真実の顔
目の前に銃があった。無骨な鉄の塊。
使えば犯罪。持っても犯罪。そんなことは、考えるまでもなく頭では分かっていた。
誰かの足音と共に、粘着質な怒鳴り声が続々と近づいてくるのが分かった。「出て来い、殺してやる」。もう目の前だ。しかし、まだ見つかってはいない。逃げ道はある。だが、この狭い空間で姿を見られたら、確実に死ぬ。
逃げ切る方法は? どうすれば生き残れる?
頭は冷徹に状況を分析していたのに、身体は勝手に動いていた。
――生きろ。
反射的に目の前の銃を掴んだ。冷たい金属の感触が、手のひらに張り付く。
次の瞬間、扉が開く音と共に、殺意の塊が視界に入った。気づかれてしまった。
「死にたくなかったら止まれ!」
怒声はもはや雑音だった。必死に逃げる。後ろから迫る足音に、心臓が爆発しそうだった。
何かに躓く。視界がグラリと傾ぎ、地面に転がる。
終わった。
もう目の前だった。頭が真っ白になった。
目の前にいたのは、バケモノという言葉が一番似合う、見たこともない生き物。
その体は人間と見紛うほどだったが、顔は到底、人間とは思えないおぞましいものだった。その姿は、俺の持つあらゆる常識を粉々に砕いた。
パニックの中、身体は勝手に反応する。
銃口を向け、渾身の力を込めて引き金を引き切ろうとした。
――その瞬間、世界から色が消えたように、意識が遠のいた。
目を覚ますと、天井が視界に入った。「ここ、どこだ」。
粗削りの梁が剥き出しの、古い木造建築の建物の中だった。嗅いだことのない土と埃と血の匂い。
目の前には、誰かが倒れていた。死んでいる。
――そして、自分の右手には、あの時掴んだ銃が握られていた。
そんなまさか、と反射的に銃を投げ捨てた。
それは壁にぶつかり、カシャリと音を立てる。銃の弾倉が外れかかっていたのだろう。
弾倉が見えた。
銃弾が、一つだけ入っていなかった。
やっぱり、こいつを殺したのは、俺だ。この俺なんだ。
激しい吐き気と、人生が終わったという絶望的な確信が全身を襲う。この銃とこの遺体を隠さなければ。そう思ったが、体が全く動かない。ただただ、自分が犯した殺人という現実に向き合うしかなかった。
すると、近くから微かな足音が聞こえてきた。やばい。
このまま動かなかったら、殺したことがばれてしまう。
動け、動け、動け!
強い意志の力で、ようやく体がわずかに動く。走れる。この遺体を隠さなければ。
徐々に足音が近づいてくる。その方向を見ると、そこに一人の青年が立っていた。
見られてしまった。
考えるより早く、身体は再び銃を拾おうと動いた。もう殺すしかない。だが、それよりも早く、青年に銃を先にとられ、その剛腕で体を壁に押さえつけられた。身動き一つできない。
「やっと起きたかと思えば、殺されそうになるとは」
青年の声は落ち着いていた。だが、その力は岩のようだ。
青年は俺の顔を凝視した。昔から俺の目は特殊な色をしている。だがその理由はあまり知らない。そして今も俺の片目の瞳は常に青に緑が混ざったような異質な色をしている。この青年、強すぎる。離そうとしてもびくともしない。
一瞬の判断だったのだろう。青年に首を叩かれた。強い衝撃が走り、抵抗する間もなく再び意識は闇に落ちた。
目を覚ましたのは、今回で二度目だった。
ただ壁に抑えられているのではなく、建物の柱に太い麻の紐でしっかりと括り付けられていた。周りにあの青年はいない。
紐をちぎって逃げようと「おっりゃーーー!」と必死に踏ん張ったが、びくともしない。まるで鋼の鎖だ。
「やっと起きたか。この感じだと今度は殺されずに済みそうだな」
踏ん張る声が聞こえ、青年が近づいてきた。
「誰だあんた。さっきは壁に押し付けて今度は柱かよ」
「僕の名前は侑。しょうがないでしょ、放してたらさっきみたいに殺そうとしてくるかもしれないんだからさ。殺される理由、まったくないんだけど」
「殺そうと思うだろ、殺人現場見られたんだからよ。あんたがもっと遅かったら最後の力振り絞って遺体隠そうとしたけど、あんたに見られたから銃使ってあんたを殺すしかないと思ったんだよ」
侑は軽く肩をすくめた。「あー、なるほどね。君、人殺しちゃったと思ったんだ」
「あの現場見たらわかんだろ」
「あの現場、もう一度よく見てみたら?」
侑はそう言いながら、躊躇なく柱に括り付けていた紐を外した。
「外していいのか?またあんたを殺そうとするかもしれねぇけど」
「大丈夫。何をしたって君には倒せないよ。とにかく見てみたら?」
何度見たって同じだ。そう思いながらも、言われるまま遺体を見る。
「別に何も変わってねえじゃねえか」
「顔だよ、顔」
顔をよく見てみる。血の気が引いた。
人間じゃない。初めて見るような物だった。
侑は俺のもう片目が一瞬青く光ったのを見た。さっきも言った通り俺の目は特殊な色をしているが、この片目は起こった時、悲しんだ時、喜んだ時、要するに気持ちが興奮したときに青くなる。昔からだ。
「病気でも…持ってたのか…?」
侑は動揺しながらも淡々と答える。「まあそりゃそう思うのも無理ないか。そいつ人間じゃないよ」
「何いってるんだ。お前こそよく見ろよ。人間じゃないっていうんなら、なんだっていうんだよ」
「十禍神。その中部に位置する蒼さ」
十禍神?蒼? 頭に初めて入ってくる、奇妙な専門用語。
「一つ聞きたいんだけどよ、要するに俺は人を殺してないってことか?」
「そうなるね」
「なんだ!てことは、俺は殺人を犯してねえってことだよな。なら人生終わったわけじゃないしもうどうでもいいや。帰って寝よ。じゃあな」
心底安堵した。殺人者になる恐怖。それが消えたなら、もうどうでもよかった。
「どこに帰るつもり?」
「そんなもん、家以外あるかよ」
侑は冷たい目で俺を見つめた。「君しかいない家に?」
「悪いな、俺には家族、兄弟がいるんだよ。帰っても一人じゃねえよ」
「七歳くらいの子と十二歳くらいの子と十五歳くらいの子、あと父親と母親のこと?」
ギクリとした。なぜ知っている。
「なんでそこまで知ってるんだよ。まあ、そういうことだ」
「覚えてないの?その人たちならもう死んでるじゃん」
「覚えてない?死んでる?さっきからあんたなにいってんだ。俺を引き留めたいのか知らねえけどよ、十禍神やら蒼やら変なこと言って、嘘つくならもう少しましな嘘つけよ。どうせさっきの奴も人形だろ?」
その時、得体のしれない本能が、俺に警告を発した。
――後ろに何かがいる。
だが、もう間に合わない。
「頭を下げろ」
侑の静かで鋭い声が響く。考えるより早く、反射的に頭を下げた。
金属が壁を擦るような嫌な音が頭上を通り過ぎ、直後に「ドスッ」という重い音と共に、背後に何かが倒れた。
恐る恐る振り返る。
そこには、さっき殺したはずの蒼と同じような見た目をした物体が、倒れていた。
信じられなかった。明らかにさっき、この物体が俺の背後を動いていた。
「なんなんだよ、俺が狙われたのか…?」
「ああ」
「なああんた、なんで俺が狙われたんだ?」
侑は冷静に話し始めた。
「さっき言った話覚えてる?」
「十禍神とか蒼とか言ったやつか?」
「そう。十禍神はさっきや今見た化け物、蒼の総称。十禍神のトップ、蒼のトップが同じだがそのトップは**祖**と言われている。十禍神の源だ。そいつは下に仕えている全蒼の視界をすべて見ることができる」
そして、侑は静かに事実を告げる。
「蒼は君を狙ったが君を殺せなかった。その状況を見ていた祖が、他の蒼を使って君を殺そうとした。こういうことかな」
「かなって。あってるかわからないみたいな言い方するんじゃねえか」
「しょうがないよ。一般人で、この事象から助かったのは君が初めてじゃない。他の護界院がたくさんの人を助けてる。けど、その中で一般人を執拗に狙ってくる事象は、僕らも聞いたことがない」
「初めてってことか?」
「そうだね。だからわからない。君が特別なのか、あの蒼が特別なのか。とにかく、いったん君の家に行ってみる?」
「ああ。死んでねえことを祈るしかねえ」