37-3
「……ホー?」
熱で潤んだ黒い瞳に、ハリーファの影が映る。それが夢の中の相手と違うことに気づき、ジェードはふらつく身体を慌てて起こした。
「ご、ごめんなさい。寝ちゃってたわ」
弟と自分を見間違えてきまり悪そうにしているジェードに、ハリーファはテーブルから陶器の器を取り手渡した。
「飲んだら、部屋で寝ていろ」
ジェードは顔をしかめながら、器の中の薬を飲み干した。
ハリーファは空になった器をジェードの手から奪うと、部屋に戻るように促した。
ジェードが目を覚ましたのは、日が傾き始めた頃だった。外はすでにうす暗い。
のそのそと応接に行くと、西日が窓から差し込み、朱鷺色の壁を橙色に染めている。ランプにまだ灯は入れられておらず、ハリーファは窓からの夕日を明かりにして本を読んでいた。
「もう寝てなくていいのか?」
ジェードに気づいたハリーファが、本を閉じた。
「だって、服とシーツを取りに行かなくちゃ。それと食事の用意も……」
そう言っている途中で、ジェードはテーブルの上を見て目を丸くした。そこには既に食事が並んでいる。ジェードの為の食事まできちんと置かれていた。
「ハリが取りに行ったの?」
「いや、お前と似たような歳の家奴隷が来たから頼んだんだ」
ジェードが室内を見回すと、応接の入り口の隅に衣類の入ったカゴを見つけた。
(ルカかアルダが来てくれたのね……)
「ありがと……」
それを聞いて、ハリーファは「だから、俺じゃない」と言った。
「もう今日は休んでいろ」
ハリーファの視線を受けて、ジェードは寝ぐせでぼさぼさになっている髪を手で押さえた。
「今日は、ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないだろ」
ジェードは暗くなってきた部屋のランプに火を入れた。
「わたし、今まで病気になんてなったことなかったの」
「そうか。それは悪いことをしたな」
「どうしてあやまるの? ハリのせいじゃないわ」
ジェードは不思議そうに首をかしげた。
ハリーファはテーブルの上の包みを手に取ると、ジェードに差し出した。
「……何これ?」
そっと包みをあけると、中には銀色の櫛があった。
その櫛は、縦に長く半月状にゆるく曲がっており、柄の部分には花の模様が細かく刻み込まれている。
「お前の誕生月の一月に渡していれば、一年間病気にならなかったんだろ?」
「えっ……」
ジェードは驚いて目を丸くした。
「金属で女が身に着けられるものなんて、こんなものしか思いつかなかった」
「これ、もしかして、誕生月の贈り物なの?」
「四ヶ月も遅れたけどな」
ハリーファの言葉に、少し照れたように笑う。
櫛を受け取ると、癖のついた髪をすいた。もつれていた髪の流れが整い、黒いうねりが緩やかに背に伸びる。
「貸してみろ」
ハリーファは櫛を借りてジェードの背後に回り、ぎこちない手つきでジェードの髪に触れた。
黒く波打つ髪をすいて集めくるくるとねじり、櫛を刺して留める。たしかサライがこうしていたはずだ。見様見真似だが、ゆるゆると波打った髪は、ふわりと結い上げられた。
「こうすれば身に着けられる。今からでも魔除けで着けておけ」
到底上手く留められたとは思えないが、ジェードは「ママみたい」と可笑しそうに笑った。
「わたしのママ、自分の櫛でわたしの髪をすいてくれてたの。なつかしいわ」
ジェードの笑顔の理由に、ハリーファは少し肩をすくめた。
それにしても、今日はおかしな日だ。朝から、ジェードに父を思い出されて、次に弟と見間違われ、今度は母のようだと言われる。ジェードの家族が皆優しかったのだろうと想像する。
目の前の少女の白い首筋を見て、ユースフの記憶が鮮明に思い出された。薄明かりの中で、サライは白い髪を器用に結い上げた。その後ろ姿の婀娜やかさに魅せられた。
あの時は、たおやかな少女のうなじにもっと色香を感じたはずだったが、波打ったジェードの髪は後れ毛がふわふわとこぼれて、逆にいとけなく少女っぽい。
ハリーファは密かに落胆したが、ジェードの言葉は弾んだ。
「こんな素敵な櫛、村では持っている人はいないわ。ママのはパパが木で作ったものだったし。都会の物なのかしら?」
ジェードは顔を輝かせて、自分の髪にそっと触れた。
「ありがとう」
ジェードは顔だけ後ろに向けると、お礼の言葉と一緒に年頃の少女らしくはにかんだ。
それだけで、不思議と心が満たされる。肝心の誕生日には悲しい顔をさせてしまったが、あの時見たいと思っていた顔が今ようやく見られたような気がした。
人の心が見透かせたところで、思う通りにならないものだ。ハリーファは複雑な思いで小さく息を吐いた。
――まぁ、女を理解しようなんて男には絶対無理だろうけどね――
ユースフの死に際に【悪魔】の囁いた言葉が頭をよぎる。
(【悪魔】のくせに人間臭い事を言いやがって……)
ハリーファがそんな思いにふけっているとも知らず、ジェードは嬉しさとそわそわする心を隠しきれないようだった。
(鏡が見たいわ)
ジェードはきょろきょろと応接の中を見回したが、ここには鏡など無い。そして少し考え込むと困ったようにハリーファを見つめた。
「ねぇ? 皇宮に来てから、鏡を見たことがない気がするんだけど……」
「鏡なんかある訳ないだろ。鏡には神魔が映るからな」
臆面もないハリーファの様子に、ジェードはあ然とした。
「じゃあ、みんなどうやって自分の顔を見るの?」
「他人の目が己の姿を映す。だから鏡は必要無い」
「本当に? 一つもないの? 生まれてからずっと顔を見ないの?」
ハリーファは当然のようにうなずく。
今更ながら、ジェードは文化の違いに目を丸くした。