第七話:盤上の外にいた、真の敵
あの運命の夜会から数日。ロックフォード公爵邸の一室は、私のための臨時の執務室となっていた。婚約破棄された令嬢が、本来であれば社交界から姿を消し、静かに暮らすべきところだろう。しかし、私は今、南部の経済改革という、国の未来を左右する巨大なプロジェクトの責任者となっていた。
「スカーレット……お前、一体いつの間に、このような才覚を……」
私の父であるロックフォード公爵は、山積みの資料を的確に捌き、指示を飛ばす私の姿を見て、戸惑いを隠せないようだった。無理もない。これまでの私は、ただ王太子妃教育を受けるだけの人形だったのだから。
しかし、新たな力を手にした私の前には、早速、分厚い壁が立ちはだかっていた。
王家から引き渡されたはずの資料は、肝心な部分が「紛失」しており、南部の役人たちに問い合わせても、「前任者が……」「慣例で……」と、暖簾に腕押しの返答が返ってくるばかり。
(……なるほど。頭を失っても、蛇の体はまだ動いているというわけね)
腐敗の根は、私が思っている以上に、深く、広く、この国に張り巡らされている。行き詰まりを感じていた、まさにその時。セオドア殿下から、秘密の会談を求める、一通の短い手紙が届いた。
場所は、王都の高級馬具店の、奥にある談話室。人目を忍ぶには、最適な場所だった。
紅茶の香りが漂う部屋で、セオドア殿下は、一枚の羊皮紙をテーブルの上に滑らせた。そこには、数人の貴族の名前と、金の流れを示す図が、彼の国の諜報員によって緻密に記されていた。
「あなたの予測通り、南部の役人たちは、あの腐敗派閥の残党と繋がっている。ですが、スカーレット嬢。あなたも、私も、一つ、大きな見誤りをしていたようだ」
彼の言葉に、私は眉をひそめる。
「見誤り、ですって?」
「ええ。アルフレッドも、エララも、そして断罪された貴族たちも……彼らは、この物語の黒幕ではなかった。ただの、操り人形に過ぎなかったのです」
セオドア殿下は、静かに、しかし、重い響きを持つ一つの名前を口にした。
「――侍従長、ヘムロック伯爵」
その名前に、私は思考の海へと深く沈んだ。
侍従長ヘムロック伯爵。国王の側近中の側近であり、白髪と、常に穏やかな笑みをたたえた、忠義の塊のような老人。ループの中で、彼を疑ったことなど、一度たりともなかった。彼は常に、背景の一部だった。
「彼は、二十年以上に渡り、この国の影の支配者として君臨している。王の信頼を盾に、意のままになる人間を要職につけ、国を少しずつ、内側から腐らせてきた。全ては、アルフレッドのような愚かな王子を傀儡の王とし、自分が影から国を支配するため。エララもまた、アルフレッドを操るために、彼が選び、教育した駒に過ぎません」
セオドア殿下の言葉が、パズルの最後のピースだった。
途端に、これまでの九十九回のループで感じた、数々の些細な違和感が、一本の線で繋がっていく。
アルフレッドの、私に対する不自然なまでの敵意。それは、王家と強固な繋がりを持つロックフォード家を、ヘムロック伯爵が疎ましく思っていたからだ。エララの、あまりにも完璧な「聖女」の演技も、彼が演出したものなら納得がいく。国王が下す、時折不可解だった判断。その裏には、常に彼の穏やかな進言があった……。
(今まで、私はずっと、人形と踊っていたというの……?)
背筋に、冷たい汗が流れた。敵は、私が思っていたよりも、遥かに狡猾で、巨大で、そして、すぐそばにいたのだ。
「……直接、彼を告発することは不可能ですわね。陛下は、決して信じないでしょう」
「その通り。下手をすれば、我々の方が、王への讒言を企んだとして、断罪される」
状況は、振り出しに戻ったように思えた。だが、私の心は、不思議と燃えていた。本当の敵の姿が見えた今、やるべきことは、一つしかない。
「戦略を変えましょう、殿下」
私は、テーブルの上に広げられた地図を指さした。
「侍従長を、直接討つことはできません。ならば、彼の力を支える、経済基盤を、根こそぎ断ち切るのです。南部の経済改革は、そのための最高の隠れ蓑になりますわ。私たちが、南部を豊かにし、新たな流通ルートを確立すれば、それは侍従長の資金源を断つと同時に、我々の新たな力となります」
それは、短期的な政治闘争ではない。数年がかりの、壮大な経済戦争の始まりだった。
私の提案を聞いたセオドア殿下は、しばらく黙り込んだ後、心底楽しそうに、そして、どこか熱っぽく、微笑んだ。
「……あなたは、本当に恐ろしい。そして、最高に魅力的だ、スカーレット嬢」
彼の瞳に、単なる共犯者に対するものを超えた、深い色が宿る。
「ええ、その計画、乗りましょう。あなたという最高の軍師がいるのなら、どんな戦いも退屈せずに済みそうだ」
私たちの同盟は、今、真の意味で結ばれた。
見えない敵、ヘムロック伯爵を打倒し、この腐敗した国を救うために。
ループからの脱出というゴールはまだ遠い。
けれど、信頼できる「共犯者」が隣にいる今、この百回目の人生が、特別なものになることだけは、確信できた。