第二話:甘味クレープでクレーム堪忍
「…ほら、早く行くぞ! こんな無気力な奴、一刻も早く人間らしい感情取り戻させないと、私がおかしくなる!」
赤鬼ギャルの羅璃は俺の腕を掴み、強引に玄関へと引きずっていった。
着替えも何もせず、スウェットとTシャツのまま外に出されるのか? ダルい以前に、ヤバいだろ。
ギリギリ防寒のダウンジャケットだけはひっつかんで外に出た。
「さーってと! 今日はどこ行こっかなー!
美味しいもの食べたいし、可愛い服も見たいし、イケメンとかいないかなー!
あ、でもアンタが横にいたらイケメンも寄り付かないか! ウケる!」
羅璃に腕を掴まれたまま、俺は訳も分からないまま引っ張られていく。
除夜の鐘以降の頭の中が整理できない。
隣で羅璃がけたたましい声で騒いでいる。
さっきまでの不機嫌はどこへやら、もうすっかり楽しそうだ。
本当に感情の起伏が激しい奴だな。
街に出ると、当然ながら羅璃の姿は注目の的だった。
真冬にもかかわらず、露出度の高いギャルファッションに、真っ赤な肌、頭の角、そして全身の禍々しい模様。誰もが立ち止まり、二度見し、ヒソヒソと囁いている。
まるで動物園の珍獣を見るような視線が、羅璃…
そして羅璃の横にいる俺に突き刺さる。
「うっわ、マジ見てる見てる! なんか私、有名人みたいじゃん?
しょーへー、どう? 私ってば目立ってる?」
羅璃は周囲の視線に全く動じることなく、むしろ楽しんでいる。
俺は恥ずかしくて、思わず俯きそうになったが、羅璃に腕を掴まれている手前、それもままならない。
「当たり前だろ…こんな格好してる奴、他にいねぇんだから…」
ボソリと呟くと、羅璃は
「えー? 褒めてくれてるの? サンキュー!」と的外れな反応をする。
こいつには俺の言葉のニュアンスとか全く伝わらないらしい。
街を歩いていると、羅璃はありとあらゆるものに反応した。
「あ! あのたこ焼き屋さん、超美味しそう! 匂いヤバいんですけど!」
「えー! あの服ちょー可愛い! 私に似合うかな!?」
「うっわ、でっけー犬! モフりたい!」
いちいち立ち止まり、デカい声で騒ぐ。
その度に、周囲の視線がグッと集まる。
やめてくれ、勘弁してくれ。
「…なあ、別に俺、付き合う義務とかないだろ」
「はぁ? なに言ってんの? あるに決まってんじゃん!
アンタが煩悩向き合わないと私ヤバいんだよ?
そのためにも、まずはアンタの五感を刺激して、世界には楽しいことがいっぱいあるんだって教えてあげなきゃ!」
羅璃はそう言うと、クレープ屋さんの前に俺を引っ張り寄せた。
甘ったるい匂いが漂ってくる。別に食べたくもない。
「金…持ってねぇぞ」
抵抗する意味も込めて、俺は財布を持っていないことをアピールした。
急に連れ出されたんだから、ポケットには小銭くらいしか入っていないはずだ。
すると、羅璃は「えー、ウッソ~マジ?」と言いながら、突然俺の上着のポケットに手を突っ込んできた。
「ちょっ…何してんだよ!」
「いやいや、ちゃんと持ってるじゃん! ほらー!」
羅璃の手には、確かに俺の財布が握られていた。
いつの間に!? そういえば、昨日のバイト帰りに財布の中身を確認したのを覚えている。
それをそのままポケットに入れたままだったのか。
「…何勝手に人の財布触ってんだよ」
「いーじゃんいーじゃん! 私、アンタの煩悩と失われた活力から生まれたんでしょ?
ってことは、私ってばアンタの一部みたいなもんなワケ!
だから、しょーへーのモノは私のモノ~!」
羅璃はそう言い放つと、勝手に俺の財布から千円札を取り出した。
「ハイ、これでクレープ買って!」
羅璃はクレープ屋の店員さんに満面の笑みで話しかけている。
店員さんも、羅璃の奇抜な見た目に明らかに戸惑っている。
「あんた…本当に何なんだよ…」
俺は呆れて羅璃を見つめるしかなかった。
俺の部屋に勝手に現れ、俺の財布を勝手に使い、そして俺を勝手に街に連れ回し、騒ぎ立てる。
そして、その理由が「俺の煩悩を解放するため」で、そうすれば「私は自由になる」らしい。
もう、ダルいを通り越して、なんか色々と限界かもしれない。
クレープを受け取った羅璃は、美味しそうに頬張り始めた。
その姿は、禍々しい模様と赤鬼の角があることを除けば、普通の女の子が買い食いを楽しんでいるように見える。
周囲の視線は刺さるように痛いのに、こいつは全く気にする様子がない。
「あー! 超うまい! アンタも一口食べる? ほらほら!」
羅璃がクレープを俺の口元に突きつけてくる。
甘ったるいクリームの匂いが鼻腔をくすぐったが、食べる気にはなれない。
俺は無言でそれを避けた。
すると羅璃はむっとした顔になり、強引に俺の顎を掴んだ。
「なっ…!?」
「もう! 食べてみなってば! こんな美味しいもの、無気力とか言って食べないとかマジありえん!」
羅璃はそのままクレープの先を俺の口に押し込んできた。
抵抗する間もなく、冷たいクリームと、少しだけ温かい生地が口の中に広がった。
「んんっ!?」
口の中に広がる、予想外の味覚。
とろりとしたクリームの、強烈な甘み。
その奥に感じる、クレープ生地の、ほんのり香ばしい卵の風味。
そして、瑞々しい苺の、キュッとくる酸味と、さっぱりとした爽やかさ。
今まで、食べ物なんて腹を満たすだけのものだとしか思っていなかった。
何せ普段は実家仕送りのコメを炊いて、ふりかけか…せいぜい納豆で味を変えるくらい。
味がしても、それはただ「甘い」「しょっぱい」といった記号でしかなかった。
でも、今、俺の口の中で混ざり合ったクレープの味は、一つ一つの風味がはっきりと主張してきて、五感を直接叩き起こされるような感覚だった。
鼻に抜ける苺の香りは、街の空気とは違う、生きた植物の匂いだった。
「…どう? 美味しいでしょ?」
羅璃が自信満々に聞いてくる。俺は何も答えられなかった。
ただ、口の中に残る複雑な味の余韻と、それを感じ取った自分自身に、ほんの少しだけ戸惑っていた。この味は…なんだ? 別に、感動するほど美味いとか、そういうことじゃない。
ただ、今まで自分が感じてこなかった「味」という感覚が、確かにそこにあった。
羅璃は俺の反応を見て、ニッと笑った。
「ほらね! 世界には美味しいものが、楽しいことがいっぱいあるんだよ!
アンタのそのダルそうな目に、もっと色んなもの見せて、食べさせて、触れさせて、聴かせて…アンタの五感を、感情を、全部叩き起こしてやるんだから!」
羅璃の言葉を聞き流しながら、口の中の余韻に意識を向けていた。そして、その時だった。
突然「あああああ!!!キタ!!」と奇声を上げた。
「えっ、何!?」
俺が驚いて羅璃を見ると、彼女は自分の左手首と手の甲をまじまじと見つめて、飛び上がらんばかりに喜んでいた。
「あ! 手首と手の甲の“味欲”の模様、ちょっと薄くなってるー!
ラリってボンノー!!
うん、いいぞ順調!」
こっちを向いてニカっと笑う。
「超うまいって感じた瞬間、煩悩一個ぶっ飛んだってことね!」
「は? 何が…」
俺も羅璃の手元を見た。
そこには、さっきまでびっしりと刻まれていた禍々しい黒い模様が…
確かに、少しだけ薄くなっている箇所があった。
特に手首のあたりと、手の甲の目立つ模様の一部が、肌色に近づき、輪郭がぼやけている。
「マジだ…」
思わず呟いた。羅璃の身体の模様が、本当に消えた?
「キャハ! 見た!? しょーへー見た!? 私のこの美しい肌が! 一部だけど戻ってる! 復活してる!!!」
羅璃はまたしても変な踊りをしていた。
街中で注目の的なのに、そんなこと全く気にしていない。
自分の手首を俺に突きつけ、その変化をこれでもかとアピールしてくる。
「これも全部! しょーへーがクレープの味をちゃんと感じたおかげだよ!
ほら! 味覚に絡むっていう煩悩を、少しだけだけど解放した証拠!」
煩悩? 味覚が? いや、あれは別に煩悩っていうか、ただの感覚だろ…。
でも、羅璃は興奮冷めやらぬ様子で俺の腕を掴んだ。
「うっっっっっっし!!! この調子でどんどんアンタの煩悩解放するよ!
解放すればするほど私の肌が綺麗になるし、自由への道が開けるんだから!」
羅璃は俺の腕をぶんぶんと振った。
俺はただ、その光景に呆然とするしかなかった。
クレープの味を感じた。
ただそれだけのことで、羅璃の身体の禍々しい模様が消えた?
出かける前もさらっと消えていたみたいだが…
除夜の鐘の音を思い出す。百八回。
煩悩の数。羅璃の身体に刻まれた模様は、全部で百八個あるんだろうか。
そして、今消えたのは、そのうちの…一つ?
あるいは、味覚っていう煩悩の中の、さらに細かい要素が消えた?
「108分の、いくつなんだ…?」
羅璃には聞こえないように、小さく呟いた。
羅璃の全身に刻まれた模様は、とても数えきれるような量じゃないように見える。
もしあれが一つ一つカウントされるものなら、一体どれだけあるんだ? そして、今消えたのは、その中のごくごく一部。だが、朝に一つ、そして今二つ目。
道のりは…果てしなくダルそうだ。
しかし、目の前で自分の手の模様が薄れたことを心から喜ぶ羅璃の姿を見ていると、完全にどうでもいい、と突き放すこともできなくなっていた。
彼女の喜びは、まるで自分のことのように…
いや、正確には「自分の一部」のことだから当然なのかもしれないが…妙に強く伝わってきた。
とにかく、俺の無気力な日常は、羅璃が現れたことで、文字通り「色」づき始め、そして、俺の内面の変化が、羅璃の身体という形で視覚化されるという、前代未聞の事態になっていた。
そして、羅璃は俺の財布からまた勝手にお金を取り出し、「次はあれ食べるー!」と叫びながら、次の店へと俺を引っ張っていくのだった。
俺の煩悩解放大作戦は、こうして、クレープの甘酸っぱい味覚と、赤鬼ギャルの狂喜乱舞から始まった。
(2/108)