049 - ようこそ、夜の世界へ
メンデルの体温は温かい。
ぎゅうとしがみつく柔らかな身体。衣服など纏っているはずもなく、その体温と甘い芳香がダイレクトに伝わってくる。
獣の伏した白砂の精神世界にて、俺たちは抱き合った。
『とび』
「うん、何だ?」
身体は大きいくせに、その辿々しい発声はまるで幼い子供のようだ。か細く、少し掠れた高い声で、メンデルは俺にねだる。
『おなかすいた』
「ああ……そうだった。お前が好きな魔力を今手に入れてくるよ。ちょっと待っててな」
『うん』
俺はメンデルに抱きつかれたまま、ムーンビーストに声を向ける。
「そういうわけだから、そこのお化けガエル。俺に夜の資質を寄越せ」
ムーンビーストは潰れたままの姿で喉を鳴らし、ひしゃげたような声で応える。
『捧げ物をしろ』
「さ、捧げ物……?」
おいおい、聞いてないぞ。
俺にそんな準備は……いや、待てよ。
Item:満たされた調霊針
Rarity:ボスドロップ
月詠み巫女の仕立てた悪性の調霊針。
地脈・精霊の力を十分に吸い上げ、あとは奉ずるのみである。
アイテムとしてはすでに完成されており、これを用いて何かを作り上げることはできない。
……もしかして、これか?
狂化ノームから回収した調霊針だ。俺はインベントリから針を取り出すと、それをムーンビーストの顔面へと投げ渡した。
無数の触手が、針を絡め取って体内へと取り込む。
そして──
『よろしい。汝に夜の祝福があらんことを』
──ムーンビーストがどろりと融け出したと同時、自分の中に何かが沸き起こる感覚があった。
『新着:重要なシステムメッセージです』
『精神汚染〈月の狂気〉を発症しました』
『効果①:夜の上位者から受ける精神干渉・状態異常の蓄積値を大きく高める』
『効果②:夜間に受ける精神干渉・状態異常の蓄積値を大きく高める』
『効果③:NPCの基礎信用値が大きく低下する』
『以上は常在効果であり、あらゆる方法で回復することができません』
『種族〈夜の眷属〉を自動取得しました』
『スキル〈夜属性魔法〉を自動取得しました』
満たされた調霊針……これは、こうして夜の魔力を手に入れるための特殊なアイテムだったわけか。
おそらく本来の入手ルートは、PKなどによって犯罪功績──いわゆる "カルマ値" と呼ばれるような数値を上げていき、月詠み巫女からの犯罪クエストを受注・巫女への貢献度を上げること。
つまり原則としては犯罪プレイヤーでなければ夜の魔法を入手できないのだと思われる。俺の辿ったルートはややイレギュラー的だ。
そして予想通り、月の狂気もデメリットとペナルティだけの効果。
簡単に言ってしまえば「状態異常を発症しやすくなる」という感じだろうか。特に「夜の上位者」と称される何者かからの干渉に抗うのが困難になる──こちらが「眷属」なのだから、それが当然かもしれないが。
スロットスキルを調整、〈箱庭支配〉を〈夜属性魔法〉へと入れ替え。
途端、砂原に咲くすべての花が、嬉しそうにざわめいた。
『とび』
『おいしい』
ぎゅう、と柔らかな抱擁が強まる。
甘噛みするように、その唇が首筋に吸い付く。
そうか、よかった。
ここまで来た甲斐があった。
そして──精神世界は崩れゆく。
*****
視界が晴れる。
そこはボスエリアの神殿で、向こうではちょうど、ムーンビーストが第三形態まで突入したところ。時間はほとんど経過していない。
そして──
「フルル」
「はあい」
──俺の背後で「キンッ!」とフルルが何かを弾いた。
炎の熱と灰の匂い。振り返れば、アッシュレイルの振りかざした燃ゆる剣閃を、フルルがナイフで受け流したところだ。
「ちッ……このガキ、どこまでも……!」
「殺気がバレバレです。感知スキルのないトビくんでさえ気付いてましたよ? ねえトビくん」
どうだろう。俺は気配で分かったわけではないが──
あたり各所でPvPの発生しているこの様子を見るに、手引きしたのはPEEK A BOOだろうか。デイブレでは大人しくしているのかと思いきや、ついに我慢できなくなったらしい。
ちなみにPEEK A BOOとハイファットエンジンの喧嘩はいつものことだ。仲が悪いとかでもなく、何ならレッドバルーンとラグドールは "飲み" の写真が毎週SNSに上がってくるほど仲が良い。
ラグドールはレッドバルーンにやたら懐いているし、レッドバルーンの方も「背中から襲われた程度じゃこいつらには負けねえ」と思っているのでPEEK A BOOを受け入れている。他所から見れば理解しがたいが、まぁ多分……俺とフルルの関係が一番近い。
だからこれは、仲が良いこその「じゃれあい」に俺たちが巻き込まれたというだけのこと──とはいえ文句を言う権利はあるので、あとでボコボコにしてやろう。あの人狼どもめ。
閑話休題。
まぁいずれにしても……まずはアッシュレイルの処理からだ。
「ありがとうな、フルル。あとは俺がやるよ」
「そうですか? ボクに任せてくれても……」
「そいつ一応プロだよ。しっかり強いし、それに……新しいスキルも試したい」
そういうことなら、と飛び退くフルル。
アッシュレイルとこうしてしっかり向かい合うのはいつぶりか……なんだかんだ、俺の方ものらりくらり相手にしないようにしていたところもある。
「気に食わねえ……どこまでも余裕ぶりやがって。運良くイレギュラー引けただけのヤツが、それをさも自分の力のように……!」
「それは事実だな。でも俺は、データだろうがなんだろうがこいつのことを溺愛してるんだ。だからこのダンジョン攻略にも参加した」
「あァ? お前、一体何の話を──」
この世界のイレギュラーをただのデータとして見ているヤツには、きっと分からないだろう。俺も最初は分からなかった。メニーナから教わった大切なことだ。
その結果、新たに手に入れた力をお前で試させてもらう。俺は詠唱する。
「メンデル、一緒においしく食べよう。エンチャント・ノクス」
途端、俺の中から黒い魔力が溢れ出た。
俺の全身を這い、ごうと昂ぶるおぞましい色の魔力。メンデルが大きくざわめき、顔の皮膚をぶちぶちと突き破って無数の花を咲かせる。
「……ッ!」
それを見て、アッシュは目を見開く。
何かしている、このまま好きにさせてはいけない──おそらくそんな思考で飛び出すと、炎を宿した魔剣を振り抜く。
俺はそれを──片腕を前に出して受け止めた。
「なッ……馬鹿な、最大出力だぞ!?」
「そうか。だったら俺は強力な手札を手に入れたらしいな」
実際には片腕だけじゃない、夜接がれの黒装束に縫い付けたヘイロウを上手く当てて剣撃を防いだわけだが──いずれにしてもダメージはゼロ。
火力だけはトップクラスに見えたアッシュの攻撃をこうも簡単に止められたなら、かなり効果の高そうな魔法だ。
エンチャント。
あらゆる属性魔法には「エンチャント系」と呼ばれるバフ魔法が存在する。
中でも俺が扱う夜属性エンチャントの効果は──受けている精神汚染・状態異常の数に応じた全能力の上昇。そしてこれは他者にかけられない代わりに、自分およびテイムモンスターの両方に強化が適用される。夜の魔法とは魔物の魔法なのだ。
「それじゃあ、今度は攻撃力を試そう」
「──ッ!?」
ぎりぎりと押し込んでくるアッシュの魔剣を腕だけで容易に弾き、月人の処刑の刃を展開。
上方向へと振り抜いた斬撃をアッシュは咄嗟に躱すが、さらにもう片足で放つ二撃目は魔剣で受ける他にない。キンッ──と甲高い衝突音と、その重さに目を見開くアッシュ。
「ッぐ、う……なんだ、この威力!?」
現在、俺が受けている精神汚染・状態異常は、元々受けている月の狂気と飴玉による毒状態、ケラヴラから受けた麻痺。この3つだけ。
それでも、衝突した月人の処刑とアッシュの魔剣──ぎりぎりと押し勝っているのはこちら側だ。そして──
「重いか? ちゃんと計ってくれよ。まだギアが上がるんだから」
「な、なんだと……!?」
──俺はメンデルにお願いをする。
「メンデル、俺の小指を支配してくれ」
途端──俺の意志に反してぐにゃぐにゃと動き回る右手の小指。
これで支配の状態異常を受けることができた。カウントは合計4つ。エンチャント・ノクスの効果はさらに増強され──
「ぐ、おおおッ……!?」
「これでもう鍔迫り合いは出来ないな」
──ガンッ! とアッシュの魔剣が弾かれ、ついに競り勝つ。
そして息を整える隙も与えない。バレエでも踊るように、つま先立ちでステップを踏みながら繰り出す斬撃、斬撃、斬撃! アッシュはそれをかろうじて魔剣で受ける他にないが、そのたびにふらふらと体幹を崩される。
「く、クソが……ッ!」
アッシュの息は荒い。
はあ、はあ──と余裕のない吐息を吐き、その目には驚愕の他に、敗北を予期した恐怖が浮かんでいる。
……怖いのだろうか。負けるのが?
プロの世界なんて、負けて当たり前の世界。同じレベル帯のプレイヤーと常に戦い続けるのだから当然だ。勝率が6割でも維持できれば上出来、7割勝てればレジェンドクラス。
お前は、そういう場所にいたんじゃないのか。
「なぁアッシュ、俺は競技に人格なんて関係ないと思ってんだよ」
「あァ……!? 」
「どんなクズでも外道でも、チームに貢献できて、ポイントを取れるやつが選ばれる。それでいいと思ってる。ああ、いや……最低限のモラルや広告力は必要だけどさ」
「なんの、話だ……ッ!」
お前の話だよ。
「だけどさ……メンタルは別の話だろ。そんな目をしてゲームをするなよ。負けるの怖がってるヤツが、そのせいで目の前の勝負にも集中できないようなヤツが──強くなれるわけねえだろうが!」
「……ッ!?」
──弾く。
魔剣を強く弾き、再びその体幹をぐらりと崩す。
ああ、なんでだ。昔のお前は、もう少し楽しそうにゲームをしていたのに。
だから俺は、お前が残れば良いと思ったのに。
今のお前に、その資格はない。
「メンデル、俺の左腕を千切れ。ついでに喰っていいぞ」
──メンデルは応えた。
俺の体内で無数のツルが蠢き、膨れ上がり──俺の左腕が千切れ跳ぶ。
「なッ……なに、やってんだ……!?」
動揺を露わにするアッシュ。
千切れた左腕は即座にメンデルが捕食し、からからに干乾びて消えていく。無数のツルがのたうつ肉の断面からは青い粒子がしゅわしゅわと溢れ出ている。これは多量の出血を意味するエフェクトだ。
肉体の欠損、そして出血。
どちらも状態異常として扱われる。
カウントは6つ。
「お、俺は……火属性を選んだんだッ! お前の植物を焼くために……!」
「そうか、無駄だったな」
「この魔剣は、植物が再生できないように、焼き斬るための……ッ!」
「ああ」
乱された体幹を根性だけで立て直し、まともに腰も入っていない姿勢でアッシュは魔剣を振りかぶる。
俺もそれに合わせるように──右足を振り抜いた。
「このッ……チート野郎がああああッ!?」
そして、ぶつかり合う。
月人の処刑の優れた斬れ味、メンデルによる脚力補強、夜の魔力による筋力強化、そして状態異常を6つカウントしたエンチャント──それらが合わさった斬撃は、アッシュの身体を魔剣ごと切断した。
「────」
声にもならない悲鳴。
アッシュは口の形だけで絶叫した。
すっぱりと綺麗に切断された魔剣と、その向こう側──アッシュの両足まで、俺は断ち切る。
「ああ、虚しいな……」
俺はこうなりたいわけじゃなかった。
ごろごろと転げるその身体。
大腿の付け根から断ち切られた両足。
アッシュは当然動くこともできず、ただ上体だけを反らせるように、必死に顔を上げようとする。
地面に這いつくばって、睨むように見上げる。
俺はそれを──
もうどうでも良くなって、向こうで暴れ回るムーンビーストの方へと歩いた。
「ま、待てや……トビィ……ッ!」
「……なんだ?」
振り返りはしなかった。
ただ背後で、絞り出すようなアッシュの声を聞く。
「こ、殺せよッ! なんでキルしない……!?」
「…………」
「お前はいつもそうやって……そうやって、どうでも良いって顔だ! 大人ぶりやがって、誰のことも相手にしちゃいねえ……お前のそういうところが、俺はずっと、気に食わねえンだよォ!」
──それは、どこか。
どこか自分の悪いところを言い当てられたようで、俺はつい振り返った。
なんだ、洞察力あるじゃないか。
けれどムカついたので、俺も言い返す。
「殺すかよバーカ! 俺はPvPしに来てんじゃねえんだよ!」
「なッ……」
「お前はPvPがしたいんだろうけど……知らねえよ! 俺はPvEを楽しむためにここに来たんだ! いつもいつも相手が自分のしたいことに付き合ってくれると思うなよ、このコミュ障が!」
絶句するアッシュ。
それを「へっ」と笑って見下し、俺はそれきりアッシュの相手をするのをやめた。
ああ、ムカついた。
ムカついたが、言い負かしたらちょっとはすっきりした。それに……さっき一瞬感じた虚しさも、どこかへと消えた。
「……向き合うって、大事なんだろうな」
のらりくらりと、大人ぶって躱しているだけではいけない。そればかりはアッシュに言われた通りだ。
それはきっと、俺がなんとなく逃避していたこと。
さて、と俺は足を止める。
ムーンビーストへと向かう前に──もうひとり。
「お前もPvPがしたいのか? シザー」
「…………」
立ちはだかった少女シザーに、俺はそう尋ねる。
少女は一度、その手に握る腰の刀にぐっと力を込め──けれど、やがて手を離した。
「なんだ、いいのか」
「……ええ」
シザーは小さく頷く。
「トビくんと殺し合いがしたいがためだけに、私はここにやってきた──それは事実です。けれど……あんな気持ちを聞かされては、今から斬りかかることなんて出来るわけもありません」
「いやあ……別にお前には言ってないだろ」
「それでもです。トビくんのあんなにも正直な言葉、私は長らく聞いていません」
それを無下には出来ません、とシザーは綴じた。
そして──
「このたびは、大変失礼致しました」
──そう言って、深々と頭を下げる。
*****
現状、シザー・リーがドラゴンフライというチームへと向ける感情は「無関心」へと傾きつつある。
好きでも嫌いでもない、無関心。
イグニスが病に倒れる前、そして先輩たちがいた頃はあんなにも輝いていたチームとの日々は、今となっては色褪せていく一方だ。
それでも未だシザーがドラゴンフライに残り続けているのは、辞めようとすればどうせ兄から「自分のチームに来い」としつこく迫られるだろうとか、希望の進学先がeスポーツ実績を使った推薦入学を受け付けておらず、移籍手続き諸々は受験を済ませてからにしたかったとか、まぁ色々な「ごたつき」を嫌っての事情もあったのだが……
けれどそれ以上に、心残りがある。
日ノ宮ウリ、そしてトビ。
ふたりの敬愛する先輩が、自分とまともに戦うことなく競技シーンの舞台から降りてしまったこと。練習試合や模擬戦とは違う、本気の斬り合いができなかったこと。
特にトビは、ゲーム自体をやめてしまった。
卓越した技術とセンスを持つくせ、拘りや執着というものがない彼は……どこか危うい。目を離した途端、どこかへふっと消えてしまうのではないかという恐怖さえある。
シザーがドラゴンフライに居続ける最大の理由はそれだ。
トビとの接点を失わないため。
かつて敬愛する先輩たちがいた場所──その "接点" を維持し続けるために、彼女はドラゴンフライという残り灰に縋り続けている。いっそ押しかけて既成事実でも作ってしまえば済む話かもしれないのに、なんとも中途半端だ──と常々自分で思う。
そんなシザーだから、今回の話はようやくトビと刃を交えられるかもしれない貴重な機会、だったのだが……
「このたびは、大変失礼致しました」
……それでも、シザーは諦めることにした。
頭を下げて謝ることにした。
嫌われたくはなかったからだ。
*****
「…………」
なんというか。
そもそも怒る気もなかったのだが、こうまでされてしまうと何と言えばいいのかもわからない。
だから俺は、頭を下げたままのシザーの手を掴むと、腰の刀を握らせた。
「……? あの、トビくん?」
「1戦だけやろう」
はっとシザーは顔を上げる。
「……いいのですか?」
「ああ。その代わり、一太刀入れたらそれで終わりとする。一太刀で殺せるなら殺してもいいし、俺もちょっとはムカついてるからな……憂さ晴らしのつもりで一撃で殺しにいく」
「……!」
「それでも運良くふたりとも生き残れたら、そのあとは一緒にボスを倒しにいこう」
「わ、分かりました! 喜んで!」
相変わらずシザーの表情筋は虚弱だが、それでも心がぱあと明るくなったことがひしひしと伝わる声色。
本当なら彼女がしたかったのは、こんなお遊びや練習とは違う、本気の斬り合いなのだろうが……それでも、こうも喜んでくれるなら相手をする甲斐もある。
まぁ、俺の本来の目的はすでに達成されているわけだし……ここから先はボーナスステージのようなもの。
後輩のワガママに付き合ってやろうじゃないか。




