっきからいたよ」


 可愛げに小首を傾げ、少女は即答した。

 彼女は『さっきから』と言ったが、階段を下る足音は全く聴こえなかった。


「あと、わたしは『きみ』って名前じゃないよ」


 一月を間近で見つめながら、彼女は言った。


「……千芹ちせり。わたしのなまえ」


 ほんの数秒、考えるような表情を浮かべた後で、白い着物姿の少女は言う。

 彼女は自分の名を『千芹』と名乗ったが、一月は微かに違和感を覚えた。

 別に、名前が変だったというわけではない。

 気になったのは、彼女が数秒、考えるような表情を浮かべた事だ。

 普通、自分の名を名乗るのに、何かを考える必要は無い筈だが……


「千芹……」


 彼女が名乗った名前を、一月は繰り返した。

 ソースのかかった目玉焼きを口に運びつつ、着物姿の少女に問いかける。


「君は一体、誰なの? 廃屋で助けてくれたのは覚えてるけど」


 そう、一月はまだ、肝心な事を聞いていなかった。

 彼女が一体、何者なのか、である。

 廃屋に突然現れ、自分の窮地を救ってくれた彼女。現時点で分かるのは、自分に害を及ぼす存在ではない、ということ。それに、明らかに普通の人間ではないということだ。

これまでの出来事を振り返ってみても、それは明白である。


 すると、着物姿の幼い少女、千芹はその場でくるりと踵を返し、一月に後ろ姿を向ける。

 長く艶やかな黒髪が、まるで疾走する黒馬の尾のようになびいた。


「……なにかにたとえれば、わたしも、鬼みたいなものだよ」


 一月に背を向けたまま、幼い着物姿の少女は可憐な声で告げた。

 今気付くと、彼女は裸足である。その小さな足を、彼女は何にも覆っていなかった。


「え……!?」


 廃屋での出来事を思い出し、一月はぞっとする。

 しかし、千芹が続けた言葉で、彼は少しばかり安堵した。


「でもきにしないで、わたしはいつきのこと、ぜったいに傷つけないから」


 千芹は振り返り、一月に笑顔を向けた。

 見た目の幼い年齢に相応な、純粋で、無垢で、汚れ一つ無い笑顔。

 改めて見てみると、彼女は本当に可愛らしい女の子だった。

 年下はストライクゾーンではなかった筈の一月が、思わずどきりとする程に。


「急がないと、おくれちゃうよ?」


 千芹の言葉で、一月は我に返る。

 ソースのかかった目玉焼きを手早く平らげ、歯を磨き、顔も洗った。

 そして、カバンを片手に持ち、玄関へと向かう。


「僕は学校行くけど、君はどうするの?」


 少女を振り返り、一月は問う。


「いっしょに行く」


 千芹は即答した。

 が、言うまでもなく、それには問題があった。


「え、だけど……」


 そう。こんな着物姿の幼い少女を学校になど連れて行こうものなら、騒ぎになりかねない。

 登校途中に捨て猫を拾って、そのまま学校に持っていくだけでも大騒ぎになるのだ。


「しんぱいしないで」


 一月の胸中を察したのか、千芹は言葉を紡ぐ。


「いつき以外のひとには、わたしを見ることはできないし、こえも聞こえないから」


 普通ならば在り得ないような事だった。

 けれども、一月には何故か、彼女の言うことが信用できた。

 廃屋の出来事といい、この千芹と名乗る着物姿の少女といい、もう自分が居るのは、『人間の常識』が通じるような場所では無いのだ。


 一月は靴を履くと、膝を曲げて前かがみの姿勢になり、靴ひもを縛り直す。


(……琴音……)


 靴ひもを縛りながら、一月はふと、琴音の事を思い出した。

 命を失ってもなお、鬼と成ってこの世に居る彼女、廃屋で、一月を殺そうとした彼女。

 彼女は、今もあの廃屋に居る筈だろう。


(……昼休みにでも、もう一度あの事件のことを詳しく調べてみよう)


 今、自分に出来ることは何か――考えてみて、一月はその結論に辿りついた。

 一月の通う高校の図書室には、昔の新聞記事等が多数保管されている。

 調べてみれば、琴音が殺された二年前の事件、『女子中学生変死事件』について、何か掴めるかもしれない。


 靴ひもを縛り終え、一月は傘立てに数本立ててあった傘を一本、その手に握る。

 彼は玄関の扉を開け、学校へと向かう。

 その後ろには、白い着物姿の少女がついて歩いていた。






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