第三話:切り札は、インクの匂い
セオドア殿下との最初の接触は、私に大きな衝撃と、そして確かな手応えを与えた。彼は敵か、味方か。それはまだ分からない。けれど、彼がこのループを終わらせるためのキーパーソンであることは、もはや疑いようもなかった。
彼を交渉のテーブルにつかせるための「切り札」。
それは、彼ですら予測できない、未来の出来事でなければならない。幸い、私には九十九回分の膨大な記憶がある。その中には、歴史の表舞台には決して現れない、些細だが決定的な「事故」の記録が、いくつも眠っていた。
断罪パーティーの三日前。
この日、王宮の財務を管理する「第三書記局」で、ある事件が起こることを私は知っていた。夜勤の書記官が、誤ってインク瓶を重要な台帳の上に倒してしまうのだ。台帳は、王家の秘密の資金の流れを記した「裏帳簿」の一つ。インクの染みは、一見ただの事故に見せかけ、特定の取引の記録を意図的に抹消するための、巧妙な偽装工作だった。
この「事故」は、これまで九十九回のループで、常に闇に葬られてきた。しかし、百回目の今回は違う。私が、この事故を「予言」し、そして未然に防いでみせる。
私は、セオドア殿下が再び書庫に現れるであろう時間を正確に狙い、彼の前に姿を現した。
「ごきげんよう、セオドア殿下。またお会いしましたわね」
「……スカーレット嬢。何か、私に用でも?」
彼は、本から顔も上げずに答える。その冷たい態度に、私は臆することなく微笑んだ。
「ええ、少し。殿下に、ささやかな贈り物をお持ちいたしましたの」
私が差し出したのは、一通の封筒。中に入っているのは、一枚の便箋だけ。そこには、こう記してある。
『今宵、三の鐘が鳴る頃、第三書記局にて。黒インクが、赤い薔薇の紋章を隠すでしょう』
赤い薔薇の紋章。それは、問題の裏帳簿の表紙にだけ刻印されている、ごく一部の人間しか知らないはずの印だ。
セオドア殿下は、怪訝な顔で便箋に目を通すと、鼻で笑った。
「……なぞなぞ、ですか。公爵令嬢ともあろう方が、随分と子供じみた遊びをなさる」
「あら、ただの戯言ですわ。ですが、今宵、眠れない夜を過ごされるようでしたら、少しだけ、思い出してみてくださると嬉しいですわ」
私はそれだけ言うと、彼に背を向けた。背中に突き刺さる、彼の探るような視線を感じながら。
カードは、渡した。あとは、彼がこの「予言」を信じ、行動を起こすかどうかにかかっている。
その夜、私は自室で、静かに三の鐘が鳴るのを待った。一つ、二つ、三つ。重々しい鐘の音が、夜の静寂に響き渡る。
(さあ、どう動くの、セオドア殿下……?)
もし彼が動かなければ、私の計画は振り出しに戻る。だが、あの男の探究心と用心深さなら、必ず確かめずにはいられないはずだ。
翌日、私は昼過ぎに、王宮の庭園を散策していた。これもまた、計算通りの行動だ。この時間、セオドア殿下は、バルコニーから庭園を眺めるのが習慣となっていることを、私は知っている。
やがて、バルコニーに銀色の髪が姿を現した。
彼は、庭園にいる私を見つけると、しばらく無言で私を見下ろしていた。そして、ゆっくりと、ほんのわずか、頷いてみせた。
その小さな仕草が、彼の答えだった。
私の「予言」は、的中したのだ。彼は昨夜、第三書記局を訪れ、私の言葉が真実であることを、その目で確かめたに違いない。
私の胸に、確かな勝利の予感が込み上げる。
これで、交渉のテーブルは用意された。
その日の夜、私の部屋に、セオドア殿下からの使者が訪れた。
「スカーレット様。我が主より、伝言を預かって参りました。『夜会にて、最初のダンスのお相手を願いたい』と」
夜会。それは、断罪の舞台となる、運命のパーティーのことだ。
その場所で、ファーストダンスを。それは、事実上の密会の誘いだった。
「……喜んで、とお伝えください」
使者が下がった後、私は鏡の前に立った。鏡に映る自分の顔は、いつになく生き生きとしている。
九十九回の絶望と諦め。それは全て、この百回目のための、長い長い助走だったのだ。
断罪の夜会が、交渉の舞台へと変わる。
アルフレッドも、エララも、貴族たちも、もはや私の目には映らない。私の相手は、ただ一人。
この国の運命を、そして私のループを終わらせる鍵を握る、あの氷の王子だけだ。
私は、夜会のために用意された豪奢なドレスを眺め、静かに闘志を燃やす。
百回目の茶番劇の幕が上がる。しかし、今回の主役は、もう決まっているのだ。