第十二話:カレッジ・ラリジャック
横須賀での正月休みは、文字通り「ラリった」日々だった。
電車の事件、親父や家族との会話、そして…ハルカさんとの再会。
俺が避けてきた過去や、心に蓋をしてきた感情と、無理やり向き合わされた時間だった。
その結果、羅璃の身体から、禍々しい文様のかなりの数が消え失せた。
羅璃の身体に残っているのは、ごくわずかな、本当に微かな文様だけだ。
ファッションタトゥーだといえば済んでしまうくらいに見える。
それは、まだ俺の中に残っている、羅璃が言うところの「煩悩」なのだろう。
人間関係の苦手意識、自己肯定感の低さ、将来への不安…そういった、より複雑で、根深い煩悩かもしれない。
正月休みが終わり、羅璃と一緒に世田谷のアパートに戻ってきた。
羅璃は、身体の文様が綺麗になったことを終始自慢していて、俺の横でピョンピョン跳ねたり、自分の肌を撫でたりしている。
その姿は、以前の禍々しさが嘘のように、ただの元気すぎるギャルに見えた。
そして、大学が始まった。
ダルい。長期休み明けの大学ほどダルいものはない。
電車に揺られ、キャンパスに向かう。
いつもの俺なら、ここでため息をつき、一日を無事にやり過ごすことだけを考えていただろう。
でも、羅璃が隣にいる。
「さー! 大学だー! なんか楽しいことあるかなー!」
羅璃は、以前と変わらないテンションで騒いでいる。
大学の門をくぐる。
見慣れたキャンパスのはずなのに、羅璃が隣にいるだけで、なぜか新鮮に見える。
そして、相変わらず、羅璃の姿は注目の的だ。
ほとんど文様が消えたとはいえ、赤い瞳と頭の角は健在だし、何よりその圧倒的なオーラと、周囲を気にしない言動が、人々の視線を集める。
「ねーねー! しょーへーの教室どこ? 私も一緒に授業受けるー!」
「はぁ!? ダメだ! 授業に集中できないだろ!」
「いーじゃん別に! アンタだってどうせ寝てるかスマホいじってるだけなんだから! 私が起こしてあげる!」
羅璃は俺の腕を掴み、教室棟へ引っ張ろうとする。
ダルい。本当にダルい。
でも、羅璃を振りほどくほどの気力もないし、無理やり連れて行かれる方が、自分で考えて行動するより楽だという、いつもの俺の悪い癖もまだ残っている。
結局、羅璃は俺の受ける講義についてきた。
大教室に入ると、すでに多くの学生が席に着いていた。
教授は、羅璃の姿を見て一瞬固まっていたが、何も言わなかった。
周りの学生たちは、俺と羅璃をコソコソと見ている。
いつもの俺なら、目立たないように、後ろの方の席に座る。
でも、羅璃はズンズンと前の席の方へ進んでいく。ダルい。
窓際の方の席に羅璃と並んで座った。
講義が始まるまでの間、周りの学生たちが俺たちを気にしているのが分かる。
その時、ふと、俺の視線が、少し離れた場所に座っている人物に止まった。
天宮司さくらさん。
この大学のマドンナ的存在だ。
いつも静かで、目立つ行動はしないが、そこにいるだけで周囲の空気が少しだけ華やぐような、そんな雰囲気を持っている。
長くてきれいな黒髪を後ろで奇麗にまとめている。きっと良いところのお嬢様なのだろう…
俺とは縁のない世界の人だろうというくらいには意識してた。
彼女も同じ講義を取っていたが、近づきがたい雰囲気を纏っている。
天宮司さんも、羅璃の姿に気づいたらしい。
いつもの落ち着いた表情が崩れ、微かに目を見開き、驚いた様子で羅璃…そして羅璃の隣にいる俺を見ていた。
その視線は、羅璃の奇抜な見た目だけでなく、羅璃の身体に残る微かな文様にも向けられているように見えた。
天宮司さんの驚いた顔を見て、俺はすぐに目を逸らした。
余計な関わりは持ちたくない。彼女は、俺とは住む世界が違う人間だ。
彼女は、それから少し考えるようなしぐさを見せて授業に意識を切り換えるように前を向いた。
講義が始まった。
羅璃は、授業中に絵を描いたり、スマホをいじったり、たまに俺に小声で話しかけたりと、やりたい放題だ。
講義内容は全く頭に入ってこなかった。
まあ、普段から大して真面目になんか聞いてなかったわけだが…
ダルい講義が終わり、大勢の学生が一斉に教室から出て行く。
俺は、羅璃と一緒に人の波に流されていた。
羅璃は相変わらず楽しそうに周りを見回している。さっきの講義中も、集中している様子は全くなかった。ダルい。
出口に近づいた、その時。
「あの…潟梨君」
俺は、その声に、思わず立ち止まった。
天宮司さくらさんだ。講義中に羅璃を見ていた、あの大学のマドンナ。彼女が、俺に話しかけてくるなんて。しかも、俺の隣にいる羅璃に気づいた上で。
「え…あ、天宮司さん…」
ぎょっとして、言葉に詰まる。普段、俺のような地味な人間が、天宮司さんと直接言葉を交わすことなんてない。何を話せばいいんだ。しかも、羅璃がいる状態で。
羅璃は、俺の様子を見て不思議そうな顔をしながらも、天宮司さんを見た。
天宮司さんは、いつもの穏やかな雰囲気はそのままに、羅璃に視線を向けた。
「そちらの方は…この大学の生徒では…ないですよね?」
天宮司さんの言葉に、俺はさらに冷や汗をかいた。どう説明する? 友達でも、知り合いでも、ましてや家族でもない。煩悩が具現化した存在です、なんて言えるはずがない。
俺が再び言葉に詰まっていると、羅璃が意に介さず前に出た。
「やっほー! 私、羅璃! しょーへーの友達でーす! よろしく!」
羅璃は、天宮司さんに向かって元気よく自己紹介した。天宮司さんは、羅璃の自己紹介に、微かに目を見開いた。
「…羅璃さん…」
天宮司さんは、羅璃の名前を口にした。そして、羅璃の全身を、まるで鑑定するかのようにじっと見つめた。羅璃の赤い瞳、頭の角、そして…肌に残る文様。
そして、天宮司さんの次の一言に、俺は全身が凍り付いた。
「…あなた…人ならざるものですね」
静かな、しかし確信に満ちた声だった。羅璃は、一瞬「え?」という顔をした。
「人ならざるもの? なに言ってんの? 私、羅璃だけど? さっき自己紹介したじゃん!」
羅璃は、自分の名前を言い間違えられたとでも思ったのだろうか、少し不満そうに言った。
しかし、俺は違った。天宮司さんは、羅璃の本当の…人間ではないという本質を、見抜いたのだ。
背筋がゾッとした。この人は、一体何者なんだ?
天宮司さんは、羅璃の言葉を気にせず、静かに続けた。
「私の家系は…代々続く、宮司です。ですから…時折、人の世ならざるものと関わることも…」
宮司? 代々続く家系? その言葉に、俺は天宮司さんの持つ雰囲気に、どこか納得した。
彼女の、落ち着いているのに、どこか神秘的な雰囲気。
それは、宮司(神職)という、特殊な家系に由来するものだったのか。
…まあ、名前も天宮司だしな…
「しかし…貴女のような存在は…初めて見ました。人間の姿に近いのに…その…気配は…」
天宮司さんは、羅璃の肌に残る微かな文様に視線を向けた。
「もし…もし、貴女が…人の世に災いを成す、悪鬼死霊の類であるならば…」
天宮司さんの声のトーンが、一段階低くなった。
その穏やかな表情の奥に、強い決意の光が宿っているのが見えた。
「…天宮司の名に懸けて…即座に…殲滅することも…やぶさかではありません」
「せん…めつ…?」
天宮司さんの言葉を聞いて、羅璃の顔から、いつもの余裕が消え失せた。
羅璃の赤い瞳に、明らかに恐怖の色が浮かんだ。
羅璃が…ビビってる?
「ちょ、待ってくれ! 天宮司さん! 羅璃は、その…死霊とかじゃないんだ!」
俺は慌てて二人の間に割って入った。
羅璃が「死霊の類」? 確かに見た目は赤鬼ギャルだけど、俺の知っている羅璃は、人を傷つけるどころか、俺の無気力な人生に無理やり「活力」を与えて、俺を良い方向に変えようとしている存在だ。
煩悩の集合体かもしれないが、悪意の塊ではない。
天宮司さんは、俺の言葉にも動じる様子はない。静かに俺を見た。
「潟梨君。…彼女が、どのような存在であるかは今は分かりません。
しかし…もし、人の世に悪影響を及ぼすようなことがあれば…その時は…」
天宮司さんは、羅璃に視線を戻した。
「羅璃さん。あなたの本質…見極めさせていただきます。
もし、災い成す存在だと判断したならば…その時は、容赦しません」
そう言って、天宮司さんは、一礼すると、静かにその場を立ち去って行った。
その背中には、どこか神聖な雰囲気が漂っていた。
天宮司さんが去った後、羅璃は「ひゅー…」と息を吐いた。
「な、なにあの人コワ~! マジでビビったんですけど!」
羅璃は、さっきまでの恐怖から一転、いつもの騒がしさを取り戻した。
でも、その顔色は、少しだけ青ざめている。
「即殲滅って…マジでヤバい奴だったじゃん…
まあ、私は別に死霊とかじゃないから、大丈夫だろけど!」
羅璃は強がっているようだが、明らかに天宮司さんの言葉に動揺している。
俺は、天宮司さんの言葉を反芻していた。
「人ならざるもの」
「死霊の類なら即殲滅」
天宮司さんから見れば、羅璃は、人間ではない、危険な存在なのかもしれない。
俺は、これまでの羅璃との日々を思い出す。
ダルい電車、落とし物の財布、親父との会話、ハルカさんとの再会…
羅璃は、確かに俺の人生をかき乱した。
でも、それは、俺の無気力さ、逃げてきた過去、そして、心の鎖と向き合わせるためだった。
羅璃がいたから、俺は変わり始めている。
そんな羅璃が悪鬼の類だなんて、どうしても思えない。
でも、天宮司さんのような、特別な力を持つ人間から見れば、羅璃は危険な存在に見えるのかもしれない。
羅璃の言う「煩悩の集合体」というのも、見方を変えれば、人間の負の感情の塊であり、それが形になったものだとしたら…
(…もしかしたら、俺は、羅璃の本当の危険性から、目を逸らしているだけなのか?)
少しだけ、考えを改めなくては、と思った。羅璃は、ただ俺の煩悩を解放する手助けをしてくれる、都合の良い存在ではないのかもしれない。
彼女自身にも、人間ではない存在としての、何か別の側面があるのかもしれない。
そして、それは、天宮司さんのような人間にとっては、危険なものとして映るのかもしれない。
ダルい。
また新しい問題が増えた。
天宮司さくら。
彼女は、羅璃の存在をどう捉え、これからどう関わってくるのだろうか。
そして、羅璃は、本当に安全な存在なのだろうか。
羅璃は、俺の思考を遮るように、俺の腕を掴んだ。
「なーに、ぼーっとしてんの! ダルいとか言ってないで、さっさとサークル行こうぜ! ゲーム! ゲーム!」
羅璃の明るい声に、現実に戻される。
そうだ。今は、サークルだ。
羅璃の身体に残った最後の煩悩と向き合うことが、今の俺にできることだ。
天宮司さんの出現は、俺の「ラリった世界」に、新たな緊張感と、そして「羅璃とは何者なのか」という、より根源的な問いを投げかけてきた。
でも、今は、目の前の羅璃が、俺を次の場所へと引っ張っている。
俺は、羅璃に引きずられるまま、サークル棟へ向かった。
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