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第八話:シスター・ビター・メモリー

 俺は、リビングで羅璃(ラリ)と楽しそうに話している母親と、羅璃(ラリ)の質問に少し照れながら答えている父の姿を眺めた。


 ダルい正月のはずだった。


 大学に行って家を出てから、毎回母から正月と盆に返って来いと言われ続けていたが結局帰らなかった。羅璃(ラリ)から避けるために…その場から逃げるために口実として使った帰省だったが、既にこの「ラリった世界」は、少なくとも、俺の人生に新しい色と、新しい繋がりをもたらしているのは、間違いないようだった。




 その時、リビングの扉が開き、誰かが入ってきた。


「ただいまー」


 声を聞いて、俺は立ち上がった。

 妹の智絵(ともえ)だ。俺とは五つ違いで、今は高校に通っている。


「おかえり、智絵(ともえ)


 俺が声をかけると、智絵は俺を見て…そして、その顔から笑顔が完全に消え失せた。


「げ、兄貴帰ってたのかよ」



 冷たい声だった。智絵は、昔から俺のダルい態度を嫌っていたが、今回はさらに露骨だ。

 俺は何も言い返せなかった。


 智絵の視線が、リビングにいる見慣れない人物、羅璃(ラリ)の姿を捉えた途端に、その顔から完全に表情が消え失せた。

 さっきの冷たい目つきはどこへやら、ただただ驚愕の目で羅璃(ラリ)を凝視している。



「え…!?」


 羅璃(ラリ)はそんな智絵を見て、ニッと笑いかけた。


「やっほー! しょーへーの妹ちゃん? 超可愛いんですけど! 私、羅璃(ラリ)!」


 羅璃(ラリ)は智絵に手を振った。智絵は、まだ戸惑っているようだが、羅璃(ラリ)の明るい雰囲気に少しだけ警戒を解いたらしい。


「あ、えっと…初めまして。羅璃(ラリ)さん…」


 智絵はどもりながら挨拶した。羅璃(ラリ)はそんな智絵を見て、「ヤバ、妹ちゃん超シャイじゃん! あ、でも顔は超可愛い! メイクとかどこでやってるの??」と、あっという間に女子高生トークに引き込んだ。



 羅璃(ラリ)と智絵は、メイクの話、学校の話、好きなアイドルの話…と、すぐに意気投合し、キャッキャッと楽しそうに話し始めた。母親もそれに加わり、リビングは女性陣三人の賑やかな声で満たされた。父と俺は、その賑やかさから切り離されたように、ただ見ているだけだった。




 女子高生トークに花を咲かせている羅璃(ラリ)は、ふと俺に目を向けた。

 そして、唐突に智絵に尋ねた。


「ねーねー、智絵ちゃん! しょーへーのこと、あんまり好きじゃないの? なんで?」


 羅璃(ラリ)の、悪気のない、あまりにもストレートな質問に、俺はギクリとした。智絵は、一瞬戸惑った顔をした後、言葉を選びながら話し始めた。



「え…別に、嫌いっていうか…昔は、もうちょっと…なんていうか…」

 智絵は、言い淀んだ。昔の俺? 羅璃(ラリ)は、その曖昧な言葉に納得がいかないらしい。


「もうちょっと? もうちょっと何だったの? カッコ良かったとか? 部活頑張ってるとか?」



 羅璃(ラリ)は容赦なく突っ込む。智絵は、困ったような顔で、ちらりと俺を見た。


「うーん…高校の時は、なんか…輝いてた、かな…」


 智絵は、それだけ言うと、口を(つぐ)んでしまった。羅璃(ラリ)はさらに理由を聞こうとする。


「輝いてた? へー! なんで輝いてたの? 今なんで輝いてないわけ!? それが知りたい!」


「あの…ごめんなさい。私、この話、あんまりしたくない…」



 智絵はそう言うと、立ち上がって、足早にリビングを出て行った。

 自分の部屋に戻ったらしい。


「えー! なによー! ケチー!」


 羅璃(ラリ)は不満そうに叫んだ。俺は、智絵の様子を見て、胸がザワザワしていた。

 高校の時。輝いていた…? そんな時期があったなんて、思い出せない…思い出したくない。

 そして、智絵がその話をしたがらない理由…それは、きっと、俺の挫折に関わることだ。


 羅璃(ラリ)が「つまんねー!」と文句を言っていると、リビングを出て行った智絵の声が、廊下から聞こえてきた。羅璃(ラリ)に向けて言っているらしい。


羅璃(ラリ)さん! 兄貴の部屋に…答えがあるから!」


「はあ? 兄貴の部屋?」


 羅璃(ラリ)は首を傾げている。

 俺は、智絵の言葉を聞いて、心臓がドクリと跳ねた。

 俺の部屋? 何の答えが?


 俺が狼狽(ろうばい)していると、隣に座っていた父が、静かに言った。


「翔平。お前の部屋は…そのままにしてあるぞ」


 父の言葉に、俺はさらに狼狽した。そのまま? 五年以上も前の、俺の部屋が?


 羅璃(ラリ)は、智絵の言葉と父の言葉を聞いて、興味津々といった顔になった。


「へー! しょーへーの部屋に答えが! 見てみたーい!」



 羅璃(ラリ)は立ち上がると、俺の制止も聞かずに、二階にあるはずの俺の部屋を探し始めた。


「ちょ、羅璃(ラリ)! 勝手に人の部屋に…!」


 慌てて羅璃(ラリ)の後を追う。頼むから、何も見つけるな、何もするな…!




 俺の部屋は、本当に、五数年前のままだった。

 ベッドに、本棚、机。そして…壁。



 壁には、小学校、中学校、高校と、サッカーの大会の記録や、賞状が所狭しと貼られていた。

 優勝、得点王、優秀選手賞…。あの頃の、俺の栄光の記録。



 羅璃(ラリ)は部屋に入るなり、それらを見て、目を丸くした。


「うっっっわあ! なにこれ!?

  しょーへーって、こんなにサッカー頑張ってたの!?

  賞状とか超いっぱいじゃん! マジウケるんですけど!」



 羅璃(ラリ)は、壁の賞状や新聞の切り抜きを見て、はしゃいでいる。

 そして、無邪気に、しかし俺にとっては痛い言葉を投げかけてきた。



「へー! この大会で優勝して、次も勝って…すごいじゃん!

  マジでエースだったんだ! でも、それが今のしょーへーとか…」


 羅璃(ラリ)は、俺の過去の栄光と、今の無気力な俺を比較して、茶化し始めた。


「…もう、昔のことだ」


 俺は、顔を背けて答えた。その話題には触れたくない。

 しかし、羅璃(ラリ)は止まらない。


「えー! もったいなすぎ!

  こんなに頑張ってたのに、なんで辞めちゃったの?

 もしかして、途中で飽きたとか? 根性なかったとか?」


 羅璃(ラリ)は、俺の最も触れられたくない部分を、無邪気に、そして容赦なく突いてくる。

 過去の挫折、諦め、そして、それらから逃げてきたこと。


「辞めたんじゃない! 怪我したんだ!」


 思わず、声を荒げてしまった。

 羅璃(ラリ)は、俺の声に一瞬怯んだようだが、すぐにまた挑発的な笑みを浮かべた。


「怪我? へー。でも、それだけで辞める?

  ほんとにエースだったなら、多少の怪我くらい乗り越えられたんじゃないの?

 やっぱ、そこまで本気じゃなかったとか? 才能なかったとか?」


 羅璃(ラリ)の言葉が、俺の心に突き刺さる。

 まるで、あの頃、俺自身が自分に言い聞かせていた、あるいは他人から言われたような、一番聞きたくなかった言葉だ。



「黙れ…!」



 俺の中で、何かがプツンと切れた音がした。

 胸の奥底に押し込めていた、過去への後悔、自分への怒り、そして、羅璃(ラリ)への苛立ち。

 それらが一気に噴き出した。



「お前なんかに、俺の何が分かんだよ! 勝手に部屋に入って、勝手なことばっか言って…!」



 俺は、羅璃(ラリ)に掴みかかりそうになった。しかし、

 羅璃(ラリ)は一歩も引かない。

 その赤い瞳は、俺の怒りを面白がっているように見えた。


 怒り。(シン)。これも煩悩だ。電車の中で 羅璃(ラリ)が見せた怒りの感情だ

 …しかも、強い怒りだ。俺の無関心に対極にある感情が呼び起こされている…

 羅璃(ラリ)が現れてから、こんなに感情的になったのは初めてかもしれない。


 過去の栄光。


 挫折。


 諦め。


 現実逃避。


 そして、今湧き上がってきた怒り。


 耐えられなかった。

 この部屋にいるのも、羅璃(ラリ)を見ているのも、自分の過去と向き合わされるのも、全てが辛かった。


 俺は、羅璃(ラリ)を振り払って、部屋を飛び出した。

 リビングにも戻らず、玄関から外へ。

 着の身着のままで靴をひっかけて外へ駆け出した。


 どこへ行く当てもなく、ただひたすらに走った。

 息が切れて、肺が痛くなる。


 走ることで、頭の中を空っぽにしようとした。



 どれくらい走っただろうか。

 足が止まり、息も切れ切れになった頃、自宅から少し離れた場所…市営の運動公園のベンチに座り込んだ。


 全身がダルい。


 疲れた。


 そして、過去の記憶と、羅璃(ラリ)の言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。


 サッカーでの挫折。そして、その後の挫折…逃げるように東京へ行ったこと。


 そして、今の無気力な自分。


(…辛い…)


 過去を思い出すことが、こんなにも辛いなんて思わなかった。

 ずっと蓋をして、無かったことにしてきたはずなのに。




 どれくらい時間が経っただろうか。ふと、隣に気配を感じた。


 羅璃(ラリ)だった。

 いつの間にか、隣のベンチに座っていた。



 羅璃(ラリ)は何も言わずに、ただ俺の隣に座っている。

 その赤い肌は、公園の街灯の下で、少しだけ異様に見えた。


 沈黙が流れる。夜風が冷たい。



 やがて、羅璃(ラリ)がポツリと呟いた。


「…過去に…向き合うの…辛い?」


 その言葉は、いつもの騒がしさがなく、静かで、そして、俺の心の奥底にある痛みに寄り添うような響きだった。



 俺は何も答えなかった。

 ただ、顔を伏せて、呼吸を整える。


 羅璃(ラリ)は、俺の反応を待たずに続けた。



「ねえ、翔平。さっき、私にキレたでしょ?

  あんだけキレるなんて、普段のアンタからは考えられない」


 羅璃(ラリ)は俺の手を取った。


 その時、俺は気づいた。


 羅璃(ラリ)の手首や腕に刻まれた模様が…さっき、俺が過去と向き合い、怒りを感じた時に、また少しだけ薄くなっている。

 さっきほど大きくではないが、確かに模様が消えていた。



「アンタはね、今まで自分の弱い部分とか、傷ついた過去から、目を逸らして逃げてきた。

 それが、アンタの無気力っていう大きな煩悩の根っこにあったんだ」



 羅璃(ラリ)は俺の手を握ったまま、俺の目を見つめた。

 その赤い瞳の奥に、微かな優しさが宿っているように見えた。



「過去に向き合うのは、痛いよね。辛いよね。


 でも、それから逃げてちゃダメなんだ。

 その痛みを、ちゃんと感じて、受け止めなきゃ」



 羅璃(ラリ)は、まるで仏様のような、でもどこか寂しそうな顔で言った。



「それが…アンタが本当に変わるために、必要なことなんだから」



 羅璃(ラリ)の言葉が、俺の心に染み込んできた。

 過去に向き合うこと。それは、自分が避けてきた「痛み」そのものだ。


 ダルい、面倒、辛い…だから(ふた)をしてきた。


 でも、羅璃(ラリ)は言う。その痛みを、ちゃんと感じろ、と。



 痛みを伴う。でも、必要なこと。



 羅璃(ラリ)の言葉は、ストンと俺の中に落ちてきた。

 今まで、煩悩を解消するというのは、悪い感情をなくすことだと思っていた。


 でも、羅璃(ラリ)は教えてくれた。


 落とし物を返すこと。


 親と話すこと。


 そして…過去の痛みと向き合うこと。


それらは全て、俺が避けてきた「生きる」ということそのものに、関わることなんだと。



 過去に向き合うことは、痛い。でも、それから逃げていては、羅璃(ラリ)の模様は全部消えない。俺も、変われない。


 羅璃(ラリ)の手が、俺の手を握り返す。

 彼女の肌は、まだ少し冷たいが、さっきよりずっと人間の肌に近かった。


 俺の無気力な日常は、この「ラリった世界」で、痛みを伴いながらも、少しずつ、確実に変わっていく。

 そして、羅璃(ラリ)の身体の模様が全て消える時、俺は、一体どんな自分になっているのだろうか。


 痛い。ダルい。でも…


 羅璃(ラリ)の隣で、夜空を見上げながら、俺は、少しだけ、前を向こうと思った。

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