其ノ弐拾弐 ~悲シキ真実~
「…………」
天庭を振り上げた一月は、直ぐに振り下ろそうとはしなかった。
一月の視線は、足元に伏す琴音に向けられている。
鬼と化した少女もまた、一月を見上げた。
そして――亡者の負念の集合体の少女は、一月に向けて言葉を発した。
《殺すのか? 私を……二度も》
「……!?」
鬼が発した言葉を、一月は理解出来なかった。
彼女が語尾に付けた、『二度も』という言葉の意味が分からなかったのだ。
「……どういう意味だ、『二度も』って……!?」
気が付くと、一月は天庭を降ろしていた。
鬼と化した琴音の言葉に、彼は気を奪われていたのだ。
《忘れたのか……? 私が何故、死ぬ事になったのか……!!》
琴音は、立ち上がった。
彼女の腹部の傷は既に塞がっており、最早跡形も無かった。
ゆらりゆらりと、幽霊を思わせる足取りで、琴音は一月との距離を詰める。
《お前が……私に何をしたのか……!!》
再び、琴音の声が一月の頭の中に。
彼女が歩みを進める度に、縺れた前髪が左右に揺れる。
「一体、何を言ってる……!?」
自らに向かって歩み寄って来る琴音に、一月は問いかける。
彼はもしかしたら、鬼が自身を惑わせようとしているとも思った。
だが、それ以上は何も言葉を返せなかった。
鬼と成った琴音の不気味さ、威圧感に、精神的に追い詰められているのだ。
《……!! いつき、だめ!! 耳をかさないで!!》
次に一月の頭に浮かんだのは、切迫した千芹の言葉。
しかし、白和服少女の言葉を聞く余裕など、一月には残されていなかった。
《……シラを切るのか……》
琴音は、一月の間近にまで距離を詰めた。
そして、彼女は下に向けていた視線を上に向け――少年を見た。
前髪の隙間から覗く、憎しみと殺意に満ちた恐ろしい瞳で。
「!!」
琴音の形相に、一月は戦慄した。
直ぐに彼女から離れようとしたが、その瞬間に琴音から、次の言葉が発せられた。
《だったら、教えてやる》
琴音は、その右手を一月に向かって伸ばす。
彼女の人差し指が、少年の額に触れた。
その瞬間――。
「!?」
一月の視界が、まるで黒いカーテンで覆い尽くされるかのように、暗転した。
意識が、まるで刈り取られるように遠く。
◎ ◎ ◎
(……!?)
目を開いた時、一月はその光景を見下ろしていた。
まるで空を飛んでいるかのように、自身の体が宙に浮いている。
ふと、彼は思い出した。視界が暗転する直前に、琴音が自身の額に指を触れた事を。
これは、鬼と化した琴音が自身に見せている光景――そう辿り着くのに、一月はさほどの時間を要しなかった。
(一体、何を見せるつもりなんだ……!?)
困惑しつつも、彼は眼下に広がったその光景を見つめる。
まず目に留まったのが、鵲村の公民館の屋根。
そして、公民館の入り口から出てくる、多くの人々。
人々は皆、男性も女性も黒い服に身を包んでいた。
(!? これって……!!)
一月は、自身が見下ろしている光景に既視感を抱いていた。
彼の予感は、公民館の入り口の横に立てられた立札に書かれた内容によって、確信へと変わる。
その内容とは、
『平成××年 九月二十三日。忌中 金雀枝栄一』
白字に筆筆で、そう書かれていた。
(父さんの、葬式……!!)
一月が見下ろしていたのは、一月の父の葬式の日の出来事だったのだ。
現在は亡き金雀枝一月の父、金雀枝栄一は、鵲村でも有名な大工職人。
家を建てるだけでなく、日曜大工として招かれたり、雨漏りを直したりなど――大工としての仕事に信念を持ち、村人へ多大な貢献を残した。
しかし、建設中の不慮の事故によって、帰らぬ人となってしまった。
金雀枝栄一が亡くなってから数か月後の事――彼の葬儀が行われた時の光景を、一月は見せられているのだ。
立札に書かれた年によれば、二年前だった。
(……!? 九月二十三日!!)
立札に書かれた日時に、一月は驚愕した。
二年前の九月二十三日――。
(琴音が亡くなる日の、前日!!)
そう。二年前の九月二十三日は、秋崎琴音が殺される日の一日前である。
途端、斎場として使用された公民館から、一人の少年が出てくる。
(あれは……僕……!?)
一月には一目で分かった。
今、数人の大人に混ざって公民館から出てきた少年は、紛れも無く自分自身であると。
二年前当時は、一月はまだ中学生だ。
(…………)
中学生の一月は、面持ちを悲しみに染めていた。
彼は、多くの人に貢献している父を尊敬していたのだ。
自身が誇りに思い、尊敬していた父が突然、居なくなってしまった。
眼下の光景を見つめる一月も、父が不幸に見舞われた時の気持ちをまだ覚えている。
しかし、今はその事を思い返している状況では無かった。
琴音が鬼に付け入られる原因となった出来事が、明かされるかもしれないのだから。
(でも、父さんの葬儀と琴音の死……どんな関係が……!?)
怪訝に思いつつも、一月は眼下に広がる、二年前の九月二十三日の光景を見守る。
公民館から出た中学生の一月は、中学校の制服姿だった。
学生にとっての一番の正装は制服。彼は制服姿で、父の葬儀に出席したのだ。
「うっ……!!」
公民館の入り口の側で、中学生の一月は父を失った悲しみに暮れていた。
片手で顔を覆い、その頬に涙を伝わらせている。
すると、一人の少女が彼を見つけ、駆け寄って行った。
一月と同じ中学校の女子用制服を身に纏った、長めの髪型をした少女。
他の誰でも無い、彼女だった。
(琴音……!?)
秋崎琴音。
一月の想い人であり、親友でもあった少女。
彼女はまだ鬼の姿では無く、普通の中学生の少女だった。
一月と仲の良かった琴音も、誼で一月の父の葬儀に出席したのである。
琴音は、中学生の一月に駆け寄ると、彼に声を掛けた。
「いっちぃ……」
その光景を見守っている一月にとっては、懐かしい呼び名だった。
中学生の一月は、琴音を振り返る。
彼の涙に潤んだ瞳に、少女の顔が映った。
「お父さんの事……残念だったね……」
「…………」
中学生の一月は、琴音の言葉に返事を返さなかった。
彼は視線を琴音から外す。
公民館前の庭の片隅で、中学の制服姿の少年と少女は佇んでいた。
悲しげに吹いた風が、二人の髪や制服を小さく靡かせる。
「気持ちは分かるけど、気を落とさないで……」
悲しみに暮れる一月を励ますつもりで、琴音は少年に言葉を掛けた。
しかし、
「気持ちが分かるとか、軽々しく言うな!!」
中学生の一月が、声を張り上げた。
彼は再び、琴音を振り返る。
「……!!」
一月の権幕に怯えるように、琴音は表情を変化させる。
「今の僕の気持ちは、誰にも分かる訳無い……!!」
「そんなことない、私にだって!!」
胸元で拳を握りつつ、琴音は中学生の一月に言う。
「私にだって分かるよ……? 今のいっちぃの気持ち……!!」
生前の琴音は、とても心優しい少女だった。
せめて少しでも、父親を失った一月の力になりたかった、彼女は、ただそれだけのつもりだったのだ。
「いいや、君には分からない!!」
しかし、琴音が続けようとした言葉を、中学生の一月は遮った。
そして、彼は言ってしまった。
琴音にとって最も残酷な――彼女の心を深く抉るその言葉を。
「だって君にはもう、お母さんもお父さんも居ないじゃないか!!」
言ってしまった直後、中学生の一月は自身の口を手で覆った。
「!!」
しかし、そんな行為は無意味だった。
言ってしまった言葉は戻らないし、取り消す事も出来ない。
(……!!)
その光景を見下ろしていた一月は、表情を驚愕に染めていた。
「……どうして?」
一時の沈黙の後、まるで呟くかのように、琴音が発した。
彼女の両目には涙が溜まっていて、涙の一雫が琴音の頬を伝い、滴り落ちた。
「どうして、そんなこと言うの……?」
「あ……!!」
琴音に対して、両親の話は『禁句』だったのだ。
幼い頃、琴音は両親を自動車事故で亡くし、祖母の家に引き取られて育った。
それから何年もの間、彼女は悲しみを表に出さないよう、気丈に振る舞っていた。
だが、一月の言葉で――彼女が必死に隠していた想いが、溢れ出す。
「ひどいよいっちぃ……!! 私だってもっと、お父さんとお母さんと一緒に居たかった、もっと楽しい思い出作りたかった、もっとお話ししたかった……!! それなのに……!!」
琴音は両手で顔を覆いつつ、両親への想いを募らせる。
彼女の声は、まるで震えるような涙声。
琴音の涙を見たのは、一月は初めてだった。
「琴音、ごめ……!!」
一月の表情から、先程までの権幕は消え去っていた。
彼は両手で顔を覆って涙声を漏らす琴音に手を伸ばしつつ、謝罪の言葉を紡ごうとする。
しかし、彼が伸ばそうとした手は、思い切り払われた。
まるで拒むかのように、琴音が一月の手を振り払ったのだ。
「いっちぃのバカ!! 私の気持ちなんて何も知らないくせに!!」
琴音は両手の拳を握り、涙声を張り上げた。
また一雫、彼女の頬から涙がしたたり落ちる。
一月に返事をさせる暇も与えずに、琴音は続けた。
「大っ嫌い!!」
そう言い残すと、琴音は踵を返して走り去っていく。
中学生の一月はその後ろ姿に手を伸ばした。
しかし、それ以上――彼女を引き留めようとはしなかった。
(思い出した……!! 全部……!!)
その光景を見ていた一月は、全て思い出していた。
琴音が殺される前日に、何があったのか。
そう、一月と琴音――これまで仲の良かった二人が、両親の事で喧嘩をしたのだ。
(……!! まさか……!!)
一月は、千芹の言葉を思い出した。
“だから何か……ことねにとって耐えられないような、とても悲しくて、とても辛いことがあったんだと思う”
琴音が殺される前日に起こった、琴音にとって耐えられなく、悲しく、辛い事。
鬼が琴音に付け入る隙を見出した出来事。
もしもそれが、今見せられた光景だったのだとしたら――。
浮かび上がった恐ろしい予感に、一月は心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚えた。
(琴音が殺されたのは……)
もしも、一月の予感が正しいのなら、
もしも、今見せられた光景が真実なら、
もしも、中学生の頃の一月が言った言葉で琴音が傷付き、彼女が鬼に付け入られる事になってしまったのなら――。
(……僕の、所為……!?)
琴音が殺される原因を作ってしまったのは、一月という事になる。
少年にとって、余りにも……悲し過ぎる真実だった。
(そんな……そんな!!)
嘘である事を願いたかった。
もし出来る事ならば、今の光景が鬼が自身を惑わせるために見せた、虚偽の光景である事を一月は願いたかった。
次の瞬間。一月の頭に再び、鬼と成った琴音の言葉が浮かぶ。
《分かったか? お前が私に何をしたのか……!!》
(……!!)
一月を責めるかのように、琴音は言葉を重ねる。
《お前の汚い言葉で私がどれ程傷付き、絶望したのか……!! 私がどれだけ辛かったのか……!!》
憎しみに満ちた少女の声が、一月を襲い続ける。
《それを知らないとは言わせない……!!》
何も、一月は言葉を返すことが出来なかった。
有無を言わせない威圧感に溢れる言葉を、彼はただ聞いている事しか出来ない。
《思い知れ……!! お前の犯した罪を、私の辛さを……思い知れっ!!》
その琴音の言葉の直後――再び一月の視界が、暗転した。