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第十話:ドロードロードロドロ

 俺は、羅璃(ラリ)と家族を残し、二階にある自分の部屋へ向かった。


 部屋に入り、扉を閉める。


 壁には、小学校から高校までのサッカーの大会記録や賞状が貼られている。


 部屋の隅には、埃を被ったスケッチブックが置かれている。



 ダルい。



 でも、目を逸らすことは、もうできそうになかった。


 部屋の空気が、重く感じる。過去の俺が、この部屋に詰まっているみたいだ。

 目を閉じて、深く息を吐く。


 すると、部屋の扉が、静かに開いた。


 そこに立っていたのは、羅璃(ラリ)と、そして智絵(ともえ)だった。

 智絵は「開かずの間」と化している俺の部屋に久々に足を踏み入れた顔をしている。


 羅璃(ラリ)が、ゆっくりと部屋に入ってきた。

 先ほどの様に壁に飾られた賞状などのサッカーの話題を茶化す様子はない。


 智絵も続いて恐る恐る入ってきた。



「…これ…全部、しょーへー…なんでしょ」



 羅璃(ラリ)が、掠れた声で尋ねた。


 そして、本棚にご丁寧に取ってあったスケッチブックを取り出しパラパラと捲る。

 かなりの数のデッサンやクロッキーが描かれている。

 棚にあるスケッチブックはかなりの数に上る…


「…ああ」


 俺は、それだけ答えるのが精一杯だった。


 羅璃(ラリ)は、壁の最後の賞状…高校のインターハイ予選のものを見つめて、立ち止まった。

 そして、ゆっくりと俺の方を振り返った。智絵も、心配そうに俺を見ている。



 沈黙が流れる。部屋の中には、過去の俺の痕跡(こんせき)だけが、静かに存在している。



 やがて、俺は、ぽつりぽつりと、話し始めた。まるで、自分自身に聞かせるかのように。




「…高校三年。インターハイ予選だった。試合中に、デカい怪我をしたんだ」

 声が震える。思い出すだけで、あの時の激痛と、全てが終わったという絶望感が蘇る。



「医者には言われたよ。リハビリすれば、普通の生活には戻れるって。

 でも…アスリートとしては、もう無理だって」


 リハビリは辛かった。

 でも、それよりも、夢を諦めるという決断の方が、ずっと辛かった。


 まだ希望はあったかもしれない。

 でも、高校での選手生命は絶望的。

 大学で、プロで…なんて、考えられなかった。


 怖かったんだ。


 また同じ怪我をしたら? また期待を裏切ったら?


「だから…意を決して、リハビリは、ただ普通に歩けるようにするだけにした。

 アスリートとして…サッカーを続けることは…諦めた」


 声が枯れる。


 諦め。俺の人生で、一番最初に、そして一番大きく、何かを諦めた瞬間だった。

 それが、俺の無気力の始まりだったのかもしれない。


 入院中。

 見舞いに来てくれた人がいた。クラスで隣の席だった、地味な女の子。

 いつも絵を描いている、大人しい子だった。


「…君の絵が好きだから…教えてほしい、って、お願いしたんだ」


 サッカー以外の、何か新しいことを始めたかった。

 何も考えずに没頭できる、何かを。彼女の絵は、見ていて心が落ち着いたから。


「私で良ければ、って…笑顔で引き受けてくれた」


 絵を描くのは、楽しかった。

 サッカーみたいに、身体を使う必要もない。

 ただ、黙々と手を動かしていればよかった。

 将来は、漫画家とか、アニメーターとか、そういう道も悪くないなって、ぼんやり考えるようになっていた。



 でも…彼女は、俺のことが好きだった。

 入院中、毎日見舞いに来てくれて、絵を教えてくれて…俺は、そんな彼女の気持ちに、全然気づいていなかった。


 気づかないふりをしていたのかもしれない。



 そして…俺は、どんどん絵が上手くなった。

 サッカーで培った集中力とか、観察力とか、そういうものが絵にも活かされたのかもしれない。描けば描くほど、面白くなった。


 でも、彼女は違った。

 俺が上手くなるにつれて、どんどん自信をなくしていった。そして…ある日、言われたんだ。


「…どうして、翔平君はそんなに上手くなるの? 私、いくら描いても全然上手くならないのに…!

  私が成長できないのは…翔平君のせいだ…!」


 彼女は、泣きながら、俺に、自分の成長できない理由をぶつけた。まるで、俺の存在が、彼女の才能を、努力を、否定しているかのように。


「…俺は…」


 俺は、何も言えなかった。自分が、誰かを傷つけてしまった。

 自分が頑張ることが、誰かを絶望させてしまうこともあるんだと、初めて知った。



 自分が怪我をして、夢を諦めた苦しみなんて、比にならないほど辛かった。


 目の前で、人の心が壊れていくのを見るのは。そして、その原因が、自分にあるなんて。



「…将来は…絵を描く仕事をしてもいいかなって、思ってたんだけど…辞めた」



 誰かを傷つけたくなかった。

 自分の存在が、誰かを苦しめるくらいなら、何もせず、誰とも深く関わらず、目立たず、静かに生きていこうと思った。



「…誰も傷つけない、何かを探して…東京に逃げたんだ」



 逃げるように大学に行って、一人暮らしを始めた。

 誰とも深く関わらないように、感情を表に出さないように。

 それが、今の俺だ。無気力で、何も求めない、ダルいだけの人間。


 俺の、過去の挫折と、そこから逃げてきた理由。


 胸の奥底に閉じ込めていた、痛くて、醜い自分の過去。

 それを全て話し終えて、俺は息切れしていた。




 部屋の中には、重たい沈黙が流れている。

 羅璃(ラリ)と智絵は、何も言わずに俺の話を聞いていた。


 羅璃(ラリ)の赤い瞳は、さっきまでとは違う、深い同情のような色を宿している。

 智絵は、泣きそうな顔で、俺を見上げていた。


 やがて、智絵が、小さな声で言った。


「…兄貴…」だが、そこに繋がる言葉は出てこない。


 羅璃(ラリ)は、その沈黙を破るように、力強く、そして決意に満ちた声で言った。


「…会いに行こ! その女の子に!」


 俺は、羅璃(ラリ)の言葉にハッとした。


「え…?」


「会いに行って確かめよう! 本当に、しょーへーのせいで、その子が不幸になったのか!

  そして、その子のせいで、しょーへーは絵を描くのを辞めちゃったのか!

  その時の煩悩…『他人を傷つけることへの恐れ』とか、『現実逃避』とか…ちゃんと、決着つけよう!」


 羅璃(ラリ)の瞳は、真っ直ぐに俺を見つめている。

 その視線に、迷いはなかった。



 会いに行く? あの時の彼女に? そんなこと…できるはずがない。


 怖い。また、あの時の痛みが蘇るかもしれない。


 また、誰かを傷つけてしまうかもしれない。



 俺の無気力な人生は、過去の挫折と、他人を傷つけることへの恐れから始まった。



 そして、羅璃(ラリ)は言う。

 その過去に、真正面から向き合え、と。


 会いにいって、決着をつけろ、と。


 この「ラリった世界」は、俺が最も避けたい場所に、俺を連れて行こうとしている。


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