表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天国の扉  作者: 藤井 紫
第四章 天使の子 悪魔の子
98/193

37-2

「ああ、ジュブンか。お前、ジュブンは食ったことあるのか?」

 ジェードはすぐに頭を横にふった。ハリーファは普段から何かとジェードに食べ物を与えようとする習慣がある。

「それ、ヤギのチーズでしょ。村で作ったこともあるし。わたしはいらないわ」

「なんだ、嫌いなのか?」

 アレー村では、毎年春に羊飼いが冬に向けて乾燥チーズを作る習慣がある。チーズに灰をまぶして真っ黒にして保存をする。

 ヤギのチーズは同じだが、皇宮内で見たヤギは村の白ヤギと違って毛が黒い。今まで隠していた恐怖心が、ハリーファの前では顔に出る。

「ねぇ、この辺りのヤギは、みんな黒いの?」

「うん、そうだな」

 ハリーファは黙り込んだジェードに気づくと、その顔をのぞきこむ。

 『黒い山羊』は、クライス信仰の聖典に悪魔の化身として登場する。だが、それは架空の生物だと思っていた。それを実際に目にした日に、ジェードは悪夢にうなされたほどだ。

「ヴァロニアでは、黒ヤギも魔の象徴だっていうのか?」

 見透かされてジェードは小さくうなずいた。

「……黒山羊は人の罪の形よ。この世に本当に【罪】がいるなんて思わなかったわ」

 ジェードは心の中で聖典のくだりを思い出した。

 もしかすると、ハリーファは【黒山羊】の乳を飲んで育ったせいで、悪魔のような能力を持ってしまったのではないだろうか。口には出さないが、考えていることはハリーファには伝わってしまった。

「まったく、お前は本当に馬鹿なことを考えるな。ヤギの乳で育った子どもなんて、市井に行けばそこら中にいるぞ。そいつらが皆、俺と同じだと思うのか?」

「そ、そうよね……」

 伏し目がちなジェードの顔を、ハリーファはまたじっとのぞきこんでくる。透き通った宝石のような瞳を間近に見ると、急に頬が熱くなる。

「お前、顔色が悪いぞ。そんなにヤギが怖いのか?」

 先ほどのルカと同じ事を言われ、ジェードは無理に明るい声を出した。

「ち、ちがうわ。多分ちょっと疲れてるだけ」

 本当はハリーファの言う通り、黒ヤギが怖くてたまらないのだが、きっと理解してもらえない。こんな時父親なら、黙ってジェードを抱きしめて安心させてくれたりしたものなのだが。落ち着こうと、ジェードは自分の腕で自分をぎゅっと抱きしめた。

 すると、ハリーファの手がすっとジェードの顔の前に伸びる。ジェードの前髪をよけて、そっと額に手を添えた。

「…………?」

 ハリーファの手の温度が額に伝わってくる。顔がさらに熱くなり、言葉につまる。

 目を閉じると、額に触れる手の感覚は不思議と父親を思い出させた。父の手ほどの厚みも手荒れも、苦労知らずの皇子の手にはない。しかし、同じように、額に触れてくる手に不思議と心が和らぐ。

 少しずつ、自分の体温とハリーファの手のぬくもりが重なっていった。

「……お前、疲労と病の区別もつかないのか」

 ハリーファは呆れたようにつぶやくが、その声音は父のように優しかった。

 張っていた気が緩んだのか、急に倦怠感がジェードを襲う。頭がふらふらして、瞳が潤んでくる。

 ぼんやりしていると、ジュブンの入った木椀が再びジェードの手に戻された。

「薬を持ってきてやる。そこで待っていろ」

 ハリーファはジェードの背を応接へと押すと、自分はさっさと【王の間】を出て行ってしまった。

 言われた通り応接に入り、木椀をテーブルの上に置く。自分の手を額にあててみたが、手のほうが熱くてよくわからない。そのまま手の甲を頬にそっとあててみると、今度は少し冷たくて心地良かった。

(……ハリのせいよ)

 あの翠の瞳に()きつけられると、頭がくらくらする。

 ジェードは長椅子の上に倒れこむように身体を横たえた。



 ハリーファが【王の間】に戻ってくると、ジェードは目を閉じて長椅子に横になっていた。

「ジェード」

 声をかけても、ジェードの反応はない。

「……寝てるのか?」

 ジュブンの入った木椀の隣に薬湯の器を置くと、ハリーファは長椅子のそばにひざまずいた。

 ジェードの顔をのぞきこみ、鼻に触れないようそっと手をかざす。細い呼吸を手のひらに感じ、何故か安堵する。

 ジェードの肌は、もともとファールークの白人女たちと比べると青白い。だが、今日は更に顔色が悪く、頬だけが変に赤く染まっている。こめかみから首には汗がにじんでいた。

 汗で首にはりついた黒髪の先へと視線をたどる。聖十字のペンダントの鎖が白い胸元からちらりと見えた。髪をよけてやろうと、ハリーファはジェードの首に手を伸ばす。

 指先がジェードに触れた瞬間、ジェードの見ている夢が、ハリーファに伝わってきた。

(――ホーが鐘を鳴らすの? すごいわ! 毎日楽しみよ――)

 ハリーファははっとして、思わず手をひっこめた。夢が心の声と同じようにハリーファに伝わってくる。

(――双子ちゃん、本当に仲良しでかわいいの。生まれてすぐでも兄弟だってわかってるのね――)

 ジェードは故郷の夢を見ているようだ。うっすらとにじんだ涙が、ジェードの睫毛(まつげ)を濡らす。苦しげに眉をしかめるジェードの呼吸は先ほどよりも荒くなった。

 ジェードの身体が震えているのに気がつき、ハリーファは寝室から長衣を持ってきた。ベッドに敷かれた布や掛け布は、先ほどジェードによって引き剥がされていた。震える身体に、そっと自分の長衣をかけてやる。

 長衣のすそを広げていると、ジェードが気づき、重たそうに(まぶた)を持ち上げた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ