第二十五話:見たい・みたい
午前中の講義室での出来事の後、俺はキャンパスをあてもなく歩き回り、自分の感情の混乱をどう扱えばいいのか分からずにいた。
さくらさんと羅璃の言い争い、俺の突然の自己主張、そして、自分の中に生まれた、今まで知らなかった感情の波。
ダルい。
全てがダルい。
でも、そのダルさの中に、今までなかった種類の疲労感と、そして、微かな、しかし確かな、自分の心の動きがあった。
午後のサークル棟に向かう。
手には、昨晩徹夜で描き上げた羅璃のキャラクターデザインのラフスケッチが入ったファイルを持っている。
疲れと、午前の出来事による精神的な疲労で、足取りが重い。
「しょーへー、作ったゲームが出てバカ売れしたら良いよなぁ~」
「マイクラみたいにヒットしたら億万長者じゃん!やったな」
「羅璃は南国リゾートでバカンスしたいなぁ~」
昼飯の時に合流した羅璃は、俺の隣で、いつもの調子に戻っているようだが、どこか、俺の様子を気にしているのが分かった。
サークル部室の扉を開ける。
中には、山本中会長、中村山くん、寺社杜さんが集まっていた。
ゲーム制作の話でもしているのだろうか。
「あ、潟梨! 羅璃ちゃんも! 来た来た!」
中村山くんが、俺たちに気づいて声を上げた。
皆、俺の顔を見て、一瞬驚いたような顔をした。
徹夜明けで、明らかに消耗しているのが判るのだろう。
「遅かったな…潟梨。大丈夫か? 顔色悪いぞ」
山本中会長が、心配そうに尋ねてきた。寺社杜さんも、俺の顔を見つめている。
「あ…いえ、大丈夫です…徹夜で…」
「徹夜!? 何をだよ?」
中村山くんが興味津々だ。
「…羅璃の…キャラクターデザインを…少し…」
俺は、持っていたスケッチブックを寺社杜さんに手渡した。
「…これ…ラフなんですけど…」
寺社杜さんはファイルを受け取り、中を見た。そして…
「…え?」
寺社杜さんの目が、大きく見開かれた。
「…こんなに…描いてきたの…?」
寺社杜さんの声に、驚きと、そして、信じられないといった感情が混じっていた。
山本中会長と中村山くんも、興味を持って寺社杜さんの手元を覗き込む。
ファイルの中には、百種類近い羅璃のラフスケッチが入っている。
等身パターンを変えたり、様々なポーズをとらせたり、初期の禍々しいイメージから、今の姿、そして、ゲームキャラとしてのデフォルメまで。
迷いに迷った挙句、寺社杜さんの見せてくれたサンプルを元に、過去の名作アクションゲームのキャラクターデザインを参考にしながら、手当たり次第に描きまくった結果だ。
自分の信じる「良いモノ」を選定して絞った状態でプレゼンすべきなのかもしれなかった。
でも、決められなかった。何が正解なのか、分からなかった。
「うっわ! マジでいっぱい描いてんじゃん!」
中村山くんが、感心したような声を上げた。
「羅璃ちゃんから、これだけバリエーションを派生させるなんて…すごいな、潟梨」
山本中会長が、俺のラフスケッチを見て、そう言った。褒められている? 俺が?
「いや…あの…迷ってしまって…何をどうすればいいか、分からなくて…何も、決められなかったんです…」
俺は、正直に打ち明けた。
優柔不断だ、やる気がないならもういい、と怒られるのではないかと思っていた。
絵を描くことから逃げ出した、情けない自分を、また目の前に突きつけられると思っていた。
しかし、メンバーたちの反応は、予想とは全く違った。
「迷うのは当たり前だろ! ラリちゃん、唯一無二の存在なんだから!」
中村山くんが、俺の肩を叩いた。
「何も決められなかったんじゃなくて、これだけ一生懸命、羅璃さんと向き合って、色々な可能性を探ったってことだよ」
寺社杜さんが、俺のラフスケッチを見ながら、優しく言った。
「大変だっただろ? 徹夜までして…頑張ったな、、潟梨」
山本中会長が、俺の顔を見て、そう言った。その言葉は、俺の努力を、純粋に認めてくれる響きだった。
努力。
頑張った。
その言葉を聞いて、俺の中で、何かが込み上げてきた。
サッカーを諦めてから、絵を描くことを辞めてから、ずっと避けてきた言葉だ。
何かを頑張る。
努力する。
それが、報われることなんてもうないと思っていた。
どうせ無駄になると思っていた。
でも、目の前の皆は、俺のその「頑張り」を、見て、認めて、褒めてくれた。
「…っ…」
喉の奥が詰まる。視界が滲む。
「…まだ…何も…決まってない…のに…」
俺は、声にならない声で呟きながら、感極まって、泣いてしまった。
情けない。
何で泣いているんだ、俺は。
「いーんだよ、潟梨! まだ何も決まってないけど、これだけ頑張ったんだから!」
中村山くんが、俺の背中を擦ってくれた。
「そうだぞ。泣きたいときは泣けばいい」
山本中会長も、優しい声で言った。
寺社杜さんは、何も言わずに、ただ俺の隣に立っている。
そして、羅璃は…
羅璃は、その光景を、いつものように揶揄うこともなく、ただ静かに、優しい表情で見守っていた。羅璃の赤い瞳に、微かな、しかし確かな、温かさが宿っているように見えた。
俺の無気力な日常は、羅璃が現れてから、大きく変わった。
逃げてきた過去、避けてきた感情、他人との関わり。
それら全てに、羅璃は無理やり俺を向き合わせた。
そして、その結果、俺は、自分の努力を認められ、他人に褒められ、そして…心から、感動して、泣くことができた。
「…しっかし…羅璃ちゃんを鬼にするなんて…翔平の発想は面白いな」
中村山くんが、泣き止んだ俺を見て、ぽつりと呟いた。その言葉に、俺はハッとした。
「…え?」
中村山くんの言葉が、俺の中で、何か別の疑問と繋がった。羅璃を、鬼に…する?
「…先輩は…羅璃のこと…どう見えていますか?」
俺は、意を決して、尋ねた。
さっきのスケッチブックに描いた、鬼の羅璃のデザイン。
あれが、皆には「羅璃ちゃんを鬼にするなんて」と映った。
つまり、皆が見ている羅璃は、俺が見ている羅璃とは違うのか?
中村山くんは、俺の質問に、不思議そうな顔をした。
「どう見えてるって…そりゃ、羅璃ちゃんだろ? ちょっと変わってるけど、お前の彼女」
中村山くんの言葉に、俺は二度目の衝撃を受けた。
彼女? そして、ちょっと変わってる、だけ?
「肌の色も、少し変わってるけど…でも、珍しくないよな。最近のギャルとか」
中村山くんは、あっけらかんと言った。
「最初、お前にしては珍しい、ちょっと派手なギャル連れてきたなって思ったけど…
まさか、本当にお前の彼女だったとはな。
お前にしては、似合わないって思ってたけど…
羅璃さんと付き合い始めてから、お前変わったよな…
まあ、俺たちもゲーム作るなんて、去年まで全く考えてなかったけどな」
中村山くんは笑っている。山本中会長や寺社杜さんも、中村山くんの言葉に頷いている。
彼らにとって、羅璃は「ちょっと変わったギャル」であり、俺の「彼女」なのだ。
俺が見ている羅璃と、みんなが見ている羅璃は、同じではない。
この日何度目になる衝撃だった。
俺には羅璃は、頭部の角はそそり立ち、薄くなったとはいえ赤い肌、刺青のように残っている体の模様…どう見ても、まだ十分に鬼の姿だ。
でも、周りの皆には、そう見えていない。肌の色が少し変わったギャル、としか見えていない。
そんなことがあるのか? 同じものを見ているはずなのに、認知が違う?
慌てて、先日確認した、羅璃を初めて撮ったはずのスマホの写真を見せた。
俺には今の羅璃が写っているように見える写真。
「これ…この写真…どう見えますか?」
俺が尋ねると、皆、写真を見た。
「え? これ? ラリちゃんだろ?」
中村山くんが不思議そうに答える。
「ああ。羅璃さんだな。どうかしたか?」
山本中会長も、普通に答える。
「羅璃さんですね。可愛い」
寺社杜さんが、静かに言った。
皆には、写真に写っているのが、普通に羅璃だと認識できている。
だが、彼らが見ている「普通に羅璃」は、俺が見ている「今の羅璃」よりも、さらに人間らしい姿なのだろう。
見たモノを見たように解釈する。
でも、その「見たように」というのは、絶対ではない。
脳が、それぞれの経験や先入観、あるいは…何か別の要因によって、見たいもの、あるいは見せられるものを見ている。認知は、絶対ではない。
そして、羅璃だ。「羅璃は、ラリだよ」という羅璃のセリフ。
それは、羅璃という存在そのものが、「人ではない」という意味でもある。
煩悩が具現化した存在。
(…天宮司さんは…このこと…言っていたのか…)
天宮司さんが、羅璃を「人ならざるもの」だと言ったこと。
そして、羅璃の本当の性質を見抜いているようだったこと。
それは、天宮司さんもまた、羅璃の「人ではない」側面…俺が皆とは違う形で認識している羅璃の姿を、見ることができているから、ではないのか。神職としての能力で。
羅璃は、羅璃だ。俺が見ている、角があって赤い肌の羅璃も。
皆が見ている、少し変わった肌のギャルの羅璃も。
そして、天宮司さんが見ている、羅璃の「人ならざるもの」としての側面も。
全てが、羅璃という存在なのだ。
そして、その姿は、見る人間によって、あるいは…羅璃自身の状態によって、変化する。
頭の中が、情報過多でパンクしそうだ。
羅璃の存在の、複雑さと、掴みどころのなさ。
そして、自分の「認知」に対する不信感。
「…羅璃ちゃんが…鬼っ子って面白いと思う!」
その時、寺社杜さんが、俺のスケッチブックの中の一枚の絵を選定した。
俺が、今の羅璃とは少し雰囲気を変えて、等身低めのゲームキャラを参考に、鬼娘として描いたデザインだ。
「リアルな頭身でゲームキャラを作るのは、今のサークルの技術力では難しいから。このくらいの等身なら、皆で作れると思う!」
寺社杜さんが、選んだデザインを見せる。それは、4等身くらいの、可愛い赤鬼のキャラクターデザインだった。
羅璃の面影は残っているが、デフォルメされて、ゲームキャラらしいデザインになっている。
「そうだそうだ! 可愛い! これで行こう!」
中村山くんも賛成した。山本中会長も頷いている。
キャラクターデザインは、そのデザインに決まった。
4等身の可愛い赤鬼キャラ。
俺が、鬼という概念から、そして羅璃という存在をイメージして描いたデザイン。
「よし! じゃあ、翔平! これを元に、寺社杜さんが3Dキャラクターモデルを作るから、後ろからの設定とか、見えない角度の設定とか、描いてきてくれるか?」
山本中会長が、俺に宿題を出した。
「…はい」
俺は答えた。羅璃のデザイン。
俺の役割。俺にしかできないこと。
そして、皆がそれを期待している。
「明日持ってこいとか言わない…徹夜明けで疲れてるだろ? 今日は早めに休めよ」
山本中会長が、気遣ってくれた。
中村山くんも「マジ頑張ったな!」と言っている。寺社杜さんも、静かに頷いている。
皆の言葉に、俺はまた、心が温かくなるのを感じた。
ダルいし、混乱しているし、頭はパンクしそうだけど、心が温かい。
羅璃は、その光景を、静かに見守っている。
アパートへの帰り道。羅璃は、ゲームのキャラクターデザインが決まったこと、そしてそれが俺の描いたデザインになったことを、嬉しそうに話している。
羅璃は、羅璃だ。
人ではない。
そして、その姿は、認識する人間によって変わる。
あるいは、羅璃という存在そのものが、認識する側の「何か」に反応して、見え方を変えているのかもしれない。羅璃が言う、求める心とか、煩悩とか…そういうものに?
考えるのはダルい。
でも、この「認知の絶対性の崩壊」という、新たな現実を、俺は受け止めるしかなかった。
そして、羅璃という、見え方の変わる「人ではない」存在と、俺は共にいる。
疲れている。
でも、心の中には、皆に認められたことへの喜びと、羅璃の存在の謎に対する混乱、そして、絵を描くという、新しい、そして過去と向き合う課題への、微かな決意が混ざり合っていた。
俺の「ラリった世界」は、新たな段階へと進む。羅璃の身体の模様が全て消える時、俺に見えている羅璃の姿はどうなるのだろうか。そして、羅璃は…?
考えるのはダルい。
でも、今は、ただ、羅璃の隣で、歩いていた。
愚癡・慢・不信/疑・我見・不正知
(89/108)




