第十四話:残り物には福がある…残った煩悩に何がある
電子文化研究会の部室を出て、俺と羅璃はアパートへの帰り道を歩いていた。
部室を出る時、サークルメンバーたちの
「明日も来るのか?」
「羅璃ちゃん…すごいな…」
「一体何なんだ…」
といった困惑した声が聞こえてきた気がする。
ダルい。
本当に、いきなり大学生活まで羅璃に荒らされて、疲れた。
「ねーねー! しょーへー! ゲームだよゲーム! ゲーム作ろうよ!」
俺の横で、羅璃はまだ興奮冷めやらぬ様子だ。
サークルでの一件で、完全にゲーム作りに乗り気になっている。
「誰がゲーム作るって言ったんだよ…俺は、絵を描けるって言っただけで…」
「いーじゃん! 絵が描けるなら、ゲーム作りのメンバーに入れるじゃん! プログラムの中村山、グラフィックの寺社杜、企画の山本中! そして絵のしょーへー! 完璧な布陣だよ!」
羅璃は一人で盛り上がっている。
山本中会長がゲームを作ろうと言い出した時、確かにサークルメンバーたちの目に新しい光が宿ったのは見た。
でも、それは彼らの話だ。
俺が、突然そんなことに本気で取り組めるわけがない。
アパートに着き、部屋に入る。
慣れ親しんだはずの俺の部屋も、羅璃がいるだけで、どこか別の場所のように感じられる。
羅璃はソファに飛び乗って、さらに熱弁を振るう。
「ねーってば! ゲーム作ろうよ! 絶対面白いって!
私も手伝うよ! テストプレイとか任せて!」
「だから、ダルいんだよ。昨日今日の間に、色々なことがありすぎて、頭も心もぐちゃぐちゃなんだ。
いきなりゲーム作るとか、そんな簡単に切り替えられるか?」
俺はソファに座り込み、頭を抱えた。
大学に行っただけで講義での天宮司さんとの会話、サークルでのやりとり…濃密な日だった。
疲弊している。
そして、何か新しいこと、生産的なことに取り組む、というエネルギーが全く湧いてこない。
羅璃は、そんな俺の様子を見て、少しだけ真顔になった。
そして、ソファから降りて俺の前に立った。
「…しょーへー。それが、アンタのダメなところなんだよ」
羅璃の言葉に、俺は顔を上げた。
「惰性で過ごすこと。変化を恐れること。それが、アンタの最大の問題なんだ」
羅璃は、俺の目をじっと見つめた。その赤い瞳の奥に、どこか見透かすような光がある。
「新しいことに挑戦する、新しい自分になるって、怖いよね。
失敗するかもしれないし、また傷つくかもしれない。
でも、それから逃げてたら、何も変わらないんだよ」
羅璃の言葉が、俺の胸に突き刺さる。
ダルさ、という名の「怠惰」。
そして、過去の経験からくる「変化への恐れ」。
それが、俺の無気力の根源にある煩悩だ。
羅璃は、それを正確に見抜いている。
「…そんなこと言われてもな…」
俺は言葉に詰まった。羅璃の言うことは正しい。
でも、分かっていても、行動に移すのは難しい。
羅璃は、そんな俺の返事を待たずに、話の方向を変えた。
「まあ、でも…アンタも、かなり変わったよね」
羅璃は、自分の身体を見た。
そこには、広い面積で禍々しい文様は消えて来ている。
桜色の奇麗な肌色の部分が圧倒的に多くなり、
羅璃の身体は、ほとんど人間のものと見分けがつかないくらいになっていた。
残っているのは、ファッションタトゥ―と言われればそれまでのいくらかの文様だけだ。
「この文様も、あと少し…」
羅璃は、残った文様を指先でなぞった。
「ねー、しょーへー。
この残った文様、あと三つ、大きいのが残ってるんだけど、どこにあるか知ってる?」
羅璃の突然の質問に、俺は首を傾げた。三つ? 大きいのが?
羅璃は、ニッと笑った。
そして、自分の身体に触れながら、その場所を教えてくれた。
「額に一つ」
羅璃は、自分の額…角の付け根のあたりを指差した。
「胸に一つ」
羅璃は、自分の胸…心臓のあたりを指差した。
「そして、下腹部に一つ」
羅璃は、自分の下腹部を指差した。
額、胸、下腹部。
そこに、最後に残った、大きな文様があるらしい。
俺には、羅璃の身体に残る微かな文様が、どこに、いくつあるのか、正確には分からない。
ただ、全体的に薄くなって、少なくなっている、ということだけだ。
「…なんで、そこなんだ?」
俺は尋ねた。
体中の文様が消えたのに、なぜ最後にその三箇所だけが残っているのか。
そして、羅璃が「大きい」と言うのは、どういう意味なのか。
羅璃は、少しだけ神秘的な、しかしどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「うーん…これはねぇ…煩悩の中でも、特に根深くて、強力なやつなんだって」
羅璃は、空を見上げるような仕草をした。
「…仏教で言うところの…三毒に纏わるもの、らしいよ」
三毒。貪、瞋、痴。
羅璃が以前、煩悩の説明をしてくれた時に、一番初めに挙げた、最も根本的な煩悩の分類だ。貪欲、怒り、そして無知。
それが、羅璃の身体の、額、胸、下腹部に、最後の呪印として残っている?
「貪欲、怒り、無知…」
俺は、その言葉を反芻した。そして、サークルで持ち上がったゲーム作りの話を思い出した。
ゲームを作る。
それは、何かを「生み出す」ことだ。
創造力、努力、完成させたいという「欲求」…それは、貪欲、つまり「貪」に関わることだろうか。
そして、皆で協力して作る。
意見の対立、上手くいかないことへの「怒り」…それは、「瞋」に関わることかもしれない。
さらに、ゲーム制作に必要な知識や技術。
自分が知らないことへの「無知」…それは、「痴」に関わることかもしれない。
サークルでのゲーム作り。
それは、羅璃の身体に残った、最も根深い三つの煩悩と、真正面から向き合うことになるチャレンジなのか?
「…ゲーム作ること…それが…羅璃の残った煩悩を…消すことに繋がるのか?」
俺は、羅璃に尋ねた。
羅璃は、肩をすくめた。
「さあ? それは…やってみないとわかんないんじゃん?
でも、少なくとも、しょーへーが前に進んで、何かを生み出そうとすること…
それは、アンタの無気力っていう、一番大きな煩悩の根っこにあるものと向き合うことになると思うよ」
羅璃の言葉を聞きながら、俺は混乱していた。
サークルでゲームを作る。
それは、俺の過去の挫折…絵を描くことを辞めたことと向き合うことにもなる。
そして、それは、羅璃の身体の文様を消すことにも繋がる。
つまり、羅璃が「自由」になることにも繋がる。
でも、俺は、本当にゲームを作りたいのだろうか?
過去の挫折を乗り越えたい、変わりたい、という気持ちは、羅璃の身体が綺麗になっていくのを見て、少しずつ芽生えてきた。
でも、それは、羅璃のためなのか? 羅璃を「自由」にしたいから、俺は変わろうとしているのか? それとも、本当に、自分のために変わりたいのだろうか?
羅璃のために頑張っているのか?
それとも、自分の煩悩を解放するために、羅璃を利用しているだけなのか?
「…俺は…一体、何を…」
自分の本当の気持ちが分からなくなって、混乱し、また悩みが生まれる。
自分が変わろうとしている理由。
それが、羅璃のためなのか、自分のためなのか、どちらなのか。
あるいは、両方なのか。
この混乱もまた、羅璃が言うところの「疑」や「無知、迷い」といった煩悩なのかもしれない。
羅璃は、そんな俺の内心の葛藤を知ってか知らずか、「ま、いーじゃん! とにかくゲーム作ろうよ! 超面白そー!」と能天気に笑っている。
俺の「ラリった世界」は、サークルでのゲーム作りという、新たな、そして多分ダルいチャレンジへと、俺を誘い込もうとしていた。そして、その先に、羅璃の自由と、俺自身の変化が待っているらしい。
でも、その変化が、本当に俺が望むものなのか。そして、羅璃の自由が、羅璃の消滅に繋がるのだとしたら…
俺の悩みは尽きない。ダルい。でも、羅璃の身体に残った微かな文様が、その悩みの解決を待っているかのように、静かに存在感を放っていた。
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