37-2
「ああ、ジュブンか。お前、ジュブンは食ったことあるのか?」
ジェードはすぐに頭を横にふった。ハリーファは普段から何かとジェードに食べ物を与えようとする習慣がある。
「それ、ヤギのチーズでしょ。村で作ったこともあるし。わたしはいらないわ」
「なんだ、嫌いなのか?」
アレー村では、毎年春に羊飼いが冬に向けて乾燥チーズを作る習慣がある。チーズに灰をまぶして真っ黒にして保存をする。
ヤギのチーズは同じだが、皇宮内で見たヤギは村の白ヤギと違って毛が黒い。今まで隠していた恐怖心が、ハリーファの前では顔に出る。
「ねぇ、この辺りのヤギは、みんな黒いの?」
「うん、そうだな」
ハリーファは黙り込んだジェードに気づくと、その顔をのぞきこむ。
『黒い山羊』は、クライス信仰の聖典に悪魔の化身として登場する。だが、それは架空の生物だと思っていた。それを実際に目にした日に、ジェードは悪夢にうなされたほどだ。
「ヴァロニアでは、黒ヤギも魔の象徴だっていうのか?」
見透かされてジェードは小さくうなずいた。
「……黒山羊は人の罪の形よ。この世に本当に【罪】がいるなんて思わなかったわ」
ジェードは心の中で聖典のくだりを思い出した。
もしかすると、ハリーファは【黒山羊】の乳を飲んで育ったせいで、悪魔のような能力を持ってしまったのではないだろうか。口には出さないが、考えていることはハリーファには伝わってしまった。
「まったく、お前は本当に馬鹿なことを考えるな。ヤギの乳で育った子どもなんて、市井に行けばそこら中にいるぞ。そいつらが皆、俺と同じだと思うのか?」
「そ、そうよね……」
伏し目がちなジェードの顔を、ハリーファはまたじっとのぞきこんでくる。透き通った宝石のような瞳を間近に見ると、急に頬が熱くなる。
「お前、顔色が悪いぞ。そんなにヤギが怖いのか?」
先ほどのルカと同じ事を言われ、ジェードは無理に明るい声を出した。
「ち、ちがうわ。多分ちょっと疲れてるだけ」
本当はハリーファの言う通り、黒ヤギが怖くてたまらないのだが、きっと理解してもらえない。こんな時父親なら、黙ってジェードを抱きしめて安心させてくれたりしたものなのだが。落ち着こうと、ジェードは自分の腕で自分をぎゅっと抱きしめた。
すると、ハリーファの手がすっとジェードの顔の前に伸びる。ジェードの前髪をよけて、そっと額に手を添えた。
「…………?」
ハリーファの手の温度が額に伝わってくる。顔がさらに熱くなり、言葉につまる。
目を閉じると、額に触れる手の感覚は不思議と父親を思い出させた。父の手ほどの厚みも手荒れも、苦労知らずの皇子の手にはない。しかし、同じように、額に触れてくる手に不思議と心が和らぐ。
少しずつ、自分の体温とハリーファの手のぬくもりが重なっていった。
「……お前、疲労と病の区別もつかないのか」
ハリーファは呆れたようにつぶやくが、その声音は父のように優しかった。
張っていた気が緩んだのか、急に倦怠感がジェードを襲う。頭がふらふらして、瞳が潤んでくる。
ぼんやりしていると、ジュブンの入った木椀が再びジェードの手に戻された。
「薬を持ってきてやる。そこで待っていろ」
ハリーファはジェードの背を応接へと押すと、自分はさっさと【王の間】を出て行ってしまった。
言われた通り応接に入り、木椀をテーブルの上に置く。自分の手を額にあててみたが、手のほうが熱くてよくわからない。そのまま手の甲を頬にそっとあててみると、今度は少し冷たくて心地良かった。
(……ハリのせいよ)
あの翠の瞳に惹きつけられると、頭がくらくらする。
ジェードは長椅子の上に倒れこむように身体を横たえた。
ハリーファが【王の間】に戻ってくると、ジェードは目を閉じて長椅子に横になっていた。
「ジェード」
声をかけても、ジェードの反応はない。
「……寝てるのか?」
ジュブンの入った木椀の隣に薬湯の器を置くと、ハリーファは長椅子のそばにひざまずいた。
ジェードの顔をのぞきこみ、鼻に触れないようそっと手をかざす。細い呼吸を手のひらに感じ、何故か安堵する。
ジェードの肌は、もともとファールークの白人女たちと比べると青白い。だが、今日は更に顔色が悪く、頬だけが変に赤く染まっている。こめかみから首には汗がにじんでいた。
汗で首にはりついた黒髪の先へと視線をたどる。聖十字のペンダントの鎖が白い胸元からちらりと見えた。髪をよけてやろうと、ハリーファはジェードの首に手を伸ばす。
指先がジェードに触れた瞬間、ジェードの見ている夢が、ハリーファに伝わってきた。
(――ホーが鐘を鳴らすの? すごいわ! 毎日楽しみよ――)
ハリーファははっとして、思わず手をひっこめた。夢が心の声と同じようにハリーファに伝わってくる。
(――双子ちゃん、本当に仲良しでかわいいの。生まれてすぐでも兄弟だってわかってるのね――)
ジェードは故郷の夢を見ているようだ。うっすらとにじんだ涙が、ジェードの睫毛を濡らす。苦しげに眉をしかめるジェードの呼吸は先ほどよりも荒くなった。
ジェードの身体が震えているのに気がつき、ハリーファは寝室から長衣を持ってきた。ベッドに敷かれた布や掛け布は、先ほどジェードによって引き剥がされていた。震える身体に、そっと自分の長衣をかけてやる。
長衣のすそを広げていると、ジェードが気づき、重たそうに瞼を持ち上げた。