第九話:仕掛けられた厄災と、見えない手
ラトクリフの町は、生まれ変わり始めていた。
私がパン屋の主人から受け取った裏帳簿は、腐敗の証拠として絶大な効果を発揮した。私は、その帳簿を盾に、バートン子爵をはじめとする役人たちの権力を一つずつ剥奪し、商人ギルドを解体。そして、シルヴァランドの商人たちと連携し、公正な市場を再構築したのだ。
民衆は、長年の搾取から解放され、その顔には活気が戻りつつあった。子供たちの笑い声が、以前よりも大きく、明るく響く。その光景を見るたび、私の心は温かいもので満たされた。
だが、侍従長ヘムロック伯爵という老獪な毒蛇が、この状況を黙って見ているはずがなかった。彼の反撃は、私が全く予想しない、静かで、しかし、致命的な形でやってきた。
それは、収穫を間近に控えた小麦畑から始まった。
「スカーレット様! 大変です! 畑の小麦が……!」
報せを受けて駆けつけた私の目に飛び込んできたのは、黒い斑点に覆われ、枯れ始めている小麦の穂だった。「黒穂病」。この地方では、稀に発生する病害だ。しかし、その広がり方は、異常だった。まるで、誰かが意図的に病の種を撒いたかのように、畑から畑へと、恐ろしい速さで伝染している。
このままでは、今年の収穫は絶望的だ。
町の人々の顔から、せっかく戻った笑顔が消え、再び絶望の色が覆い始める。私を救世主のように見ていたその瞳には、今や、疑念と不安が浮かんでいた。
「……あんた様が、余計なことをしたからだ」
「王都の貴族なんかに、頼るんじゃなかった……」
そんな声が、私の耳にも届き始めた。ヘムロック伯爵の狙いは、これだ。天災に見せかけた人災によって、私の信用を失墜させ、民衆の心を私から引き離す。なんという、陰湿で、効果的な一手だろう。
宿屋の一室で、私は頭を抱えた。
過去のループでも、このような大規模な病害は経験したことがない。私の知識が、初めて通用しない事態だった。
(どうすれば……? このままでは、ラトクリフは冬を越せない)
焦燥感に駆られていた、その時。ふと、過去の記憶の断片が、脳裏をよぎった。
それは、五十回目くらいの、無気力に日々を過ごしていたループでのこと。王宮の庭師が、こう愚痴をこぼしていたのだ。「最近、南の方から来た商人が、珍しい花の種だって言って、怪しい粉を売りつけてくるんだ。なんだか、あの粉を撒いた周りだけ、草花の元気がなくなる気がして、気味が悪い……」
当時は、気にも留めなかった些細な会話。
だが、今なら分かる。あれは、ただの粉ではない。黒穂病の胞子を、他の植物の種に混ぜ込み、密かに国内に持ち込んでいたのだ。そして、あの時の「南から来た商人」は、ヘムロック伯爵の息がかかった、闇の運び屋だったに違いない。
「……まだ、手はある」
私は、すぐにセオドア殿下へ宛てて、暗号を用いた手紙を書いた。状況の説明と、私が思い出した庭師の話。そして、彼にしか頼めない、一つの依頼を。
返事は、驚くほど速く届いた。鷹の足に結び付けられていたのは、彼の返信と、小さな布袋だった。
手紙には、こう記されていた。
『あなたの記憶は、正しい。我が国の諜報員が、その「商人」の身柄を確保した。彼の証言によれば、黒穂病の胞子を中和し、土壌を浄化する特殊な薬草が、シルヴァランドの北部にのみ自生しているとのこと。これを、友好の証として、あなたに贈る』
布袋の中には、乾燥した薬草が入っていた。これが、起死回生の一手になるかもしれない。
しかし、私は、ただ問題解決をするだけでは終わらせるつもりはなかった。この厄災は、ヘムロック伯爵からの「挑戦状」だ。ならば、私も、彼に「返礼」をしなければならない。
私は、町の広場に、不安な面持ちの民衆を集めた。そして、彼らの前で、はっきりと宣言した。
「皆さん。この病は、天災ではありません。私たちの町の復興を妬む、心無い者によって仕組まれた、人災です!」
私の言葉に、人々はどよめく。
「ですが、恐れることはありません。この病を克服し、土を蘇らせる方法は、すでに私の手の中にあります。そして……この卑劣な行いをした者たちには、必ず、報いを受けてもらいましょう」
私は、セオドア殿下から得た情報と、パン屋の主人がくれた裏帳簿を組み合わせ、この病害の実行犯……つまり、バートン子爵と癒着していた商人ギルドの残党たちが、闇の商人と接触していたという、動かぬ証拠を突きつけた。
「彼らが、自らの利益のために、私たちの未来を、この畑ごと、焼き払おうとしたのです!」
民衆の不安は、今や、裏切り者への明確な怒りへと変わっていた。
私は、ヘムロック伯爵の仕掛けた罠を、逆手に取ったのだ。彼の攻撃は、私と民衆の絆を断ち切るどころか、共通の敵を前に、私たちをより強く、固く、結びつける結果となった。
薬草による土壌の浄化作業が始まる中、私は、王都の方角を睨みつけた。
侍従長。あなたの攻撃は、確かに見事でしたわ。けれど、それは、眠れる獅子の髭を、一本、抜いてしまったようなもの。
百回の絶望を経験した悪役令嬢を、本気で怒らせてしまったようですわね。
この戦い、必ず、あなたの完敗で終わらせて差し上げます。
私の胸には、もはや恐怖も不安もない。ただ、絶対的な勝利への確信だけが、静かに燃え盛っていた。




