其ノ終 ~涙の行末~
命を失った時、私は一人の女の子と出会った。
背が小さくて、幼くて、真っ白な着物を着てて、そして私と同じく黒い髪を長く伸ばした、無垢そうで可愛らしい女の子と。
あなたは、誰?
そう問いかけようとしたけれど、私の口から発せられたのは全く違う言葉だった。
――千芹ちゃん。
気が付いた時、私はその女の子の名前を口に出していた。
初めて会った筈なのに、私はその子を知っていたのだ。まるで、ずっとずっと前から一緒に居たかのように。
――ことね。
女の子の方も、同じだった。
彼女も私を知っていて、はっきりと私の名前を口にした。
秋崎琴音。そう、それが私の名前。命をなくしてからも変わらない、大好きなお父さんとお母さんに貰った、大切な名前。
今、私が着ている白いワンピースを選んでくれたのも、私の両親。この服だと私の黒い髪が映えて綺麗だよって言ってくれて、私はそれがとても嬉しくて……小さかった頃から、私はよく白いワンピースを着ていた。
そしてもう一人、お父さんとお母さんの他に、私の白いワンピースを褒めてくれた人がいた。
小学校の頃、剣道を通じて知り合った一人の男の子。物静かだけれど、前向きで、とても優しい……私の大好きな友達。
名前は、金雀枝一月くん。ニックネームは、『いっちぃ』。
そうだ……彼はどこ? いっちぃは、どこに居るの?
――ことね。
女の子が、千芹ちゃんがゆっくりと私に歩み寄る。白い和服と黒い髪が揺れて、まるで幼かった頃の自分の姿を見ているような気持ちになる。
そして、千芹ちゃんは私に歩み寄ると、そっと私の手を握った。そして、その可愛らしい顔で私を見上げる。
今にも泣き出しそうなその表情は、悲しい色に溢れていた。
――どうしたの?
問いかけずには、いられなかった。この子が悲しそうにしていると、私までもが悲しみに支配されそうになるから。
――いつきは……あそこに、いるよ。
千芹ちゃんが指差す先を目で追うと、真っ白な光の中に浮かび上がるように、彼が……いっちぃの姿が見えた。
私が知っているいっちぃの面影は、無かった。クールだっていう事は知っていたけれど、彼はあんな風に塞ぎ込んでなんていなかったから。
――いつきが、危ないの。このままだと、鬼にころされちゃう……。
千芹ちゃんの言葉に、耳を疑った。
次の瞬間、別の方向から聞き覚えのある声がする。
――殺してやる。
心臓を鷲掴みにされたような感覚が、私の体を走り抜けた。
恐る恐る声の方向を振り返ると、真っ黒な煙とも霧とも分からない物に包まれた、一人の女の子の姿が……いや、あれは……『私』だ。間違いなく……私なのだ。
――どうして……!?
変わり果てた自分の姿に、私は戦慄した。
千芹ちゃんが、私に視線を戻す。
――あれは……ことねだよ。ことねが少なからず抱いていた負のかんじょうが……『鬼』になったの。
普通に聞けば、現実味など欠片も無い話。でも、どうしてだか分からないけれど……私は千芹ちゃんの言葉を受け入れていた。
だから、このままだといっちぃが危ないという事も分かった。
――いつきを助けにいこう、ことね。
私のワンピースをきゅっと握って、千芹ちゃんが提案する。
――でも、どうすればいいの? どうしたら……。
もう、私はこの世の人ではない。だから、いっちぃを助けに行く事なんて出来ない筈。
そう思っていたのだけれど。
――だいじょうぶ。
そう告げて、千芹ちゃんが私の腕を引き、姿勢を低くさせる。
そして彼女が私と額を重ねた瞬間――。
――うっ……!?
突然、私の体が千芹ちゃんに吸い寄せられ始める。驚いたけれど、痛みは無かった。
やがて、私は……千芹ちゃんと『同化』する。それは初めて味わう感覚、二人で一つの命を共有している――千芹ちゃんの中で、私は存在している。けれどあくまで、私は彼女の身を借りているだけで、彼女の中で私の意識だけが存在し続けている……。
上手く言い表せられないけれど、そんな感じだった。
――これで、いつきを助けに行けるよ。
戸惑いながらも、私は確かに千芹ちゃんの声を聞いた。
そして私は再びこの世に戻れて、待ち望んだ再会も。そう、彼に……いっちぃに会えた。二年という歳月は、彼をすっかり変えてしまったらしい。無口でクールなのは昔からだったけど、一層塞ぎ込んだ様子で、どこか辛そうで……彼を見ている私も、悲しい気持ちになりそうだった。
助けたいって思った。心の底から、強く……。
だけど、私にはいっちぃに言葉をかける事も許されない。あくまで私は、千芹ちゃんという器を借りているだけの存在なのだから。
でも、嬉しかった。だってもう一度彼の姿を間近で見れたし、声も聞けたから。でも、再開を喜んでばかりはいられなかったの。
それから、あり得ないような酷い事が起きて……人が何人も殺されて、しかもその悲劇を齎したのが、他の誰でもない私で……本当に罪悪感に押し潰されるような気持ちだった。
それでも、終わりは訪れた。降りやまない雨が存在しないように、明けない夜などありえないように……恐ろしい悪夢も、終わりを告げたの。辛い思いに打ちひしがれそうになっても、いっちぃは負けなかった、折れなかった。
怨念の塊と化したもう一人の私は、いっちぃと私……正確には千芹ちゃんの手で消滅させられて、血を重ねた悲劇の連鎖は、断ち切られた。
そして鬼が消え去った次の日、雨がやんだ土曜日……いっちぃが行きたいって言ったのは、意外な場所だった。
鵲村の墓地、私が安置されている場所だったのだ。
――もう、いいんだよ、ことね。
いっちぃと少しの会話をした後、千芹ちゃんが私に言った。
――もう、しょうたいを教えてもいいんだよ。いつきに……。
役目を終えた時、精霊は本来の人格を出す事を許される。つまり、千芹ちゃんという器を借りているだけだった私が、千芹ちゃんとしてではなく、秋崎琴音としていっちぃと話す事が許可される。そこには何の制約も、制限も存在しない。
待ちに待った時が、訪れたんだ。
嬉しかった。それと同時に、ちょっと困った気持ちになる。どうやっていっちぃに話しかけたらいいのか……思い浮かばくなってしまう程に。
躊躇っていると、千芹ちゃんが、
――どうしたの? それじゃ……話しやすくしてあげるね。
そう告げて、彼女は発した。
「ねえ、いつき?」
千芹ちゃんは何を言うつもりなのだろう、と思いつつ私は成り行きを見守る。
いっちぃは少しだけ、振り返った。
「ん?」
すると千芹ちゃんは続ける。
余りにも大胆で、恥ずかしい質問を……いっちぃへ投げかけたのだ。
「いつきは今でも、ことねの事がすき?」
……ひえっ!? ちょ、ちょっと何言ってるの……!?
もうこの世の人ではない私だけれど、羞恥心は健在だった。だけどほんの数秒で、恥ずかしさは不安に変わる。
その理由は、いっちぃが何て答えるのか、という事。
“いっちぃのバカ! 私の事なんて何も知らないくせに……大っ嫌い!”
私は、いっちぃにあんな酷い事を言った。無神経な態度で、中途半端な気遣いで、彼の傷を抉るような事をしてしまった。
赦してくれるわけない。
きっと怒ってる。
きっと嫌われた。
――だけど。
「勿論……大好きだよ」
いっちぃから発せられたのは……私が想像していたのとは、真逆の言葉だった。耳を疑ったけれど、それは間違いなく真実の声だ。
頭が真っ白になって、何も考えられなくなった。
返事する間もなく、いっちぃは続けた。その声が次第に、涙に震え始めているのが分かる。
「それなのに僕は、琴音にあんな酷い事言って……!」
背中を見せたまま、彼は続けた。
「あんな事言ったまま……謝る事も出来ないで……!」
背中を震わせながら、静かにすすり泣くいっちぃ。
彼も、私と同じだったんだ。投げつけてしまった言葉を後悔して、罪悪感を背負う日々を過ごしていた……。
――いつきの重荷を取り去ってあげられるのは、ことねだけだよ。
千芹ちゃんが、私の背中を押す。
――さあことね、いつきに伝えてあげて。ことねの口から、ことねの言葉で……。
この瞬間、私が……秋崎琴音が、千芹ちゃんと取って代わった。千芹ちゃんという器を借りているだけだった私が、表に出る事が出来るようになったんだ。
けれど私はすぐに言葉を発そうとせず、いっちぃの事を……肩を震わせて涙声を漏らす彼の後ろ姿を、見つめていた。
「……」
私を忘れないでいてくれた。
私を嫌わないでいてくれた。
私の事を、好きだって言ってくれた……。
泣いたらダメ、まだ……。
そして私は涙を堪えながら、『秋崎琴音』として数年ぶりの言葉をいっちぃへ発する。
「……ありがとね」
いっちぃは疑問交じりに、私の方を少しだけ振り返った。
「え?」
無理もないと思う。この会話の流れで感謝の言葉なんて、普通ならありえないから。
そして私は、発する。
ずっとずっと呼びたかった彼の名前を。私が付けた、彼へのニックネームを。
「いっちぃ」
それは、私にとってただのニックネームではなかった。
私がかつて、この世に確かに人として生きていて、彼と一緒に多くの時を過ごしたという証、彼との絆そのものなのだ。
いっちぃは微かに、困惑したような様子を見せる。
「いっちぃって、そんな琴音みたいな……」
だけど、彼は直ぐに気付いたのだろう。私を見つめるその眼差しが、みるみるうちに驚きの色に染まっていく。
「琴音……!?」
私の名前。
琴の音のように優しく、暖かい心を持った女の子になって欲しい……両親がそう願いを込めて私にくれた、大切な名前だ。
「まさか……琴音なの!?」
やっと、私は彼に正体を明かす事が出来た。千芹ちゃんと一緒に私は側に居た、いっちぃの力になっていたのだと、気付いてもらえたのだ。
悪夢が終わった今、ようやく私はいっちぃと二人で話す事を許されたんだ。そう、昔のあの頃のように。
嬉しくて嬉しくて、涙が込み上げた。瞳を満たしたそれが頬を伝い、零れ落ちていく。
でも、泣いてばかりいられない。お別れの時間は迫っている、その前に彼に、伝えたい事がある。
「お母さんや先生に、心配かけたらダメだよ」
「え……」
涙を拭おうともせずに、私は続けた。
「私の為にいつまでもしょげてるなんて……そんないっちぃ、絶対に許さないから」
ずっと私は、変わってしまったいっちぃの姿を見てきた。
誰とも話さず、人と接する事を避け、いつも独りきりで、苦しそうで……辛そうにしている彼の事を。彼がそうなった責任は、私にもあるのだ。だから、私が彼を変えなくちゃならない。ううん、純粋に私は、彼を救いたい。
いっちぃが悲しそうにしていると、私まで悲しい気持ちになってくるから。胸が締め付けられるような思いになるから。
だから私は、彼を暗い場所から連れ出したかった。
「琴音、僕は……!」
彼が私に告げようとした事は、もう分かっていた。
「言わなくてもいいよ、分かってる」
そして私は、気付いた。
私の指先が光の粒へと変わり、空へと昇り始めている。それが何を意味するのか。
別れの時だった。鬼が消えた以上、もう私の役目は終わった。もう、私がこの世に居られる理由は無い。
悲しいけれど、私はそれを自分の口でいっちぃに伝えなければならなかった。
「ごめん、私は役目を終えたから……もう、行かなくちゃ」
きっと、話したい事があったのは彼も同じだったのだろう。
でも、神様はそれを許してはくれなかった。こうして再び彼と会わせてくれただけでも、感謝しなくてはならないのだ。これ以上を望むのは、贅沢過ぎる。
いっちぃは、涙を浮かべながら言った。
「お別れなの?」
その通りだった。でも、私は決して『うん』とは言わなかった。
「大丈夫、またきっと……会えるよ」
始まりがあれば終わりがある、生まれてきたからには、いつかは死ななければならない。名残惜しいけれど、それが決まりだから。
でも、死んでしまった人は決して、完全に居なくなってしまう訳じゃない。その人が残した想いはちゃんと残され、この世にあり続けるのだ。良い想いも、そして悪い想いも。
私が今、こうしてここに居る事こそ……その証明だった。
「鬼が居る所には、いつだって私達が居るから……」
人の恨みや憎しみが連鎖し、この世に残されるのは確かだ。
でも、人が誰かを思いやる気持ち。慈しみや情愛の念だって、決して消える事は無い。
「もう少しだけ一緒に居たかったけど、また会える時まで……じゃあね……」
強い風が吹く。
次の瞬間、私は空に浮かび……いっちぃの事を見下ろしていた。もう、彼に私の姿は見えていなかった。
またいっちぃに会えるのはいつになるのか、そんな事は分からなかった。でも、永遠に会えないだなんて事は無い。それだけははっきり分かっていた。
そして、程なくして私はまた、千芹ちゃんという器を借りていっちぃの前に現れる事になる。
それがまさか、今からほんの数か月後の出来事だなんて……知る由も無かったんだ。
零れ落ちた涙の行末を、私は最後まで見届けた。