其ノ拾七 ~事ノ後~
青い光を纏らせた小刀を片手に、千芹は琴音へ向かって一直線に駆ける。
彼女の腰まで伸ばされた艶のある黒髪や、白い和服の袂が優雅に靡く。
《……!!》
琴音の視線が、千芹に向いた。
鬼と化した少女の発する、まるで浴びされるような殺意が千芹を包む。
だが、青い光を宿した小刀を持つ幼い少女は、怯まない。
千芹の凛とした瞳は、一月を捕らえている琴音を映していた。
《邪魔は、させない……》
一月を捕らえる傍らで、琴音はもう片方の手を伸ばす。
黒霧に身を包む少女が手を伸ばした先には、千芹の姿が。
(……!!)
首を黒霧で捕らえられつつも、一月は千芹の姿を視認していた。
そして同じく、彼女に向けて手を伸ばす琴音の姿も。
千芹に向けて手を伸ばす、鬼と化した琴音。
琴音に向けて一直線に走り寄る千芹。
このままではどうなるのか、一月には容易に想像が出来た。
(駄目だ、君も捕まる……!!)
そう。このままでは、千芹も同じように黒霧に捕らえられてしまう。
彼女の身を危惧した一月は千芹を制しようとするが、黒霧に首を締められ、声を出すことが出来ない。
刹那。琴音が伸ばした手から黒霧が発生し、まるでそれ自体が命を持つかのように、千芹に向かって伸びていく。
(危ない!!)
自身の命が危機に晒されている状況にも関わらず、一月は千芹の身を案ずる。
彼女が黒霧に捕らえられてしまう最悪の状況が、彼の頭に浮かんでいた。
しかし――状況は、一月の思わぬ方向へ転じる。
「我が行く先から、鬼の穢れを祓い退け賜え……!!」
自身に向かって迫り来る黒霧に正面から走り寄りつつ、千芹は小さな声で呟いた。
そして彼女は、小刀を握っている方では無い手を眼前に掲げ、印を結ぶ。
人差し指と中指を立てた印だ。
「阿毘羅吽欠蘇婆訶!!」
続いて千芹の口から発せられたのは、一月には意味不明な言葉だった。
小刀に青い光を宿した時とは違う、真言である。
「んっ!!」
黒霧が千芹に触れようとした瞬間――白和服少女は小さく声を漏らし、右腕を振り上げた。
琴音が発した黒霧が、彼女の純白の和服の袂に触れる――その瞬間だった。
バチッ、という雷が瞬くような音が発せられ、千芹と黒霧の境目の部分に、青い火花が迸る。
まるで川の中心に突き出た岩が流れを二又に分けるかのように、千芹を境に黒霧が分かれたのだ。
宛ら、千芹の純白の和服の袂が盾と成り、少女を黒霧から守ったかのような光景。
思いもしない防御だったのだろう、鬼と成った琴音の表情に驚きが浮かんだように、一月には思えた。
《……!?》
千芹は、黒霧を防いだだけでは止まらない。
白和服少女は琴音目がけて、居間を裸足で駆け続ける。
程なく、白和服少女が黒霧に包まれる琴音の眼前まで駆け寄った。
白い少女と黒い少女。仕掛けたのは、白い少女――千芹の方だった。
千芹は青い光を纏った小刀を振り上げ、琴音の胸を切り付けた。
先程と同じように、青い火花が散る。
《!!……》
痛みに表情を歪めるような仕草の後――千芹が切り付けた場所を境に、琴音の姿が消えていく。
同時に、一月の首を捕らえていた黒霧も、消滅した。
「ぐっ!!」
首の圧迫から解放された一月は、膝を崩した。
廃屋の時と同じように、彼は咳き込んだ。
一月の視界が歪み、激しい耳鳴りに襲われる。首を締められた影響だと、一月は思った。
「げほっ、げほっ……!!」
咳き込みつつ、一月は視線を上げる。
「……!!」
消えゆく琴音の両目が、一月と合う。
憎しみと殺意に満ちた彼女の瞳が、一月を見つめていた。
《絶対に……許さない……》
(……!?)
最後の言葉を残し、琴音は消え去った。
しかし、正常な身体状況では無かった一月には、琴音が残した言葉を理解する事は出来なかった。
◎ ◎ ◎
その後。
一月は直ぐに、気を失った母を背負い、村の病院へ連れて行った。
母と同じく一月も黒霧に捕まったものの、母程に長時間では無かったため、彼は事なきを得ていたのである。
しかし、母は長時間に渡って首を圧迫された上、首を吊り上げられもしていた。
彼女の体にその影響が及んでいないか、一月は危惧したのだ。
「ごめん一月、何か心配かけて……」
病院のパイプベッドの上に横になったまま、一月の母は傍らに立つ息子に言う。
一月の隣には千芹も居たが、母は息子の隣に立つ白和服少女に一切反応を示さない。
「別に。それより母さん、大丈夫?」
病室には、大きな窓があった。
鵲村に降り注ぐ雨は、未だに止んでいない。
「うん。でも、何だったのかしら、あの子……」
「あの子?」
一月は訊き返す。
ベッドの上で天井を見上げつつ、母は言う。
「居間にいきなり現れた、あの真っ黒な霧に包まれた女の子。どう見ても、普通の人間には見えなかったわ……」
恐らく、あの時の恐怖がまだ残っているのだろう。
一月には、母の声がどこか震えているように聞こえた。
「……」
母は、鬼と成った琴音を『真っ黒な霧に包まれた女の子』と言った。
一月の母は、息子と仲の良かった琴音の事を知っている。
にも関わらず、名前で呼ばないという事は――。
「お母さん……きづかなかったみたいだね。あれがことねだっていうこと」
一月が察していた事実を、千芹は口に出す。
彼女の声は母の耳には入らず、一月にだけ聞こえた。
気付かなかったと言えども、鬼と成った琴音の姿は生前とは似ても似つかない。
それに、あのような状況の中では、冷静に相手を見る事など出来ないだろう。
気付かなくても、無理は無い。
「黒い霧に包まれた女の子って……母さん、悪い夢でも見たんじゃない?」
夢などではない事は、一月は良く分かっていた。
けれども、説明したところで母が理解できるような事とは思えず、一先ず一月は無理のないように取り繕うことにする。
「そう言われてみたら釈然としないけど……気を失う前の事は、良く覚えていなくて……」
母はそう続けた。
「きっと、仕事の疲れが出たんだよ」
一月は言う。
とその後――病室のドアをノックする音と共に、ドアが少しだけ横に開く。
看護婦の女性の顔が、半分ほど開いたドアから覗いた。
「面会時間、終わりですよ」
「あ、はい」
看護婦に返事を返すと、一月は母に向き直る。
「じゃあ一月、横になっていれば良くなるってお医者様も言ってたから」
「分かった、また来るから……それじゃあ」
一月は踵を返し、病室の入り口のドアへと歩み寄る。
その後ろに、千芹も続いた。