第二十六話:消えるラリ・キレるオレ
サークルで羅璃の姿の見え方に関する驚きの真実を知り、キャラクターデザインの宿題をもらってアパートに戻る。
頭の中は、羅璃が人によって違う姿に見えているという事実と、俺だけが羅璃の「人ではない」側面を強く認識しているということ、そして、その羅璃が俺の煩悩と深く繋がっているという、あまりにも非現実的な情報で混乱していた。
ダルい。
疲労困憊だ。
部屋に着くと、もう限界だった。
考えるのも、立っているのもダルい。
俺は、そのままベッドに倒れ込んだ。羅璃が何か言っていたような気がするが、もう何も聞こえない。身体中の力が抜けていくのを感じた。このまま、暗闇に落ちて行きたい。
意識が…遠のいていく。
深く、深く…暗闇の底へと沈んでいくような感覚。
羅璃に、聞かなければならないことがあったはずだ。
なぜ、俺にだけ違う姿が見えているのか。本当に、俺の煩悩が解消されれば、羅璃は消えてしまうのか。意識を、失う寸前。
すると、暗闇の中に、光が現れた。そして、その光の中に、誰かが立っている。
羅璃だ。
でも、いつも見ている羅璃の姿とは違う。赤い肌ではない。角もない。全身に禍々しい文様もない。そこに立っているのは、ごく普通の、可愛らしい女の子だった。見慣れない姿なのに、それが羅璃だと分かる。
「…しょーへーは…変わったね…」
羅璃が、寂しそうな、でも優しい声で言った。
「…羅璃の…役目は…終わったのかな…?」
その言葉に、俺の胸が締め付けられた。終わった? 羅璃の役目が? それは…消える、ということなのか?
「…おわった…?」
震える声で聞き返した。
羅璃は、静かに頷いた。
「最初に言ったよね? しょーへーに活力を与えて…煩悩を…解消するって」
羅璃が、俺に現れた理由を改めて語る。活力を与える。煩悩を解消する。それが、羅璃の役目。
「…煩悩って…百八個…あるんだよな…」
俺は、羅璃が初めて現れた時に聞いた言葉を思い出した。
百八の煩悩。
俺の無気力は、それらを全て心の奥底に追放した結果だと言われた。
「まだ…全部…解消してない…」
俺は、羅璃の身体に残った、微かな文様のことを言っている。羅璃は、俺の言葉に微笑んだ。
「うん…煩悩にはね…色々種類があるんだよ…」
羅璃が、煩悩について、夢の中で改めて説明し始める。貪欲、怒り、無知…羅璃が最初に言っていた、根本煩悩。
「根本煩悩は…三毒っていってね…それが…無くなれば…もう…」
羅璃の声が、遠くなっていく。三毒。額、胸、下腹部に残っている、大きな文様。それが無くなれば…? 何が?
羅璃の姿が、光の中に霞んでいく。消えてしまうのか? 羅璃が?
「もう…しょーへー…残りは…後…」
羅璃の声が、完全に聞こえなくなる。その時、俺の意識が、一気に浮上した。
はっ!!
飛び起きるように、目が覚めた。全身から、冷や汗が噴き出している。心臓がバクバク鳴っている。夢だ。全部、夢だったのか?
周囲を見渡す。俺の部屋だ。朝日が差し込んでいる。朝になっている。
そして…隣のベッドを見る。ソファを見る。部屋の中を見回す。
誰もいない。
「…………え?」
脳裏に、夢の中の羅璃の言葉が蘇る。
「役目は終わったのかな?」
「残りは後…」
そして、あの消えかかった羅璃の姿。
まさか…本当に? 俺が羅璃の正体に気づき始めたから? それとも、ゲーム制作という新たな目標を見つけ、煩悩が全て解消されたと見なされたから?
「…羅璃…?」
声を出す。部屋の中に響くのは、俺の声だけだ。
消えたのか? 羅璃が? 俺の無気力な人生に、無理やり「ラリった世界」を持ち込んできて、俺を変えて、そして…俺が変わり始めたら、役目が終わって消えてしまう、と?
胸の奥が、ズキンと痛んだ。
泣きそうになる。
嫌だ。羅璃が消えるなんて、嫌だ。
ダルいと思っていたはずなのに。
早く元の日常に戻りたいと思っていたはずなのに。
その時、洗面所の扉が開く音がした。
「あー、スッキリしたー!」
羅璃の声だ。
洗面所から出てきたのは…羅璃だった。
髪をタオルで拭きながら、俺の、ダルダルなTシャツを一枚着ている。
「え? なに? しょーへー? 顔色悪いよ?」
羅璃は、不思議そうな顔で俺を見ている。
生きている。
目の前にいる。
消えていない。
「…あれ…?」
俺は、羅璃の姿を見て、そして部屋の中を見回す。
さっき、羅璃がいなかったのは…?
「…夢…?」
自分が、夢を見ていたことに気づく。羅璃が消えてしまった、という夢を。
そして、夢の中の、普通の女の子の姿の羅璃。
羅璃の役目が終わった、という言葉。
夢だったのか。
それとも、夢は、現実の羅璃の気持ちや、今後の展開を、俺に見せたのだろうか。
安堵した。羅璃が、消えていないという事実に、心底安心した。そして、それが夢だったという事実に、なぜか嬉しくなって、笑いが込み上げてきた。
「…っくく…あははははは!」
俺が突然笑い出したのを見て、羅璃はさらに不思議そうな顔をしている。
「な、なに? しょーへー? 大丈夫? 寝ぼけてんの?」
羅璃が、俺の近くに寄ってきた。
俺は、笑いをこらえながら、羅璃を見た。目の前にいる。温かい。
羅璃は、俺の笑いと、安堵した顔を見て、何かを察したらしい。
ニヤリ、と笑った。
いつもの、人を揶揄うような笑みだ。
「…フーン? しょーへー…悪い夢でも見たの? 私が…消えちゃう夢とか?」
羅璃は、俺の心を全て見通しているかのように、そう言った。
図星だった。
羅璃が消えてしまう夢。
そして、その夢の中で、羅璃の役目が終わった、と言われたこと。
羅璃は、俺の反応を見て、さらに笑った。そして、ニッと、何かを思いついたような笑みを浮かべた。
「ま、いーや! それより! しょーへー! 見て!」
羅璃はそう言うと、自分が着ていた俺のTシャツの裾を掴み…
「…みて!」
羅璃は、俺の目の前で、Tシャツを脱いだ。
「ちょっ…!?」
俺は、咄嗟に顔を覆った。羅璃が、また、裸に!? 以前なら何も感じなかったはずなのに。
コンビニでの件、ファッションを変えた件、そして…羅璃の「一枚も二枚も脱ぐぜ?」という言葉を聞いて以来、羅璃を異性として意識し始めている俺にとっては…刺激が強すぎる。
顔を覆った俺を見て、羅璃は笑った。
「あはははは! 何顔覆ってんの? バカじゃん!」
羅璃は、笑いながら、俺の目の前で、身体を回る。タオル一枚ではない。下着をつけている。
「ほら! 見ろよ~! マジでほとんど消えたんだって!」
羅璃は、自分の身体を見せつけるように回る。
俺は、顔を覆った指の間から、羅璃の身体を見た。
羅璃の言う通りだった。身体に刻まれていた、禍々しい文様。そのほとんど全てが、完全に消え失せている。肌色の部分が、羅璃の身体の大部分を占めている。残っているのは、本当に、ごくわずかな、微かな文様だけだ。
俺の煩悩が、解消されていくにつれて、羅璃は、どんどん人間になっていく。その過程を、何度も目の前で見てきた。でも、ここまで劇的に変化したのは、ハルカさんとの再会の時以来だ。
「…すごい…本当に…」
俺は、顔から手を離し、羅璃の身体を見つめた。
「…もう…これで…お別れ…なのか…?」
思わず、口から出た言葉だった。
羅璃の役目は、俺の煩悩を解消すること。
煩悩がほとんど消えた今、羅璃の役目は、もう終わりなのではないか。
羅璃が「自由になる」時、それは、羅璃が消滅する時なのではないか。
夢の中の羅璃の言葉が蘇る。「役目は終わったのかな?」
羅璃は、俺の言葉を聞いて、フッと微笑んだ。
そして、俺の目の前で、正面を向いて立ち止まった。
「…まだ…終わってないよ…しょーへー」
羅璃は、そう言って、自分の下腹部…少しヘその下あたりを指差した。
そこには…羅璃の赤い肌に刻まれた、最後の、そして最も大きな文様が残っていた。
それは、他の文様とは違い、どこか有機的な形をしていた。そして…ハートのような形をしていた。
「…これ」
羅璃は、その文様を指差した。
「…これが…最後に残った…大きな煩悩の貪」
羅璃は、その文様の名前を告げた。貪。三毒の一つ。貪欲。求める心。そして、それが、ハートの形をしている。下腹部に。
夢の中で羅璃が言っていた言葉を思い出す。
「根本煩悩は三毒っていってね…それが無くなれば…」
最後に残った、最も根深い煩悩の一つ。それが、俺の心の中にある「貪」なのか。
「これはね…しょーへーはもう…知ってるんだよ」
羅璃は、静かに言った。
「ただ…向き合ってないだけ」
知っている。何を?
羅璃の身体に残った、ハートの形をした「貪」の文様。
それが示している、「知っているのに向き合ってない」貪欲とは、一体何だ? 恋愛感情?
羅璃に対する、異性としての「求める心」?
あるいは、もっと別の、根本的な「欲求」?
俺は、混乱していた。羅璃の身体の劇的な変化。
最後に残った、意味深な文様。そして、羅璃の言葉。
「でも!」
羅璃は、すぐにいつもの明るい声に戻った。そして、俺の腕を掴んだ。
「その話は後! 先ずはゲーム作ろうよ! 私のデザイン、もう描いてくれたんでしょ!?」
羅璃は、俺の混乱をよそに、もう次の行動に移ろうとしている。
ダルい。
でも、羅璃の身体に残った最後の文様。
そして、羅璃の言葉。「知っている。ただ、向き合ってないだけ」。
俺が向き合わなければならない、最後の「貪」という煩悩。
それは、俺の「ラリった世界」の、そして羅璃という存在の、核心に繋がるものなのだろう。そして、それが解消された時、羅璃は…
考えるのはダルい。でも、羅璃の身体に残った、ハートの形をした最後の文様は、俺に、その答えを見つけることを強いているようだった。
「…ダルい…」
そう呟きながらも、俺は羅璃に引っ張られるまま、立ち上がった。
羅璃のデザイン。
ゲーム制作。そして、最後に残った「貪」
俺の「ラリった世界」は、最終章へと向かおうとしていた。
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