其ノ拾五 ~急転~
教官室を後にした一月。
彼は道場の玄関に向かう途中で、ふと足を止めた。
「……」
彼の視線の先にあったのは、彼の足を止めたのは、修練場の隅に置かれていた木箱。
木箱には、数本の木刀と竹刀が立てて納められていた。
この道場に通っていた一月は知っている。
道場の生徒は通常、持ち前の竹刀や木刀を持ってくるのだが、何らかの事情で準備が出来なかったり、破損などでそのままでは使えない状態になってしまった場合に備え、道場は貸し出し用の木刀と竹刀を常備しているのだ。
木箱には、『貸し出し用の竹刀・木刀を使う場合は、必ず教員に申し出ましょう』と貼り紙がされていた。
「……」
無言のまま、一月は木箱に立てられた竹刀や木刀に歩み寄る。
一月以外の誰も居ない修練場には、耳障りな雨音だけが響き続けていた。
壁に掛けられた横文字の『心技体』の書筆が、一月を見下ろすように佇んでいる。
躊躇うような仕草の後、一月は手近にあった一本の木刀を手に取った。
剣道を辞めてから二年。数年振りに感じる木刀を握る感触に、彼は懐かしさを覚える。
「ふっ……!!」
息を吹くかのような声を漏らし、一月は頭上に半円を描くように木刀を振る。
そして、見えない相手が眼前に居るかのように、木刀を構えた。
(……何やってんだろ、僕……)
一月は構えを解き、木刀を降ろす。
二年前に剣道は辞めた筈なのに、何故自分は今、剣道の構えなど取ったのか。
ふと、一月の脳裏に、道場に入る際に会った青年の事が浮かんだ。
もしかしたら、今もなお剣道の練習に臨んでいる者を見かけた所為で、無意識に木刀を振るいたくなったのかもしれなかった。
(二年前にもう、剣道は辞めた筈なのに……)
木刀を木箱に戻し、一月は改めて、修練場の中を見渡す。
鵲村修剣道場の、修練場。
一月にとって、何処よりも思い出深い場所だった。
まだ剣道をやっていた頃の記憶が、琴音との思い出が、数多に詰まった場所。
「……琴音」
無意識に、一月はその名前を呼んでいた。
彼女が居た頃は、この剣道場で、彼女と共に稽古に励んでいた物だった。
追憶を辿るように、一月は思い返す。
最早何時の事だったのかも分からない、琴音が一月に教えた大事な事。
“聞いていっちぃ、これから『剣道家の心得』教えてあげるから”
彼女がそう言ったのは、一月と琴音が稽古に明け暮れていたある日の事。
琴音がその後に続けた言葉を、一月は覚えている。
心中で、一月は呟く。
(剣道家の心得。剣道家たる者、如何なる時も……)
と、その時。
「ねえ、いつき」
一月の後方から突然発せられた、可憐な少女の声。
聞き慣れた声だったものの、一月は驚く。
「!!」
振り返ると、千芹が一月の顔を見上げていた。
教官室の扉を開く音は聞こえなかったし、一月に歩み寄る際の足音も聞こえなかった。
一体、この幼い白和服少女はいつからそこにいたのか。
怪訝に思いつつも、一月は返事を返した。
「な、何?」
千芹は真っ直ぐに、一月の目を見つめていた。
そして彼女は――少年に問いかける。
「どうしていつき……剣道をやめたの?」
「え……」
特に責めるような言い方でも無く、千芹の口調は、ただ理由を尋ねるような物だった。
一月にとっては、思いもしない問いかけだった。
彼が答えあぐねていると、千芹は続ける。
「ことねが、いなくなったから?」
「っ……」
どうして、この子はそんな事を訊くのだろうか? 一月は思った。
彼は、考え込む。
「……そうかも知れない」
一月は、絞り出すかのように返した。
千芹から視線を外して、一月は言葉を続ける。
「琴音が居なくなってから、何だか……剣道をする気が起こらなくなって」
琴音が殺されてから、一月は強い喪失感に捕らわれた事を覚えている。
小学校の頃から恋心を抱いていた少女が、一番大切な友達だった彼女が突然居なくなり、剣道に気を向ける余裕など、ある筈が無かったのだ。
「彼女が一緒だったから、厳しい稽古にも耐えて来られたような気がしてた。だけど、琴音が居ない剣道場に足を運ぶのは、もう……」
ぽつりぽつりと、まるで雫が落ちるような口調で、一月は語る。
それから少しの間、一月も千芹も言葉を発せず、雨音だけが剣道場を支配する。
数秒の沈黙の後――千芹が、口を開いた。
「いつき……好きだったの? ことねの事」
「……!!」
幼い少女が発した言葉に、一月は驚嘆したような表情を浮かべる。
まさか、自身が琴音に対して抱いていた感情を言い当てられるとは、一月は思ってもいなかった。
一月から見て、千芹は幼く可憐な少女だった。けれども、精神年齢は見た目相応では無いのかも知れない。
「……」
千芹の問いかけ、一月は否定する気も起こらなかった。
否、否定する必要など無いと感じられた。
大人びていると言えども、相手は幼い子である上、一月以外の人間は認知できない存在であるのだから。
何よりも、自身の琴音に対する感情を偽るのは、嫌だった。
一月はその場で踵を返しつつ――横顔で、千芹に向かって頷いた。
彼は言葉で答えを発しなかったものの、白和服少女には答えが理解出来た。
◎ ◎ ◎
その後、一月と千芹は雨の降る鵲村を歩き、帰宅した。
一月は家のドアを開け、玄関に入る。
「ん?」
土間に揃えられていた、女性物の靴が目に留まった。
「どうしたの?」
「これ、母さんの靴だ……今日は遅くなるってメモで言ってたのに」
千芹の問いかけに、一月は答えた。
一月の記憶では確かに今朝、ダイニングテーブルに『今日は帰りが遅くなる』という旨を伝えるメモがあった筈である。
(そんなに長く、道場に居たのかな……?)
怪訝に思いつつも、一月は靴を脱ぎ揃え、家に入る。
千芹も裸足のまま、彼の後ろに続いた。
雨水でぬかるんだ道を歩いてきたにも関わらず、彼女の足には泥一つ付いていない。
一月は、居間に続くドアを開けた。
すると、身支度をする母の姿が目に留まる。
「母さん? 今日は遅くなるんじゃなかったの?」
一月は母の後ろ姿に声を掛ける、すると、一月の母は息子を振り返り、答えた。
「あ、お帰り一月。お母さんこれから直ぐに行かなくちゃならないから……カレー食べてて」
恐らくは仕事の都合だろう、と一月は推察する。
もしかしたら、あのメモは遅くまで帰って来られなかった場合に備え、残して行ったのかも知れない。
勿論一月の母は、息子の後ろに立っている白和服少女に反応を示さなかった。
「……分かった」
一月は居間と廊下を隔てるドアを開ける。その先は廊下で、突き当りには階段があった。
彼は階段を上がり、自室へ向かう。後ろには千芹が着いて歩いていた。
彼女が歩を進める度に、白和服の裾や袂、艶やかな黒髪が波打つ。
階段を上り、一月は自室のドアを開こうと手を伸ばす。
彼の手が、ドアノブを掴もうとした時――。
「き、きゃあああああぁあっ!!」
突然、下の階から――絶叫するような悲鳴が響き渡った。
どう考えても尋常では無い、絶叫するような女性の悲鳴である。
「!?」
一月と千芹は、ほぼ同時に下の階を振り返る。
「今のこえ、いつきのお母さんじゃない……!?」
白和服少女が漏らした頃には、一月はたった今上った階段を駆け下りていた。
けたたましい足音が、周囲に響き渡る。
(何だっていうんだよ……!?)
一月は、只ならぬ物を感じていた。
今、自身の母に大変なことが起きている――急がなければ、取り返しのつかない事になる、一月の第六感が、そう警告を発していた。
廃屋で、腐臭漂う仏間に続く襖を開けようとした時と同じ感覚だった。
「……!! いつき!!」
千芹は一月の背中に呼びかけたが、返事は返って来なかった。
階段を下りた一月は空かさず廊下を走り、居間へ続くドアを突き飛ばすように開け放ち、叫んだ。
「母さん!! どうし――」
居間の状況を目にした一月は、言葉を止めた。
否、止めざるを得なかった。
「っ!!……」
それは正しく、目を疑う光景だった。
母親一人しかいなかった筈の居間に、もう一人、人間の姿が在った。
いや、それは人間では無い。
体中から黒い煙のような物を瞬かせ、恐ろしい目を持つ少女――。
風も無いのに、その髪はまるで蜘蛛の巣のように靡き、広がっていた。
(こ、琴音……!?)
彼女の事を一月は忘れてない、忘れる筈が無い。
廃屋で遭遇した、鬼と成った琴音だった。
だが、以前遭遇した時よりも遥かに邪悪で、悍ましくて、恐ろしい物に見えた。
先程の居間とは一変し、周囲の空気が重く、冷たく感じられた。
《…………》
もつれた前髪の隙間から冷たい目を覗かせつつ、琴音は、その場に座り込んでいる一月の母に向かって、手を伸ばした。
「!!」
それからどうなるか、一月には容易に想像がついた。
廃屋で、一月がされた事と一緒だったからだ。
琴音の手から、黒い煙が伸び、まるでそれ自体が意志を持つかのように、一月の母の首に絡み付いた。
「ぐっ!!」
一月の母に、成す術など無かった。
次第に、琴音はゆっくりと黒い霧を発している腕を上げていく。
すると、黒い霧に首を捕らえられている一月の母の体も上がり――彼女の足が、床から離れた。
「ぐっ……うっ……!!」
首つりの状態で吊り上げられている一月の母、猛烈な苦しみが、彼女を襲っていた。
彼女は足を振り回すが、そんな行為は無意味に等しく、ただ空を掻くだけである。
「母さん!!」
一月は声を張り上げた。
何故、鬼と成った琴音がいきなりここに現れたのか。一月は疑問に思ったものの、そんな事を気にしている状況では無かった。
「うううっ……!!」
返事が返ってくる筈など、無かった。
琴音は、苦しむ一月の母を見つめていた。
憐みも同情も無く、琴音が一月の母に向けているのは、凄まじいまでの殺意だった。
《殺す……殺してやる……》
黒い霧に首を吊り上げられる一月の母、居間の恐ろしい状況を目の当たりにする一月。
耳が聞いた声では無かった。しかし、彼らは確かに、琴音の――鬼が発した意思を聞いた。