008 - 死ねないハードモード
「メニーナさん……と言ったわね。本当にいいの? 大したお礼はできませんよ」
お婆さんは、申し訳なさそうに言った。
私は「構いません」と答えた。
自分がそうしたいと思ったから、そうするのです。
「ここ通るとき、お婆さんがいつも山の方を見ていたから。その、何かが不安なんじゃないかと思って……ふ、不安は……早くなんとかしたほうがいいです。精神の衛生のために!」
「それだけでこんな年寄りに話しかけたの? ふふ、変な子ね」
お婆さんは、呆れたようにくすりと笑う。
それだけなんて言ってはいけないと私は思った。
不安は敵だ。ほんの少しの不安感が人生を掻き乱す。
病名も診断書もない中途半端な鬱傾向で、せっかく受かった美大を休学することになった私が言うのだから、きっと間違いはない──なんて、こっちの人に言っても伝わらないだろうけど。
このゲームにのめり込んで5日と少し。
世間に疎い私には、ゲームの正しい遊び方なんて分からなかった。
だから体感時間が現実よりも少し伸びるというゲームの仕様を利用して、絵画や読書、観光なんかにばかり夢中になる。
画材を買った帰り、いつも通りかかる路地裏のその花屋が──そのとき、妙に目についたのだ。
見るたびに品揃えが最悪で、ろくに品物を仕入れてもいないで、客もいないで。
お婆さんは、ぼうっと山の方を見ている。
聞けば、息子さんが亡くなったばかりだと言う。
この世界で夜が明けなくなったその日、魔物に襲われて帰らぬ人となったそうだ。
おかげで花の仕入れも満足にできず、毎月息子に頼んでいた山へのお供えも果たせない。
森に潜む最初のボスが討伐されて、この街の夜が明けるようになっても……死んだ人は戻ってこない。
その息子さんが、私たちのようなプレイヤーではなくゲームの世界の住人──つまりNPCだからだ。
「もう、やめなさい。いいのよ、こんな年寄りの頼み事なんて聞かないで。そうやって何度も……何度もボロボロになって戻ってくるつもりなの?」
お婆さんは泣きそうな声色で言う。
死に戻って、新たにお供えのお花を貰いにいくたびに。
顔はしわくちゃで、泣きそうなのか笑ってるのかもよく分からない。
それでも声だけで分かるものだ。この人が、どれだけ私を心配してくれているのか。
「だ、大丈夫ですよ。その……プレイヤーは、死なないんですよ」
「ええ、知ってるわ。でも殺されているんでしょう、もう2度も。息子が味わったであろう死の苦痛を、もう2度も……!」
私は停止した。
すがりつく、枯れた細腕を振り払うことなどできやしない。
彼女は本当にNPCなのだろうか。ただのプログラムなのだろうか。
私にはそうは思えなかった。
目の前のそれは、あまりにも人間だった。
「メニーナ、魔物払いのお香を持っていきなさい。息子が材料を採ってこられないせいで、これだけしか作れないけど……私にできることは、これくらいしか……」
「ううん、ありがとうお婆さん。ありがたく使わせて貰います」
棒切れのような腕が、温かい。
私は……ウーリさんに嘘をついた。
花をダメにするたびに、お婆さんが悲しそうにすると。
嘘だ、そんなことはない。お婆さんは一度も花の話なんてしなかった。
お婆さんは、私のことだけをずっと心配している。
私はもう2度と、死ぬわけにはいかない。
*****
「とりあえず、状況をおさらいしておこうかな」
先頭を歩くウーリが言う。
場所は依然として深い森の中。マップを知り尽くしたウーリの案内に、俺とメニーナが続く。
「メニーナが受けたクエストは花の運搬、報酬はなし。届け先はトンネルのどこかにある祠だけど、具体的な場所は分かってないんだよね?」
「そ、そうです」
「花はインベントリにしまえず、持っているだけでモンスターのヘイトを集めてしまう。この時点で難易度はベリーハードだけど、さらに私たちはこの森のボスを突破する必要がある。祠探しはそのあとだ。そして私たちは、これを死に戻りなしでクリアしないといけない」
ウーリと視線がかち合い、共に頷いた。
メニーナが死に戻れば、花はダメになる。
花がダメになれば、依頼主であるNPCのお婆さんが悲しむ。
俺たちの目標は「お婆さんを悲しませず、不安にさせないこと」だ。
「ほ、本当にごめんなさい……こんなの無茶だって、自分でも分かってます。なのに付き合わせちゃって……」
「いいよ、やりたくてやってる。最高の縛りプレイだろ、ねえトビくん」
俯くメニーナと、対してすっと細まった瞳でこちらを見るウーリ。
「なんで俺を見るんだよ」
「ううん。ただ、トビくんの自分探し、調子はどうかと思って」
「…………」
本当に──こいつは。
顔をしかめた俺に、ウーリはそっと近づいて耳元で囁く。
「メニーナのゲームへの向き合い方ってさぁ、トビくんと似てる気がする。どう?」
「俺は勝敗も戦績もちゃんと気にする」
「それは競技の話でしょ。もっと根っこの話だよ」
…………。
さて、どうだろうか。
「まぁ、いいんじゃねえ? キツい縛りは俺も好き」
「そうじゃなくてさ〜……もう、照れちゃって」
ダルい絡み方しやがって……
チョップのひとつでもかましてやろうと思ったが、ギリギリのタイミングでウーリは引く。
蛇の瞳がぎょろりと前方を向いた。
「あ、来たよ。ほらトビくん、お仕事お仕事〜」
「ああもう、分かってるよ!」
そして草むらから、オオカミたちが飛び出す。
メニーナが持つ花の詳細はわからなかった。
自分のインベントリに収納しなければ、俺たちプレイヤーはアイテムの名前や効果を確認できないからだ。
だが、その花がモンスターを引き寄せるというメニーナの証言に関しては、すでに実証済みだった。
森を歩くこと数十分──すでに何度も、モンスターの群れに接触している。今回も同じだ。
「ブラックハウンズが10、マッドペッカーが2、ウッズバブーンが3」
「マジで数多いな! メニーナさん、またバフお願い!」
「わ、わかりました!」
とはいえ、こちらも慣れてきた頃合いである。
メニーナのビルドはお世辞にも戦闘に向いているとは言えない。
取得しているスキルのほとんどは〈絵師〉や〈言語学習〉など生産や調査に使うものばかりで、まともに戦える武器といえば〈水属性魔法〉くらいだ。
だが、それもなかなかバカにできない。
「え、エンチャント・アクア!」
「そう、それだ! メニーナさん! 天才!」
「えらいぞメニーナ〜!」
「ど、どうも……!」
初心者は褒めて伸ばす。
甘やかして界隈に引き摺り込む。これに限る。
……というのは冗談だが、たとえば初期に使える2種類の魔法のうちのひとつだと言う水属性魔法、エンチャント・アクア。
わずかな自動回復効果と炎への耐性、そして攻撃力の上乗せをしてくれる魔法だ。俺とウーリの身体を水色のエフェクトが包み込む。
今の段階では雀の涙ほどの効果だと本人は言うが、役に立つに決まっている。
「じゃあ、私は飛んでるやつね」
「もしかして俺はまた地上全部ですか?」
「わ、私も頑張りますから……!」
「ありがとう! メニーナさん無理せずに!」
ギリギリと弦を引き絞る音。
相変わらず弓とは思えない重厚な金属音と共に、次の瞬間には放たれている矢──本当にエイム合わせが素早い。
同時に、俺も駆け出した。
ウーリの放った矢の方向など見ない。見なくてもどうせ当たっている。
俺の相手は10体のブラックハウンズに、3体のウッズバブーン──後者は体表に苔をまとったヒヒ型のモンスター。森に色が溶け込むせいで視認しにくく、投石などの攻撃をしてくるらしい……が、ウーリが索敵に成功している時点で危険度は下がる。
よって優先するのはブラックハウンズだ。
駆け出すと共に、撃ち出すツル。
接敵したオオカミの鼻先を爪先で蹴り飛ばしながら、最も後方にいるやつの後ろ足をプレデター・グリーンが巻き取る。
捕まえたオオカミを間合いへと引き摺り込むと同時に、他の個体の足並みやバランスを崩しにかかる。
「相手が人外ってのはあんまり経験ないが……どんな多人数が相手でも、同時に来るのは前後左右4方向までだ」
さらに後ろに敵がいなければ、たった3方向。
まずは蹴り飛ばしたオオカミの身体で前方を塞ぎ、残るは左右。
次に右側から迫るオオカミの頬に、ツルに引き摺られて飛び込んでくる別個体が激突する。
これで残るは左側のみ──存分に集中できる。
「よし、お前は盾にしよう」
俺は自分の片腕を、オオカミの口の中にぶち込んだ。
当然、喰い千切ろうと抵抗するオオカミの牙を──あらかじめ腕に纏わせたツルが巻き取る。
イメージは外付けの筋繊維アーマー。
食い込む牙を、ぎゅっと収縮した植物の繊維が拘束する。
多少のダメージを許容できるのは、メニーナがかけてくれた自動回復バフがあってこそだ。
「ギ、ギギギ──ッ!?」
ツルに噛みついたオオカミ。
それをプレデター・グリーンが逆に侵蝕していく。
まず頭を拘束し、さらに全身にツルが這う。
手足も封じる。1匹まるごと、左腕に噛みついたままダルマになった肉の塊──肉の盾。
「さぁ、あと9体……9体!? 多いな!」
俺の負担がデカすぎるだろ。
バカ正直に真正面から突っ込んでくる2体のオオカミ──その攻撃の先に差し出すのは、左の肉盾だ。
やつらは元同胞だろうがお構いなしに噛みつくが、毛皮と植物繊維の二重の装甲は相当硬い。そして生まれた一瞬の隙に──
「よし、相棒──喰っていいぞ」
「ギャンッ!?」
──肉盾の体内から発芽するのは、無数の茨である。
プレデター・グリーンのツルが、同胞に噛みついたオオカミ2体の鼻や目玉……とにかく柔らかい部分に殺到して、体内へと侵入する。
「スタミナがごっそり削れて、そして今、回復してる……この感覚。段々と覚えてきた」
基本的な計算として、ツルを多く外に出すほど、そして増殖させようとするほど燃費は悪くなる。ただし、モンスターを喰らわせることで回復もする。
どうやら、俺とプレデター・グリーンのスタミナゲージは完全に共用扱いとなっているらしい。それならば──
自分のスタミナの増減、栄養状態の把握を感覚で出来るようになること。これが真っ先の課題である。
「この数を全部殴り殺してたら、先に俺のスタミナが尽きる……回復しながら、つまりこいつらを適宜栄養に変えながら戦う」
スタミナレースだ。
左を片付けている間に、前方と右側から迫っている牙。
俺は踏み込むと同時に、左腕の肉盾を高く掲げ切り離した。
「せーのッ!」
投げ飛ばす肉の盾──ブラックハウンズ3体が絡み合った超重量の肉塊が、オオカミの群れを巻き込んで吹き飛ばす。
巻き込まれなかった数匹が、次のターゲットだ。
左腕を振り抜いたままの勢いで回し蹴りをかまし、まず1体。
反対方向から噛みついてくる別個体を視認して──こちらは上空へと跳んで躱す。
高い木々の枝に巻き付けたツルはワイヤーフック代わり。
巻き取るように跳ねて、同時に──適当な1体の首元に投げたツルをぎゅんと収縮。俺の跳躍に合わせて1体を首吊りにする。こいつはこのまま吸い尽くしてエネルギーに。
そして、上昇途中のワイヤーを切り離すことで再び落下。
重力に身を任せたかかと落としを決めて、また1体を処理だ。
「離脱!」
攻撃後は、体勢が崩れる前にまたフックショット移動。今度は前方へ跳ぶように離脱する。
迫りくるオオカミの群れを抜けて──すれ違うようにして、背後へ回る。先頭の前足に引っ掛けたツルが、彼らの体勢を崩す。
「す、すごい動き……」
「トビくん、ノッてるな〜……こういうときのトビくんは1対3でも1対4でも余裕で捲るね。博打みたいな動きばっかりするから、ハマんないときはあっさり死ぬけど」
「だ、大丈夫なんですかそれ……!?」
余計なこと言うんじゃないよ。
「でもトビくん、ちょっとのんびりしすぎ。木の上のやつら片付けちゃったよ」
「えっ」
視線だけで見上げれば、樹上で距離を保っていた猿ども……ウッズバブーンの姿がない。
マッドペッカー2羽に加え、いつの間にか3体とも射抜いてしまったのか。それに──
「ウォーターボール!」
「えっ、メニーナさん!?」
「うははは! マジか!」
──体勢を崩しかけたブラックハウンズの足元に、メニーナが追い打ちで撃ち込む魔法攻撃。
ウォーターボール。こちらも初期魔法。
大した威力は期待できない水の球だが、ツルに崩された体幹にトドメを刺すには最適のタイミング、最適の位置だ。
先頭のオオカミが転倒し、巻き込まれるようにさらに数体が体勢を崩す。
「い、今のマグレか? それとも故意に先頭の足元狙ったのか──」
視線でメニーナを確認すれば、相変わらず自信なさげに丸まった背中がある。
いや、とにかく。
「メニーナさん、今の最高! ありがとう!」
「は、はい! よかったです!」
──トドメを刺しに行く。
体勢を崩し、さらに背後まで取ってしまえば、もはや万が一もない。
1体の首根っこを押さえつけてプレデター・グリーンの餌食としながら、振り抜いた脚技が別個体の下顎を粉砕する。
起き上がった残党が噛み付いて来る頃には、プレデター・グリーンが苗床の中で増殖を終えている。
押さえつけたオオカミの身体から「ぶちゅり」と発芽する茨の壁──それが俺とオオカミを遮り、そのまま口内へと侵入したツルが、喉奥からうなじを貫いた。
そして最後の1体は──
「えいっ」
「あ! 俺の!」
「遅いんだもん」
──放たれた矢に貫かれて吹き飛んだ。