第三十五話:神社・生姜
日曜日。いよいよ決行の日だ。
朝から、とてつもない緊張が俺を襲っていた。
胃がキリキリする。
羅璃は、そんな俺の隣で、昨日の今日とは思えないほど元気だ。
耳には、昨日俺が贈った月と星のイヤリングが、キラリと光っている。
それを見るのは嬉しい。
羅璃との「デート」は、俺の人生で最も充実した一日だった。
羅璃が俺の言葉を涙ながらに喜んでくれたことも、忘れられない。
だが、今日は、天宮寺さんの力になる日だ。
事前の打ち合わせでは、とにかく天宮寺さんの話に合わせて、御父上の機嫌を損ねないように努め、場が和んだところでバンドの話に持ち込み、説得するということになっていた。
「昨日のしょーへーはカッコよかったぞ! ちゃんと自分の想いを言葉に出来るなんて素敵だから、さくらだってそのお父さんだって、素直に話せば伝わるよ!」
羅璃は、俺を励ますように、楽観的にそう言った。
だが、俺は羅璃ほど天宮寺さんのことを理解していない。
彼女がどれほど切羽詰まっているのか、彼女の家族がどれほど厳格なのか。
そんな自信のないことを考えていたら、段々、緊張が増してきた。
関東大神宮は、東京山の手の中心、皇居の近くにある。
伝統と格式ある、実に立派な本殿があり、お参りや拝殿結婚式、厄払いなど様々な行事が行われているらしい。
東京の中心に在りながら、高層ビル群に囲まれるでもない広大な敷地は、まるで別の空間のようだ。
羅璃は、俺の隣で、何の躊躇いもなく普通についてきている。
霊験あらたかな神社に、羅璃のような存在が入れるのだろうか…そんな疑問が頭をよぎった。
だが、俺の腕に捕まって、羅璃はごく普通に鳥居をくぐっている。
(羅璃って、本当に何なんだ…?)
俺は、もう分からなくなっていた。
以前は、羅璃の正体を探ろうと疑心暗鬼になった時期もあった。
しかし、今は、そんなことどうでもいい。
羅璃は羅璃だ。
俺の目の前にいて、俺を導き、俺の煩悩を解消してくれる存在。
それで十分だ。
言われていた社務所の裏側に行くと、巫女姿の天宮寺さんが立っていた。
真っ白な小袖に緋袴。その和装姿は、とても似合っていた。
凛とした美しさの中に、どこか神聖な雰囲気を纏っている。
「潟梨君、羅璃さん。今日はありがとうございます…」
天宮寺さんは、深々と頭を下げた。
「その…申し訳ありませんが、羅璃さんは…ご遠慮ください…」
天宮寺さんは、申し訳なさそうに、羅璃に言った。
「わーってるよ!」
羅璃は、不満そうな顔で、イーをするポーズを取った。
何か言いたそうだったが、天宮寺さんの真剣な顔を見て、一応は納得したようだ。
やはり、羅璃のような特殊な存在は、神社の敷地内では問題があるのだろうか。
「しょーヘー…何考えてるのかわかるゾ…あのな…両親に彼氏紹介するのに別の女連れてたらサイアクだろ…w神社とか関係ないし…状況にばっかとらわれるなよ~」
な、ナルホド…それ言ったらそもそもここに連れてきたらダメな気がするが…それは黙っておく。
「ごめんなさい、羅璃さん。巫女姿は仕事着なので…着替えてから中にご案内しますね」
天宮寺さんは、そう言って、一度社務所の中へと入っていった。
「わー、しょーへー、さくらの巫女姿にやられたな!」
羅璃が、ニヤニヤしながら俺の肘を小突いた。
確かに、巫女姿の天宮寺さんはとても綺麗で、まるで漫画やアニメのキャラクターのようだった。
非現実的な美しさがあった。
しばらく境内を散策し、お守りなどを見ていると、天宮寺さんが再び現れた。
今度は、白いワンピース姿に、フワフワとした上品なジャケットを羽織っている。
巫女の姿も良かったが、このワンピース姿は、天宮寺さんの清楚さが際立ち、一層美しさを感じた。
「おー、気合入ってんじゃん〜。いいねー!」
羅璃が、また揶揄うように言った。
天宮寺さんは、少しはにかんだような顔で、俺を促した。
「父も待っています。行きましょう」
天宮寺さんは、そう言って、社務所の中に案内してくれる。
羅璃は、社務所の入り口で立ち止まり、俺に振り返った。
「じゃあ、後でなー!」
羅璃の言葉に、俺は小さく頷いた。
社務所の中、控室兼事務室のような場所に案内されると、宮司姿の初老の男性が待っていた。
背筋がピンと伸び、眼光は鋭い。その威厳に、俺は思わず居住まいを正した。
「よく来たね…君が、手違君だったかな?」
宮司が、こちらを鋭い目で見つめながら言った。
「…潟梨です」
俺は、思わず口答えするように、自分の名前を訂正した。
「はっは、失礼。片付くんか」
宮司は、笑いながら、またもや俺の名前を間違えた。
「潟梨です」
俺は、もう一度訂正する。
羅璃が「ほら、お前は無気力で影が薄いから、名前も覚えられねえんだよ」と、俺の煩悩を突っついていた頃の事を思い出した。
だが、今は違う。俺は、自分の名前を覚えてもらえないことに、少しだけ悔しさを感じている。
「型崩君?」
宮司は、またもや微妙に違う呼び方をした。
その瞬間、天宮寺さんが、焦ったように宮司を制した。
「お父さん!」
「う、うん。すまんな。娘が彼氏を連れてくるなぞ戯言を言うから、驚いて動揺してしまってね…」
宮司は、そう言って、俺を改めて見た。俺は、もう一度、はっきりと名乗った。
「潟梨翔平です」
「うん、それで…娘と…その、付き合っているというのは、本当かね?」
宮司の目が、さらに鋭くなった。本番だ。
「え?…あ、はい。天宮…いえ、さくらさんとは、同じ大学の同級生でして…」
俺は、事前に打ち合わせた通り、言葉を選んで答えた。
同級生であり、親しい関係。嘘はついていない。
「そんなことは聞いておらん。付き合っているのかね…と聞いておる」
宮司は、俺の曖昧な答えを許さなかった。
直接的な言葉を求めている。俺の心臓が、ドクンと大きく鳴った。
「あ、は、はい! 親しくさせて頂いております…!」
俺は、半ば反射的にそう答えた。
天宮寺さんは、俺の隣で、少しだけ安堵したような表情を浮かべている。
「ふん…翔平君か。世界に冠する大リーガーと同じ名前だな」
宮司が、フッと鼻で笑った。まさかの、大リーガーネタだ。
「あ、はい…よく言われます」
俺は、当たり障りのない返事をした。
だが、宮司の目は、俺から離れない。
「嘘は良くないな…」
宮司の言葉に、俺はゾッとした。
「え…?」
「君の友人は多くなく、野球の話題で触れてくるような人はいない」
宮司は、そう言い放った。
「え…?」
この人は、どこまで知っているんだ?
俺が友人が少ないことまで。
宮司は、俺の過去の無気力さや、人との関係性にまで、深く踏み込んできている。
俺は、少し狼狽した。これは、想像以上に手強い相手だ。
宮司は、さらに俺を試すように、質問を重ねた。
「では、娘のどんな所に惹かれたのかね?」
俺は、言葉に詰まった。
羅璃が昨日言ってくれた言葉を思い出す。
「ちゃんと自分の想いを言葉に出来るなんて素敵だから、さくらだってそのお父さんだって素直に話せば伝わるよ!」
俺は、意を決して、言葉を紡ぎ始めた。
「…彼女の清らかさ、聡明さ、そして美しさに、最初惹かれました」
さくらさんは、俺の言葉に、少し嬉しそうに頬を染めた。
だが、宮司は、表情一つ変えなかった。
「ふむ。そんなことは当たり前だ。さくらは、私と妻で大切に育てて来たのだから」
宮司の言葉に、俺はたじろいだ。
これでは、一般的な褒め言葉でしかない。
羅璃が言っていた「誰もが気づく点」に過ぎない。
もっと、俺自身の言葉で、さくらさんへの思いを伝えなければ。
俺は、再び羅璃の言葉を思い出した。
『自分の気持ちを言葉に出来れば』
「…はい、もちろん最初は誰もが気付く点に、私も惹かれました」
俺は、宮司の目を真っ直ぐ見つめた。
「しかし、彼女はそれを差し置いても…俺、いや、私のためを思って、大して面識もない中、真摯に動いてくれたり、友人と一緒に趣味に打ち込んだりする一途な姿勢に惚れました!」
俺は、気づけば、思わず立ち上がって、熱弁を振るっていた。
感情が昂り、いつの間にか「私」から「俺」に戻っていた。
目の前で、さくらさんが、両手で口を覆い、驚いたような顔をしている。
宮司は、少しも動じることなく、俺の言葉を聞いていたが、その表情には、ほんのわずかな変化があったように見えた。
「ふむ。娘の良い内面を引き出してみてくれている様だね。ありがとう」
宮司の言葉に、俺は安堵した。
「あ、いえ、どういたしまして…」
俺は、座り直し、少しだけ顔を赤らめた。
さくらさんも、まだ驚いたような顔をしている。
すると、宮司が、今度はさくらさんのほうを向いた。
「さくら。この翔平君の、何処が良かったのかね?」
突然振られて、さくらさんは焦ったように顔を赤くした。
「し、翔平君は…!」
さくらさんは、俺の顔をちらりと見て、深呼吸をした。
「翔平君は…全てのことに全力で向き合うことをやめない。
諦めない。受け止める。そして、次の一歩を踏み出せるところです…!」
さくらさんの言葉は、俺の胸に温かく響いた。
羅璃が、俺に与えてくれたもの。
俺が、変わろうと努力してきたこと。
それが、さくらさんには伝わっていたのだ。
人から褒められることは、こんなにも嬉しいものなのか。
宮司は、さくらさんの言葉を聞いて、フッと笑った。
「娘が、他人を褒めたり、話題にすることさえ無かったのだから…全く驚きだ
さっきも言ったが、友人すら連れてきたことはない。それがいきなり彼氏とはね…
戯言などと言ってしまってすまなかったね」
宮司は、そう言って、俺とさくらさんを交互に見た。
その眼差しは、先ほどまでの鋭い探るようなものではなく、どこか、穏やかなものへと変わっていた。
だが、その後に続くさくらさんの父上である宮司の言葉で俺は凍り付く…
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