第七話:実家で実感疎外感
電車を降りると、顔面の痛みがじんじんと響いた。横須賀中央駅。
横須賀は古くから軍港の街として栄えて、今も海上自衛隊とNAVYアメリカ海軍のベース基地が併存しているし、歴史的にはペリー来航の地でもある。
慣れ親しんだ駅のはずなのに、羅璃が隣にいるせいか、どこか違って見えた。
駅前も、正月だからかいつもより人が多い。観光客や帰省者向けに海軍カレーやネイビーバーガーを地元推薦観光にかこつけて矢鱈宣伝している。
「あーあ、つまんなかったー。電車とかマジ無理」
羅璃は文句を言いながら、俺の腕にぶら下がってくる。
さっきの電車での一件で、少しは大人しくなったかと思ったが、すぐに元の調子に戻ったらしい。
…顔の模様は確かに大きく消えていたけれど。
「…お前があんなリアクション取らなければ…」
「えー! お陰で沢山の煩悩に向き合えたじゃん…わったしのおっかげー!」
「いや、あんなの周りの人も引いてただろ…普通じゃない」
「普通って何?ウケるんですけど…あ、ねえねえネイビーバーガーって美味しそう!」
本当に、こいつの行動基準は自分勝手だ。
駅から実家までは歩いて十五分ほど。
少し小高い住宅街にある。
昔から見慣れた街並み、都外の再開発なんて勢いもなくなっているこの土地は何も変わっていない。
だが、羅璃という異物がいるだけで、全く別の場所のように感じられた。
周囲からの視線は、コンビニや原宿ほどではないにしても、やはり集まる。
ダルい。早く家に着いて、この状況をどうにかしないと。
実家のチャイムを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
出てきたのは、俺の母親だった。
「あら、翔平! よく帰ってきたわね! もう、遅いんだから!」
久しぶりに見る母親は、以前と変わらずの明るい笑顔で俺を迎えた。
そして、その笑顔が、俺の隣に立つの姿を捉えた途端に凍りついた。
「え…? あ、あの…どちら様で…?」
母親は、羅璃の真っ赤な肌と角、そして派手な格好に、目を丸くして固まっている。
……無理もない。
俺だって未だに慣れないんだから。
俺が何と説明しようか言葉に詰まっていると、羅璃がニコニコと前に出た。
「どーもー! 私、羅璃です! しょーへーのお友達でーす!
正月だし、一緒に遊びに来ちゃいました! よろしくお願いしまーす!」
羅璃は、まるで昔からの知り合いかのように、全く悪びれずに自己紹介した。
母親はさらに混乱している。友達? こんなのが?
「あ、あの…お友達…?」
「そうなんですー! しょーへーってば、友達少ないから、私がわざわざ遊んであげてるんです!
今日からしばらくお世話になりまーす!」
羅璃はそう言い放つと、勝手に玄関に上がり込んできた。
母親は、羅璃の勢いに押されて、何も言えずに立ち尽くしている。
(最悪だ…)
俺は頭を抱えたくなった。
まあ、なんとなく予想しなくはない展開ではあったが…もう少しこう…
やはり置いて来ればよかったか?
しかし、ここから予想外のことが起きた。羅璃は、ああ見えて人懐っこいのか、あるいは母親が羅璃の奇抜さを面白がったのか。
羅璃が遠慮なく話しかけたり、家の中の物珍しそうに見たりするのに、母親はだんだん調子を取り戻し、羅璃に話しかけ始めたのだ。
「あらあら、羅璃さんっていうのね。派手な格好してるけど、可愛いわねぇ。
遠くから来たの?」
「遠くっていうか、しょーへーの中から来ました! …ってのは冗談でーす! 東京から来ました!」
羅璃の滅茶苦茶なジョークにも、母親は苦笑いしながらも、なんだか楽しそうに受け答えしている。羅璃は、俺が想像していた「家の空気を乱す厄介者」というより、むしろ母親にとっては新鮮で面白い存在に映っているようだった。
俺は、その様子をただ呆然と見ているしかなかった。あんなに実家に来るのを嫌がっていたくせに、羅璃はもう母親と打ち解け始めている。
リビングに通されると、父が座っていた。父は元自衛官で、口数が少なく堅物な性格だ。
定年が早い自衛隊から今は警備会社に移り勤めている。
俺は子供の頃から父が苦手だった。多感な時期は、父は出張と航海で家を空けていなかった。
なので未だに何を話せばいいか分からないし、いつも俺のダルそうな態度に呆れているのが伝わってくる。
「…父さん」
俺が挨拶すると、父は無言で新聞から目を上げた。
俺の隣にいる羅璃を見て、その表情に微かな驚きが浮かんだが、すぐに元の無表情に戻った。
「…帰ったか」
父はそれだけ言い、また新聞に目を戻そうとする。
いつも通りの、希薄なやり取りだった。俺はまた言葉に詰まる。
この気まずい沈黙が、一番嫌いだ。
すると、羅璃が再び間に入ってきた。
「どーも! 初めまして、お父さん! 私、羅璃です! しょーへーのお友達でーす! お父さん、なんか強そうですね! 自衛官とかやってたんですか!?」
羅璃は、父の威圧感にも全く臆することなく、興味津々といった様子で話しかけた。父は、羅璃の遠慮のない言葉に、少しだけ新聞を持つ手を止めた。
「…元、だがな」
父が、珍しく自分から言葉を発した。
「へー! すごーい! なんか武道とかやってるんですか? 筋肉ムキムキですもんね!」
羅璃は父の腕を見ながら言う。
父の顔に、微かに、本当に微かにだが、照れくさそうな色が浮かんだように見えた。
「…少々、かじっただけだ」
父が答える。俺は、父が羅璃と普通に会話していることに、驚きを隠せなかった。
俺とだと、いつも挨拶と一言二言で終わってしまうのに。
羅璃は、父に色々なことを尋ね始めた。
自衛官時代の話や、横須賀の街の話。
父は、初めはぶっきらぼうに答えていたが、羅璃の明るさと、彼女が持つ「活力」に引っ張られるように、だんだんと口を開き始めた。
俺は、その様子をただ見ているだけだった。
父と俺の間に、羅璃という存在が入り、今までなかった会話が生まれている。
「翔平が生まれた時は海の上だった。郵便空輸のヘリが来て電報だったんだ『男子うまれる』ってな」
「そんな話初めて聞いたよ…」と俺が言うと
「そうか…船の仲間が祝福してくれてな…」
父は出産にも立ち会えなかったと寂しそうな顔をした。
「…ねえねえ、しょーへーの名前はどうやって決めたの?」
「ははは…お前のお母さんが決めたんだ。平の字は親父…翔平の祖父から一文字貰ったと」
父が戻るころには届け出も間に合わないということで、実家に戻っていた母が両親と相談して俺の祖父にあたる父の「平三郎」から一文字をもらい、平和の世界に羽ばたくという意味を込めて「翔平」と名付けた…と、家に戻ってから聞いたと。
「やっぱ、名前って大切だよね~ヨカッタネしょーへー適当に付けられた名前じゃなくて」
「え?あ、うん…そうなのかな…あまり考えたことないけど…嫌いじゃないかな」
「そうか」良かったなと父が言った。
そんな僅かばかりだが、父と羅璃と共に会話のやりとりをした。
希薄だった親子関係に、ほんの少しだが、温かいものが流れ込んできているような気がした。
その時だった。俺は、またしても羅璃の身体に変化が起きていることに気づいた。
羅璃の赤い肌に刻まれた禍々しい模様が…また、大きく消えている。
特に、背中や腰のあたりの、目立つ大きな模様が、ごっそりと無くなっているのが見て取れた。
赤褐色の肌色はわずかながら薄くなり、羅璃の身体は、どんどん人間の肌に近づいている。
「…!」
俺は息を飲んだ。電車での件で大きく消えたばかりなのに、またこんなに…!
「あれ!? なに!? また消えた!?」
羅璃も自分の身体の変化に気づき、驚きと喜びの声を上げた。
「うっっっっっっわ! ホントだ! すごい消えてる! なになに!? 今度はなんの煩悩!?」
ひゃっほーラリってボンノー!とまたいつもの変な踊りをしている。
羅璃は興奮気味に自分の身体を触っている。俺は、羅璃の身体の変化と、さっきの父との会話を結びつけて考えていた。
(…父さんとの関係、か?)
今まで、父と向き合うことを避けてきた。俺が多感な時期、父は海上自衛官で、遠洋航海や地方基地への単身赴任で不在の時期が多かった。
自衛隊は55歳が定年でそれまでほとんど会話をしたことが無く、職業柄厳しい性格なのは知っていたので苦手意識、気まずさ、何を話せばいいか分からない、という無気力さが支配していた。
それが、俺と父さんの間にある「煩悩」だったのかもしれない。
親との関係を希薄にしたまま放置していたこと。そして、羅璃が間に入ってくれたことで、父さんと少しだけ言葉を交わすことができた。
それは、希薄だった親子の縁が、ほんの少しだけ復活した瞬間だった。
羅璃が俺に詰め寄る。
「ねーねー! しょーへー! なになに? 今、なんか煩悩解放したの? 何したの?」
俺は、羅璃の目を見つめた。
「…父さんと…話したから?少しだけだけど…」
俺の言葉を聞いて、羅璃は目を見開いた。
「え…? それだけ?」
「ああ。でも…多分、それが…俺にとっての、父さんとの間の、煩悩だったんだ」
羅璃は俺の言葉を聞いて、そして自分の身体の変化を見て、納得したような、そして感動したような顔をした。
「そっか…しょーへー、お父さんと話すの苦手だったもんね。
それを乗り越えて、ちゃんと向き合ったんだ…それが、この模様を消したんだ…」
羅璃は俺の手を掴んだ。その手は、さっきまでより、また少しだけ柔らかくなっていた気がする。
「そうだよ! それってね、痴のことだよ!しょーへーが自分から避けて、見て見ぬふりしてた、親との間に生まれた心の壁! つまり、 親子の縁を勝手に断ち切ってるような、情愛の希薄さっていう、デッッッッッッッカイ煩悩だったんだよ!」
羅璃は力説する。
親子の縁を断ち切る罪…情愛の希薄。
そういうものも、煩悩に含まれるのか。
自分がただ面倒で避けていただけだと思っていたことが、羅璃にとっては「デッカイ煩悩」だったらしい。
「アンタはね、今までその煩悩から目を逸らして、親との関わりをダルいって放ったらかしてた。
でも、今日、私のおかげだけど(強調)、ちゃんと向き合って、お父さんと少しでも話せた!
それは、そのデッカイ煩悩に、正面から向き合った証拠!」
羅璃は俺の腕を掴んだ。
「すごいよ、しょーへー。アンタ、ちゃんと変わってきてる。
自分の心から避けてたことにも、ちゃんと向き合えるようになってきてるんだ」
羅璃の言葉は、素直に嬉しかった。
ダルさの中に、確かに、少しずつだが、変わり始めている自分がいることを実感した。
羅璃という存在は、俺が避けてきた全てを、無理矢理にでも俺に突きつけ、向き合わせている。
そして、その結果が、羅璃の身体の模様が消えるという、目に見える変化として現れる。
俺の無気力な日常は、完全に「ラリった世界」になった。
そして、その世界は、電車内での暴力、そして実家での希薄な親子関係といった、俺が避けてきた煩悩に満ちていた。
羅璃という存在が、それらを浮き彫りにし、俺に乗り越えることを強いている。
羅璃の肌は、醜い?煩悩の模様が消えてどんどん人間のものに近づいている。
彼女が完全に「自由」になる時、俺はどうなっているのだろうか。
そして、その時、羅璃は…?
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