其ノ弐拾参 ~絶望~
暗転した後、一月の視界は再び廃屋の仏間を映す。
鬼と成った琴音が見せた光景が過ぎ、現実へと戻されたのだ。
「……!!」
青い光を纏った天庭を握る一月の前には、琴音が居た。
鬼の負念に取り込まれ、鬼と化した琴音が。
(僕の所為で、琴音は鬼に……)
一月は今し方知った信じられない事実に、戦慄した。
自身が過去に言った言葉で彼女は傷つき、絶望し――鬼に付け入られてしまった。
つまり、直接の原因では無くとも、一月は琴音が殺され、鬼と成る遠因を作ってしまっていた事になる。
《思い知れ……!!》
黒霧を体から瞬かせる琴音は、一月の間近まで歩み寄る。
天庭を握ったまま、一月は自身に近づいて来る彼女を見つめていた。
彼は後ろへ後退しようとも、天庭を振ろうともしなかった。
一月の瞳に映る琴音の姿が、徐々に大きくなっていく。
《いつき、近づかれたらあぶない!! もういちど天庭で……!!》
千芹の声が、少年の頭の中に。
「…………」
しかし、一月は返事を返そうとはしなかった。
彼は天庭を握った右手と、空いた左手を力が抜けたように下げている。
まるで戦う事を放棄し、相手に自身の命を捧げるように。
《……!?》
天庭に宿った状態でも、千芹は一月の異変に気付いた。
《いつき、どうしたの!? いつき!?》
一月は無言だった。
まるで、千芹の言葉など全く聞こえていないかのように、反応を示さない。
彼の表情には、絶望するような、驚愕するような、そして――悲しむような気持ちが感じ取れた。
(いつき、まさか……あの事を……!!)
天庭に一体化している千芹は、心中で呟く。
そのすぐ後。琴音が黒霧を発生させ、一月の首へ巻き付けた。
「んっ……!!」
首を締め付けられ、一月の口からその一文字が漏れ出た。
無意識のうちに口が開かれ、首に絡み付く黒霧が、一月にはこの上なく不快に感じられる。
だが、彼は何も抵抗しようとしなかった。
黒霧を振り払おうとも、天庭で反撃する様子も、全く見せない。
まるで生きることを投げ捨てたかのように、自身の命を鬼と成った琴音へ委ねるかのようだった。
《いつき、だめ!! 鬼にころされたら、いつきまで鬼に……!!》
千芹は理解していた。
一月には最早、戦意など残されてはいないのだ。
今、この場で――彼は自分の命を投げ捨てるつもりだと。
《いつき……!! いつき!!》
天庭に宿ったまま、白和服少女は少年の名を叫ぶ。
千芹は、一月が鬼に自ら殺されようとしている事を見過ごす事が出来ないのだ。
「……生きてる事なんて、僕にはもう出来ないよ」
独り言のように抑揚を欠いた言葉を、一月は返した。
まるで力を抜いていくように、彼は真剣を握る手の指を開いていく。
少年が何をしようとしているのか、千芹には容易に想像がついた。
《いつきやめて!! おねがい!!》
千芹の哀願する声の直後。
滑り落ちるように、一月の右手から天庭が落ちた。
鬼と戦う為の武器を、自身の生命線を――彼は自ら捨て去ったのだ。
天庭が床に落ち、仏間に重い金属音が響き渡る。
「……」
天庭をその場に落とした一月は、目を閉じる。
視界を闇で閉ざした彼の首を、黒霧は容赦なく締め付けていた。
一月には琴音に抵抗する手段など無いし、するつもりも無かった。
(琴音……殺したい程に、僕を恨んでいたんだね)
何故、鬼と成った琴音が自身に猛烈な殺意や憎しみを向け続けるのか。
二年前の九月二十三日の出来事を見せられた一月には、その理由が理解出来た。
直接でないと言えど、自身が殺される理由を作り出した一月を、彼女は――琴音は恨んでいたのだ。
眼前の琴音の姿が、一月にその事を暗示していた。
(僕に出来る事は、もう……)
琴音を死に追いやったことへの代償。
自身が犯した罪への贖罪に、一月は自らの命を投げ打つ事しか思いつかなかった。
自分を殺すことで、琴音の負念が少しでも収まるのならば――と。
目の前にいる少女がもう琴音では無いことは、一月は十分に理解していた。
しかし、自分が琴音が殺される原因を作り出したと言う事実は、変わらない。
「ぐ……っ……!!」
黒霧が、一月の首を締め続ける。
抵抗する意思を見せないにも関わらず、琴音は手加減する様子を見せない。
彼女の瞳には、哀れみも躊躇も、同情の気持ちも無かった。
あるのは一月に対する怒り、憎しみ、そして凄まじい殺意だけだった。
(僕に出来るただ一つの償いは、彼女に殺される事……)
想い人であり、大切な親友であった少女をこんな姿に変えたのは、自分。
絶望していた一月からは、生きる意思すらも消えかけていた。
黒霧がどれほど首を締め付けても、彼は少しの抵抗もしない。
少年は、自身の死に場所を定めていた。
この廃屋の仏間こそが、自身の最期を迎える場所であると。
「…………」
両目を固く閉じ、一月は自身を襲う苦しみに身を委ねていた。
この苦しみは、琴音を死に追いやった罪への罰なのだ。
そして、彼が意識を失いそうになった時――。
《だめだよ》
千芹の声が、一月の頭の中に。
「え……?」
薄く目を開き、一月は視線を仏間の床に落ちた天庭に向ける。
天庭の刃を覆う青い光が大きくなり、大きな青い光の玉と成る。
光の玉は天庭から離れ、宙へと浮く。
もう一度大きく発光すると同時に、光の中から一人の少女が姿を現した。
白い和服に身を包み、腰まで伸びた黒髪を持つ幼い少女。
千芹である。
「……!?」
千芹が天庭から離れると、天庭に纏っていた青い光は消え去る。
白和服少女は、和服の袂から小刀を取り出した。
それを片手に持ちつつ、彼女は黒霧で首を捕らえられている一月に、
「いつき……そんなのは、『つぐない』じゃない」
今度は頭に響く声では無く、はっきりと耳に聞こえる声だった。
彼女は小刀に指を当てて、
「唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽!!」
真言を唱える千芹の声は、幼くも可憐だった。
彼女の真言に共鳴するように、小刀が青い光を帯びる。
「よせ……っ……もう僕は……!!」
千芹が何をするつもりなのか、一月には容易に想像できた。
彼女は小刀で黒霧を断ち、自分を救うつもりなのだと。
だが、一月はそれを望んでいなかった。
「いきているっていう事は……とても大切で、とうといことだから」
そう呟き、千芹は青い小刀を振り上げ――。
一月の首を捕らえている黒霧を断ち切る。
「……っ」
黒霧が消え去り、一月の首は解放された。
しかし、一月は意識を失い、仏間の床へ崩れ落ちる。
首を締められていた時間が、今回はとても長かった所為だ。
(琴音……)
黒く染まり行く視界。
気絶間際、最後に一月の目に映ったのは、
《赦さない……絶対に……》
黒霧を纏う鬼と成った、琴音の姿だった。