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都市が語るとき

作者: 八巻孝之

 プロローグ

 オランダ──この平坦な国土には、無数の小さな都市が散りばめられている。だがその街々には、歴史の影、芸術の光、そして人間の沈黙が折り重なる。芸術家たちは、その交差点で作品を生み、街と交信し、時に街そのものをキャンバスに変える。

 六つの都市──デルフト、アムステルダム、ハーレム、ライデン──を舞台に、異なるジャンルの芸術を通して描かれる地図。彼らが見た風景、触れた記憶、解き明かした都市の輪郭。そして最後に──デルフトに戻る。すべての断章はやがて一つの問いに収束する。都市とは誰の記憶か……。

 プロローグ

 オランダ──この平坦な国土には、無数の小さな都市が散りばめられている。だがその街々には、歴史の影、芸術の光、そして人間の沈黙が折り重なる。芸術家たちは、その交差点で作品を生み、街と交信し、時に街そのものをキャンバスに変える。

 六つの都市──デルフト、アムステルダム、ハーレム、ライデン──を舞台に、異なるジャンルの芸術を通して描かれる地図。彼らが見た風景、触れた記憶、解き明かした都市の輪郭。そして最後に──デルフトに戻る。すべての断章はやがて一つの問いに収束する。都市とは誰の記憶か……。


 一 青の断章──画家と記憶の街

 運河の水面は朝靄のなかで凍りついたように滑らかで、冬の太陽はフェルメールの絵のなかからこぼれ落ちた光のように、淡く静かに建物のファサードを撫でていた。

 老画家・ヘンドリク・デ・ヴィースは、デルフト旧市街の北端にひっそりと暮らしていた。77歳。フェルメール通りとマリア門のあいだの一角、小さなアトリエ付きの家。昔は陶器職人だった祖父の工房だったが、今では彼ひとりの絵と記憶の檻となっている。

 机の上には、筆の痕を何度も重ねた青──デルフト・ブルーが乗る。彼が描くのは、もはや現実ではない。かつてそこにあった光景。亡き妻が生前に笑っていた広場。少しずつ色褪せ、やがて失われるはずだったものたち。そのひとつひとつを、彼は「静物画」として再構築していた。

 彼の作品は市場には出回らない。だが、学芸員や批評家の間では密かに“デルフトの沈黙”と呼ばれ、限られた美術誌のなかで時折、その存在が囁かれていた。フェルメールの光に似て、だが内側から滲むようだと。

 その日も彼は、未完成のキャンバスの前に立っていた。描いているのは、旧教会の尖塔越しに見える朝の光景。だが、画面の隅に、あり得ないものを加えていた──娘が生まれた日の青い陶器の皿。記憶と現実が混じり合い、絵がひとつの私的な時間装置となっていく。


 一月のある午後、ヘンドリクのもとに、ひとりの若い女性が現れた。

「クララ・ヴァン・レーネンと申します。美術史を学んでいます」

 彼女はユトレヒト大学の修士課程で、デルフト画派と記憶の表象について研究しているという。彼の存在を知ったのは、古書店で偶然見つけた小冊子の脚注からだった。

「フェルメールが描いたものは、静けさではなく、時の厚みだと思うんです」

 クララはそう言って、アトリエの窓辺に置かれた、使いかけの絵具チューブに目を留めた。

「先生の青は……その厚みの続きを描こうとしていませんか?」

 ヘンドリクは返事をせず、ただ窓の外に目を向けた。午後の光が運河の端で跳ねていた。


 それから数週間、クララは度々アトリエを訪れ、老画家とほとんど言葉を交わさぬまま、静かに部屋の空気を共有した。彼女はメモを取らない。スケッチもしない。ただ、観察していた。ヘンドリクが筆を取る瞬間、パレットに青を乗せる仕草、絵を前にしてわずかに身体が震える瞬間。

「あなたが描いているのは、記録ではなく、赦しなのかもしれませんね」

 ある日そう言ったクララに、ヘンドリクは初めて微笑を見せた。

「私は街の過去を閉じ込めている。だが……それが誰かの未来になれば、少しは意味がある」

 クララはその言葉を深く胸に刻んだようだった。


 春先、彼はクララに、古いスケッチブックを託した。そこには、若き日の妻と娘を描いた素描、戦後の瓦礫のデルフト、かつての陶器工房の内部、そして……描かれなかった風景たちがあった。

「これは、描けなかった私の断章です」

 クララは静かに頷いた。

 後日、クララはユトレヒト大学で「青の断章:記憶と沈黙の絵画的相貌」と題した修士論文を提出し、その序文にこう記した:

 “ある都市の色は、そこに生きた人々の沈黙によって濃くなる──そして時に、一枚の絵がその記憶を呼び戻す。”

 ヘンドリク・デ・ヴィースは翌年、静かにこの世を去った。彼のアトリエは今、美術館にはならなかった。ただ、風と光と青の粒子が今もその空間に漂っている。

 デルフトの運河は今日も静かだ。

 二 影のギャラリー──記憶を集める女

 アムステルダムの午後は、いつもどこか嘘のように美しい。曇天の切れ目から射す斜光が運河に溶け、街を鏡のように映す。

 ヴァレリー・フロートは、旧ユダヤ人地区の倉庫街にひっそりと構えるインスタレーション・ギャラリー〈Schattenruimte(影の空間)〉の主催者であり、唯一の作家でもあった。空間芸術──それも記憶を素材にした、極めて私的な現代アートを制作し続けていた。

 ギャラリーの内部はほとんど暗闇だった。わずかな照明と投影によって浮かび上がるのは、古い家族写真、匿名の手紙、壊れた時計、裂けたレースのカーテン。いずれも来場者が持ち込んだ“失われた記憶の断片”だ。

 彼女はそれらを素材に空間を構成している。記憶という見えないものを、歩いて体験できる影として現前化していた。

「この都市には、記憶が飽和しているの」

 あるインタビューでヴァレリーはそう語った。

「石畳のひとつひとつが誰かの痛みで、窓枠の色が誰かの夢なのよ」


 ある雨の日、ギャラリーを訪れた青年がいた。美術修復士のタク・オオヤマ。オランダでの研修の傍ら、都市の記憶を主題とするアーティストを探していたという。

「これは、記憶の保存ですか? それとも、再構築?」

 ヴァレリーはわずかに笑った。

「どちらでもないわ。私は記憶を解放したいの。回想は牢屋、でも記憶は風なのよ」

 タクは目を細め、その言葉の意味を測ろうとした。

「実は……修復不能な断片があるんです。僕の祖母がかつて戦時中に隠れていたという、アムステルダムのある部屋の記録が。場所はわかっても、光や匂いの記憶までは戻せない」

 彼は、祖母が生前に残した短い日記と、焦げ跡のある絹のリボンを取り出した。

「これを、空間にしてもらえませんか」

 ヴァレリーは長く沈黙した後、頷いた。


 その冬、ギャラリーは一時的に閉館し、ヴァレリーは一ヶ月以上、姿を消した。

 再開された展示は、観客を完全な暗闇の中へと導く構成だった。足音を吸収する床。微かに香る古い木の香。遠くから聞こえる時計の音──それは来場者自身の記憶を刺激し、個人的な記憶と展示空間を混ぜ合わせていくような体験だった。

 タクの祖母の残した断片は、照明も説明もなく、展示の一角にひっそりとあった。

 ある来場者は展示後、ノートにこう記した:

「記憶は保存ではなく共鳴。私の祖母もまた、どこかの影で息をしていた気がする」


 後日、タクはギャラリーの裏手でヴァレリーと再会した。

「あなたの記憶は、私を通って、誰かの記憶と重なった。それで充分」

 ヴァレリーはそう言って、ギャラリーの鍵を手渡した。

「これは、あなたが次に開く空間のために」

 タクは受け取った鍵を見つめ、問いかけた。

「あなた自身の記憶は、どこにあるんですか?」

 ヴァレリーは、誰もいない運河を指差した。

「たとえば、あの水のゆらぎに。誰も名をつけられない感覚のなかに、私は散っているの」

 その年、〈Schattenruimte〉は閉館した。だが、同名のギャラリーが東京の路地裏に静かに開館したという噂が、アムステルダムのアート界に密かに流れている。記憶はどこまでも移動する。影のように。


 三 眠りのファブリカ──布と夢のあいだ

 ハーレムの朝は、湿った空気の中で織物工場の記憶が静かに息づいていた。かつて産業の中心地として名を馳せたこの街には、今もその名残が石畳の隙間から顔を出す。

 ナディア・ヴァン・ステーンベルグは、歴史ある織物工房〈ファブリカ・ソムニア〉を受け継いだ最後のテキスタイル・アーティストだった。彼女の作品は“眠り”をテーマにしていた。夢の残滓を布に織り込むように──それがナディアの創作哲学である。

 彼女は毎朝、近くのマルクト広場で開かれる小さな蚤の市を訪れた。そこには、何十年も前のレースや、誰かの肌に馴染んだ布地の切れ端、色褪せた枕カバーなどが並ぶ。

「眠った記憶の布よ」彼女はそう囁くように布を撫で、工房に持ち帰るのだった。


 ある日、工房に一人の女性が訪ねてきた。ミラ・デ・フリース。ファッションデザイナーとして名を知られる彼女は、次回のコレクションで“眠れない街”をテーマにしたいという。

 ミラは語った。

「ナディア、あなたの布には夢がある。それを纏わせたいの」

 人は服を着るとき、無意識に自分の過去や感情を包み隠す。だとしたら、夢を織り込んだ布で、過去と未来の狭間に立つ服を作りたい。ナディアは一晩、悩んだ。

 そして翌朝、静かに応えた。

「あなたのコレクションのためではなく、眠れない誰かのために、布を織るわ」


 ナディアの工房には音がない。いや、厳密には、機織り機の微かな軋みと、繊維の擦れる音だけが響いていた。

 彼女は人々から“夢の断片”を募った。眠れない夜に見た幻、忘れたい記憶、誰にも話せない後悔──それらを匿名の手紙や声の記録として集め、それぞれの想いを布の文様や色に変換していく。青は孤独。赤は怒り。薄墨は後悔。織りの密度は眠りの深さに比例する。

 そしてついに、一着の衣が完成した。それは着る者の内面に眠る“忘却の夢”を引き出すような、不思議な静けさを纏った衣装だった。

 ミラはその服を見たとき、息を呑んだ。

「これは……ファッションではないわ。ひとつの記憶装置ね」


 コレクション当日、パリのランウェイにて──

 モデルが静かにその衣を纏い、照明の中を歩いた瞬間、観客席の空気が変わった。ざわめきではない。沈黙が落ちたのだ。

 ある者は母の匂いを思い出し、ある者は最初の失恋の夜を、ある者は戦火の中で眠れなかった祖父の話を思い出した。

 終演後、ミラは記者たちに語った。

「今日の衣は、眠りそのものです。ナディアは、布で人間の内側に触れたのです」

 だがその翌日、ナディアは姿を消していた。工房は空になっていたが、壁に一枚の布だけが残されていた。それは、無地のようでいて、見る角度によってうっすらと模様が浮かび上がる布。

 ある記者がそれを見て、ぽつりと呟いた。

「……これは、まだ言葉にならない夢だ」

 ハーレムの風がそっと吹き抜けた。


 四 観測される肖像──記録者の街

 ライデン──学問の街、記録の街。石造りの運河沿い、蔵書の香りが漂う静謐な図書館のそばに、ひとつのアトリエがあった。そこに住まう青年芸術家エリアス・フロートは、写真とドローイング、インスタレーションを融合させた独自の手法で“観測と存在の関係”を追究していた。

 彼の作品には、必ず“観察者”が存在した。それは時に鏡、時に録画された視線、あるいは鑑賞者自身だった。

 彼は語った。

「見ることは、存在させることだ」

 街そのものが知と記録を基盤に築かれてきたように、彼のアートも記録によって初めて輪郭を持った。

 エリアスは大学図書館の地下アーカイブで、ある日、奇妙な資料を発見した。名もなき人物が撮った、1960年代から続く膨大なスナップ写真群。だが、そのどれにも共通して写る一人の老女の姿があった。同じ服、同じポーズ、異なる場所と年月。

「これは……観察者ではなく、記録されることを望んだ誰かだ」

 彼はその老女を追い、作品に昇華する決意を固めた。


 エリアスは記録の中に“残された意志”を読み解こうとする。

 彼は老女の姿を複製し、インスタレーションとしてライデン市内に配置する──透明なアクリルの中に、写真と記述、そしてわずかな音声記録を埋め込んだ。

 人々はそれを見て問いを抱いた。

「これは誰だ? なぜ同じ人物が半世紀を超えて写り続けたのか?」

 記録された老女の眼差しは、時に笑い、時に沈み、だが常にカメラを見返していた。

 その視線に、人々は自らの記憶を重ね始めた。アートは“記録”ではなく、“共鳴”へと変わった。

 エリアスの展示は思わぬ反響を呼び、アムステルダムの現代美術館から招待を受ける。だが彼は、最後の展示をライデンの古い教会跡で行うと決めていた。


 教会跡の礼拝堂、夜の空間に浮かぶ光の肖像。壁一面に投影された、老女のスナップ群。中央、ひとつだけ“実物”の椅子が置かれていた。そこに、誰とも知らぬ白髪の女性が静かに座った。

 観客たちが気づいた。写真と同じ姿、同じ眼差し──老女本人だ。

 しかし彼女は、一言も発せず、ただ観客たちを見返していた。

 沈黙のうちに、プロジェクションは消える。光も音も止んだ空間で、最後に残されたのは、観る者の中に浮かぶ“観察される自分”の感覚だった。

 エリアスは筆を置いた。

「記録は過去を閉じ込めるものではない。観られた記憶が、また誰かを観る」

 彼は老女に一礼し、ゆっくりと会場を去った。

 翌朝、その椅子は空っぽだった。記録も、名前も、残されていなかった。だがライデンの川辺には、微かに彼女の視線の名残が漂っていた。


 五 再構築の記憶──過去は静かに編まれる

 ロッテルダム──第二次世界大戦中の空襲で中心部が壊滅し、その後、近代建築と多文化が融合する都市として再生を遂げた街。その風景は、過去と未来、破壊と創造が交錯する独特の雰囲気を醸し出している。

 映像作家のアーネ・ファン・デル・スロートは、この都市の記憶を映像で再構築するプロジェクトに取り組んでいた。彼は、戦前の写真や市民の証言、現代の街並みを組み合わせ、ロッテルダムの“見えない記憶”を可視化しようとしていた。


 アーネは、戦前のロッテルダムの写真を手に入れ、それらを現在の街並みと重ね合わせる手法で映像を制作していた。

 彼は、市民から集めた証言や手紙、日記などをもとに、失われた街の記憶を紡いでいく。その過程で、彼自身もまた、祖父が戦時中に体験した出来事と向き合うことになった。

「記憶は、時間とともに風化する。しかし、それを掘り起こし、再構築することで、新たな意味を持たせることができる」

 アーネは、映像を通じて、過去と現在を繋ぎ、都市の記憶を再構築していく。


 完成した映像作品は、ロッテルダムの旧市街にある小さな劇場で上映された。観客は、映像に映し出される過去の街並みと現在の風景が重なり合う様子に、静かに見入っていた。

 上映後、観客の一人がアーネに話しかけた。

「あの映像に映っていた通りは、私の祖母が住んでいた場所です。彼女の話を思い出しました」

 アーネは、映像が人々の記憶を呼び起こし、共有する手段となったことを実感した。彼の作品は、都市の記憶を再構築するだけでなく、人々の心にも新たな繋がりを生み出していった。


六 都市という織物──街は皮膚のように


 

 水と石が織りなす網の目の街、アムステルダム。だがある者にとって、この都市は“織物”のようでもある。外套のように風景をまとい、裏地には記憶が縫い込まれている。

 ソフィ・ヴァン・デル・メーアが工房を構えるのは、ヨルダーン地区の旧織物工場跡。彼女は、ファッションを通してこの都市と対話してきた。彼女の作品は衣服というより“都市の断片を縫い上げた詩”であり、廃材や歴史的布地を使って、アムステルダムの風景と人の痕跡を身体の上に再構築していく。

「都市の皮膚に触れる服を作りたい。誰かの記憶に直接触れるような、そういう服を」

 そう語る彼女の最新作は、《眠る街のカフタン》という名の、都市全体の夢をテーマにしたシリーズだった。

 衣服の表面には、古地図のプリント、アンネ・フランクの家の床材、駅の落書きの転写、そして赤い灯の路地裏で拾った名もなきスカーフが使われていた。

「都市そのものが眠っている時、その夢は誰が見るの?」

 問いを抱えながら、ソフィは最後の作品に取りかかる。

 

 ソフィはインスタレーションを企画した。名は《都市の寝衣ナイトガウン》──広場に現れる巨大な衣服の彫刻。それはトラムのレールに沿って布を引き、夜になると内側から淡い光が灯る。

 都市が一枚の衣服を纏い、静かに目を閉じた。鑑賞者は、その“服の中”に入る。布の隙間から漏れる街灯。音の反響。縫い目に記された匿名のメッセージ。──〈ここで別れた〉──〈〉あの人を待った〉 ──〈酔って踊った夜の匂いがする〉

 都市の皮膚の中で、人々は自らの記憶と重ね合わせる。誰の服でもない。だが誰の記憶にも触れている。

 ソフィは、観る者にその“柔らかな皮膚”を届けたかった。彼女にとって、服は装いではなく、記憶を封じる器だ。


 展示の最終日、ソフィは若手デザイナーたちと共にパフォーマンスを行った。街の広場に仮設の裁縫台が置かれ、人々の古着がそこに持ち込まれる。即興でリメイクされる服。それぞれの想いが縫い込まれていく。

 ひとりの初老の男性が差し出したのは、亡き妻のスカーフ。

「この街で出会い、この街で別れた。あの人は、街の夢を見ていた」

 ソフィはその布をそっと裁断し、新たなストールに仕立てた。染料の代わりに、運河の泥を薄く使って記憶の陰影を加えたのだ。──もう一度、誰かの肩に触れるように。

 アムステルダムの夜が深まっていく。灯りを消した都市は、巨大な寝衣を纏いながら、静かに夢を見る。そこには、誰かの愛と喪失、そして柔らかな記憶の縫い目が、確かに縫い込まれていた。


 七 音の地層──聴こえない記憶の旋律

 ユトレヒト──運河が縦横に走り、古い教会の鐘が時を告げる街。

 音楽家のエマ・デ・フリースは、この街の音を採集し、音楽作品を制作するフィールドレコーディングのプロジェクトに取り組んでいた。彼女は、街の音に耳を傾け、そこに刻まれた記憶を掘り起こそうとしていた。

 ある日、彼女はユトレヒト中央駅で、誰でも自由に弾けるピアノの音に足を止めた。シリア難民の男性が奏でる旋律に、彼女は心を動かされる。彼の音楽には、故郷を離れた人々の記憶と感情が込められていた。


 エマは、祖母がかつて演奏していたピアノ曲のレコードを偶然見つけた。その音に耳を傾けると、幼い頃に祖母と過ごした記憶が蘇る。彼女は、祖母の音楽とユトレヒトの街の音を組み合わせ、新たな音楽作品を制作することを決意した。

 彼女は、スペルクロック博物館を訪れ、自動演奏楽器の音を録音した。 また、ドム教会でのオルガンコンサートにも足を運び、壮大な音色に耳を傾けた。 これらの音を取り入れ、彼女の音楽は次第に形を成していった。

 

 完成した音楽作品は、ユトレヒトの旧市街にある小さなギャラリーで展示された。訪れた人々は、ヘッドフォンを通じて、ユトレヒトの音の地層に耳を傾けた。

 ある来場者が、エマに話しかけてきた。

「この音楽を聴いて、忘れていた記憶が蘇りました。祖母と過ごした日々を思い出しました」

 エマは、音が人々の記憶を呼び起こし、共有する手段となったことを実感した。彼女の作品は、都市の記憶を再構築するだけでなく、人々の心にも新たな繋がりを生み出していた。


 八 青の断章──沈黙は語る

 デルフト──陶土の街。青と白の静寂に満ちたこの都市。 朝、霧が街を包み込む中、マールテン・ヘイスは静かに窯の前に立っていた。彼の手には、まだ焼かれていない陶片が握られている。彼は、沈黙の中にある記憶を、青の断章として刻み始める。

 マールテンは、この街で唯一の“音を持たない”現代アーティストとして知られていた。彼の耳には、かつて事故で失われた母の声が残っている。その声は録音されていない。記憶だけが、音の痕跡を保っている。

 彼は音を扱わず、“欠けた声”や“記録されなかった沈黙”を陶片に刻んでいた。

「沈黙は、語ることを拒むのではなく、語り尽くせぬものを抱えている」

 彼は、母の記憶と向き合いながら、陶片に青の絵付けを施いていた。その青は、深く、静かで、しかし確かな存在感を放っていた。

 展示室の中央には、《青の断章》と題された陶片が並ぶ。いずれも割れたデルフト焼の破片であり、裏には誰かの名もなき日記の一節、あるいは録音されなかった会話の断片が刻まれていた。

 ──〈君が去った日、カーテンが波打っていた〉

 ──〈わたしは黙ってコーヒーを冷ました〉

 それらは、語られなかった歴史であり、風景の隙間でしか聞こえない都市の反響だった。それは他者の声であり、他者の沈黙だった。

 マールテンは長らく、自身の内面に踏み込まず、陶に都市の声を焼き付けることで、己の沈黙をも覆い隠してきたのかもしれない。


 マールテンは新作インスタレーション《沈黙の部屋》を旧修道院の回廊に設置した。

 観客はひとつずつヘッドフォンを手に取るが、そこには音が流れない。代わりに提示されるのは、薄く焼かれたデルフト陶のプレートに刻まれた言葉。そして、光が差し込む位置によって浮かび上がる影文字。あるプレートには、フェルメールが描かなかった壁の向こうの“音の気配”が、陶に変換されていた。

「言葉にならない想いが、都市を構成するのです」

 ──マールテンの言葉だった。

 沈黙の部屋は、言語を奪われた街の記憶を、静かに呼び起こした。


 数日後、彼のもとに現れたのは、デルフトの図書館司書である老婦人だった。

「この街には、語られなかった物語が多すぎたのです」

 彼女が差し出したのは、一冊の破れた日記。かつて戦中に検閲され、秘匿されてきた市民の声の断章が綴られていた。そこには、家族の行方を記録するでもなく、日々の些細な気配──ラジオの途切れ、閉まらない窓、熱い紅茶の湯気──が淡々と書かれていた。

 老婦人はマールテンに尋ねた。

「あなたは、これも陶にできますか?」

 彼は頷き、その日記の断章をもとに、最後の陶片を焼き上げた。その作業の最中、彼は手が止まるのを感じた。

 日記の一節──〈だれにも言えなかったの。怖くて、静かすぎて〉

 それはかつて、彼が父の死を前に言葉を失った日の記憶と重なっていた。

 マールテンは初めて、自らの沈黙に陶片を割いた。


 その陶片は、無地であった。だが、展示室の特定の光の下で、その表面にはうっすらと浮かび上がる記憶があった。──影文字として、まるで水面の揺らぎのように──

(都市は語らない。だが確かに記憶している)

 観客は声を発せず、ただ息を呑んだ。沈黙のまま、陶片の前に立ち尽くしていた。

 彼が焼いた最後の一片は、誰の記憶でもない、自分自身の沈黙だった。フェルメールが光を描いたように、マールテンは沈黙を焼き付けた。

 ただ、作品を通して問いかけていたのは観客ではなく、自分自身だった。そのとき初めて、街の空気に音が生まれたように思えた。──誰かの靴音、鳥の羽ばたき、そして遠くで閉まる扉の気配。都市は静かに語りはじめたのだ。陶片の裂け目から。

 

 沈黙の余白に、青を刻む

 展示が終わり、観客が去った後のギャラリー。マールテンは、静まり返った空間で、陶片の一つ一つを見つめていた。彼の作品は、都市の記憶、人々の思い出、そして自身の内面を映し出していた。

「記憶は、衣服のように身に纏うもの。時に重く、時に温かい」

 彼は、母の声を思い出す。それは、彼の中で確かに生きていた。マールテンは、沈黙の中にある記憶を、これからも青の断章として刻み続けるだろう。


 エピローグ

 都市とは、ただの建築物の集合ではない。

 それは人の気配、語られなかった言葉、誰かが拾った欠片の総体である。アーティストたちは、その無名の記憶に形を与え、光を与える。そして観客は、その静かな光の中に、自らの風景を映し出す。

 断章は終わらない。芸術が在る限り、都市は語られ続ける。陶片のように割れていても、美術館の壁に飾られなくても。それはたしかに、誰かの暮らしの中にある。それは、いつかの自分が抱えたまま置き去りにしていた感情にも、形を与えることができるのだ。

 エピローグ

 都市とは、ただの建築物の集合ではない。

 それは人の気配、語られなかった言葉、誰かが拾った欠片の総体である。アーティストたちは、その無名の記憶に形を与え、光を与える。そして観客は、その静かな光の中に、自らの風景を映し出す。

 断章は終わらない。芸術が在る限り、都市は語られ続ける。陶片のように割れていても、美術館の壁に飾られなくても。それはたしかに、誰かの暮らしの中にある。それは、いつかの自分が抱えたまま置き去りにしていた感情にも、形を与えることができるのだ。

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