第九話:リメンバー・ファミリーメンバー
夜風が肌寒くなってきた。
ダルい。
でも、寒いし、お腹も空いた。
生きる上での基本的な欲求が、俺を動かした。
「帰るか…」なんだか、とても辛いことなのに…空腹一つで行動が変わるのが、自分の心の弱さと、実際封印してきた過去何て大したことないじゃん…ということなのかという思いで何とも言えない気分になった。
羅璃は「あー、お腹空いたー! 何か美味しいものあるかなー!?」と早くも食べる気満々だ。
家に戻ると、ちょうど夕食の準備が整っていた。
キッチンからはいい匂いが漂ってくる。
リビングでは、母さんがテーブルに料理を並べていた。
羅璃の姿を見ると、母さんは
「あら、翔平、羅璃さん! おかえりなさい! さあさあ、ご飯食べましょう!」
とあっけらかんと迎えてくれた。
父さんは相変わらずリビングのソファに座っているが、新聞は置いて俺たちを見ていた。
智絵は…少しだけ口をとがらせて、テレビを見ながら不機嫌そうな顔をしている。
食卓を囲む。父さん、母さん、智絵、そして俺と羅璃。
食卓に赤鬼ギャルがいるという、非日常的な光景だ。
父さんは無言で、黙々とご飯を食べている。智絵は、俺とは目を合わせようとしない。
母さんは、羅璃に「今日の晩御飯は何?ってね、カレーライスよ!羅璃さんはカレー好き?」などと話しかけている。
羅璃は、そんな微妙な空気も気にせず、遠慮なく食べ始めた。
「うっっっっっわあ! マジ美味そー!」とデカい声ではしゃいでいる。
そして、羅璃が食卓の会話をリードし始めた。
「ねーねー、お母さん! しょーへーって小さい時どんな子供だったの? 超無気力だったとか?」
羅璃のストレートな質問に、母さんは苦笑いしながらも話し始めた。
「翔平は昔は元気の塊みたいな子供だったのよ」
「サッカーは小さい時からのめり込んでて」
「まあ、勉強わね…脳筋だったし…」
羅璃は母さんの話に興味津々で、相槌を打ちながらどんどん質問する。
父さんも、羅璃に話しかけられると、ぶっきらぼうながらも少しだけ答える。
「母さんからメールとかで聞いている」
「海上自衛隊の訓練で遠泳といって、丸一日休みなしで泳がされた」
「翔平のサッカーの試合は見てやれなかった…」
智絵は、初めは口をつぐんでいたが、羅璃に「智絵ちゃんは?」と話を振られると、渋々といった様子で話し始めた。
「少し年が離れていたので、よく面倒見て貰った」
「サッカーの試合のお兄ちゃんはカッコよかった」
羅璃は、まるで家族セラピストのように、巧みに会話を誘導していく。
そして、話は自然と俺のことに戻ってきた。
「ねー、お父さん、お母さん。しょーへーのこと、なんか心配じゃないの?」
羅璃が、核心を突くような質問をした。
母さんは少し目を伏せ、父さんは無言で箸を止めた。
「…心配よ、そりゃあ。あんなに元気で、サッカーばっかりやってた子が、急に…ねぇ」
母さんが、寂しそうに言った。
父さんも、何も言わないが、その表情から心配しているのが伝わってくる。
「智絵ちゃんは? 兄貴のこと、どう思ってるわけ?」
羅璃が智絵に尋ねた。
智絵は、また口をとがらせた後、ぽつりと呟いた。
「別に…どうも思ってないし」
「うっそだあ! さっき、兄貴のこと嫌いって言ってたじゃん!
…高校の時は輝いてたのにって!」
羅璃は容赦なく追い詰める。
智絵は、顔を赤くして、羅璃を睨んだ。
「…うるさいな! 今の兄貴は…見ててムカつくんだよ!」
智絵はそう叫ぶように言うと、再び口をつぐんだ。
羅璃は、そんな智絵の様子を見て、何かを察したようだった。
「そっか。智絵ちゃんはね、しょーへーのこと、本当は心配なんだよ。
昔みたいに元気がない、今のしょーへーを見てて辛いから、ムカつくって言っちゃうんだよね」
羅璃の言葉に、智絵はビクッと肩を震わせた。
図星だったのだろう。羅璃は、智絵のそんな気持ちを、ストレートに代弁した。
食卓に、少し重い空気が流れた。父も母も、黙って俺と智絵を見ている。
智絵は俯いている。
その時、智絵が、おそるおそる顔を上げた。
そして、俺の目を見て、小さな声で尋ねた。
「…兄貴…大丈夫…?」
その言葉に、俺は胸が詰まった。
智絵の冷たい態度は、心配の裏返しだったのか。
俺の無気力さを見て、大丈夫かと心配してくれているのか。
俺は、智絵の目を見つめ返した。
さっき、公園のベンチで、過去の痛みと向き合ったこと。
そして、羅璃に言われた言葉。過去から逃げてはいけない。
「…サッカーの件は…まだ、吹っ切れたわけじゃない」
俺は正直に言った。トラウマは、簡単に消えるものではない。
「でも…自分の人生、自分の決断に、ちゃんと…責任を持とう、と思う」
逃げるのは、もうやめよう。
過去も、今も、そして未来も、自分のものとして受け止めよう。
そう、心の中で決意した。
俺の言葉を聞いた智絵は、少しビックリした顔をした。
そして、ふっと、口元に微かな笑みを浮かべた。
それは、さっきまでのとがらせた口元とは違う、安堵のような、納得したような笑みだった。
「…そっか」
智絵はそれだけ言うと、再びご飯を食べ始めた。
でも、その表情は、さっきよりずっと穏やかになっていた。
俺が智絵と、そして自分自身と向き合った、その瞬間だった。
羅璃が、またしても「きゃあああああ!!!」と奇声を上げた。
「えっ、また!?」
羅璃は、自分の身体を見て、大喜びしている。
俺も羅璃を見た。
羅璃の赤い肌に刻まれた禍々しい文様が…足先の方が、大きく消えている。
文様の数が減り、赤黒い肌色はさらに薄くなる。
「ヤッター! ヤッター! また消えた! すごい!ラリってボンノー!
しょーへー! 何? 今度はなんの煩悩解放したわけ!?あ、不正知・心不定・懈怠社会関与や世界とのつながりの拒否の煩悩だね!」
羅璃は興奮気味に俺に話しかける。
しかし、その羅璃の身体の変化に、父も母も、そして智絵も…誰も気づいていない?
彼らは、ただ羅璃が一人で騒いでいる、としか見ていないようだ。
(…どういうことなのか…?)
羅璃の身体の変化は、俺と羅璃にしか見えない現象なのか。
羅璃は俺の煩悩の具現化で、俺の内面の変化が彼女の姿に影響を与えている。
だから、俺だけが、その変化を認識できるのかもしれない。
この「ラリった世界」は、俺と羅璃の間だけで共有されているものなのか。
羅璃が騒いでいる横で、智絵が俺に話しかけてきた。
「ねえ、お兄ちゃん」
智絵の顔は、もうさっきの冷たさはなく、ただの妹の顔だった。
「…じゃあさ、絵も…再開するの?」
智絵の言葉に、俺は固まった。
絵。
サッカーと同じように、挫折して、逃げて、心を閉ざしたもう一つの過去。
俺は、言葉に詰まった。
サッカーの挫折は、吹っ切れなくても、自分の決断に責任を持つ、と心に決めた。
でも、絵は…? 過去の別のトラウマが、まだ心に引っかかっている。
「それは…」
俺は、ごまかすように視線を逸らした。そして、立ち上がった。
「ちょっと、部屋にいる」
俺は、羅璃と家族を残し、二階にある自分の部屋へ向かった。
そこには、サッカーの賞状とともに、もう何年も開けていないスケッチブックが保管されている。
絵を描くこと。過去に向き合うことの、もう一つの試練。
羅璃の文様を全て消し去るために、そして、俺自身が変わるために、俺は、その試練にも向き合わなければならないのだろうか。
部屋に入り、扉を閉めた。
壁に貼られたサッカーの賞状が、俺の過去の栄光と挫折を雄弁に物語っているようだった。
そして、部屋の隅には、埃を被ったスケッチブックが置かれている。
ダルい。
でも、羅璃の身体が綺麗になっていくのを見ていると、もう後戻りはできない気がしていた。
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