37.遅れた贈り物
1426年5月1日――。
西大陸では、晩春とは思えぬ太陽が頭上に降りそそぐ。
井戸へと続く石畳の小道を、ジェードは一人カゴを抱え歩いていた。
ファールークの春は、ヴァロニアの真夏よりも気温が高い。年中ほとんど温度は変わらないはずなのに、今朝からまた急に熱くなったように感じられる。熱さのせいで頭がふらふらするほどだ。
首筋に流れる汗をぬぐい、伸びた髪をふわりとはらう。今日は石畳を蹴るサンダルの音に軽快さはなく、ペタンペタンとけだるそうだ。
井戸端からは、いつもと変わらない心地良い水音と、女たちの楽しそうなおしゃべりが聞こえてきた。
洗濯場にやってきたジェードの姿を見つけ、ルカが笑顔でかけよってくる。
「あっ、ジェード! 待ってたのよ! はいこれ」
ルカの手の中には真っ白なクリームが入った木椀があった。何だろう、と首をかしげた。
「これ、ジュブンよ。ヘッサから奴隷皇子様に渡すようにって頼まれたの」
「ジュブン?」
ヘッサは家畜番の奴隷女だ。ということは、器の中身はきっとヤギ乳の生チーズなのだろう。ヴァロニアでもヤギ乳の生チーズはちょうど今頃、春が旬の季節だ。羊乳で作られたチーズとは違い、ヤギのチーズは雪のように白い。
真っ白なジュブンを目の前にして、ジェードは家畜小屋に繋がれているヤギの姿を思い出した。
「……あの黒ヤギの?」
「ええ、そうよ」
ルカは屈託なくほほ笑む。が、ジェードはたじろいだ。
先月、行商隊に連れられてやって来たヤギを見て、ジェードは驚きおののいた。この国のヤギは毛並みが真っ黒だったのだ。ヴァロニアには白毛のヤギしかいない。黒いヤギを初めて見た夜は、恐ろしい夢を見てうなされてしまった。それ以降、ヤギの居る家畜小屋には近づいていない。ジェードは、あの黒いヤギが恐ろしくてたまらないのだ。
そんなことを知るはずもないルカは、笑顔で木椀をジェードに差し出す。ジェードは衣類や布の入ったカゴを地面に置いた。衣類が崩れ落ちそうになり、慌てて衣類を押さえた。
「今日は寝具もあるの。お願いね」
洗濯女たちに頼むと、本当は受け取りたくもなかったが、ルカの手からジュブンを受け取った。
木椀の中をまじまじと見つめる。ジュブンはヴァロニアの生チーズと全く同じだ。真っ白でクリームのように柔らかい。かすかにすっぱい匂いが鼻をつく。
「奴隷皇子様ってね、幼い頃は山羊皇子様って呼ばれてたの、知ってた?」
衣類の入ったカゴを持ち上げながらルカがささやく。
「山羊皇子……?」
ジェードは眉を寄せた。家奴隷たちに悪気がないにしても、奴隷皇子という呼び名も嘲笑的だと思っていた。山羊皇子というのも負けないくらいひどい。しかもこの国のヤギとは、間違いなく黒ヤギのことだ。
ハリーファが気の毒になってくる。
「奴隷皇子様は山羊のお乳でお育ちになったからよ」
「そう……」
ハリーファは生まれてまもなく母を亡くし、宰相の女奴隷のリューシャに育てられた。乳母とはいえ、子を産んでいないリューシャは、ハリーファに乳を与えることはできなかったはずだ。
「リューシャ様が乳女を召し抱えるのを嫌がったんですって。シナーン様やアーラン様にだって乳女がいたのに」
「そう……」
リューシャのことを思うと、ジェードは今でも少し胸が痛む。リューシャがどんなに宰相のことを愛していても、あの二人が結ばれることは決してないのだ。
「奴隷皇子様はジュブンがお好きらしいわよ。早く届けてあげて。ね」
そう言って、ルカはジェードの顔をのぞきこんだ。
「ジェード、顔色が良くないけど、大丈夫?」
「え? なんでもないわ。じゃあ、午後にまた来るわね」
ジェードはあわてて笑顔を作った。黒ヤギやリューシャのことを考えていたのが顔に出てしまったのだろう。ルカに見抜かれてしまうなんて、ハリーファなら間違いなく気づくに決まっている。
ルカの向こうに見える家奴隷の女たちにも手を振り、ジェードは早々に井戸端を去った。
【王の間】の周囲には茎の細い植物が植えられている。絡みあいながら壁を覆う蔦には、まばらに白と黄色の花がほころびていた。
ジェードが入り口の扉を開けると、水瓶の横に立つハリーファの姿が目に飛び込んできた。金色の髪の少年は銀色の杓に口をつけて喉を潤している。
うっかりハリーファの横顔を見とれていると、翠色の視線がジェードを捕えた。
「なんだ、随分戻るのが早いな。今日は遊びに行かなかったのか?」
ハリーファは手にしていた杓を水瓶のふちにひっかけた。めずらしく早く戻ってきたジェードに、不思議そうな顔を向ける。
「別に、遊んでるわけじゃないわ」
ジェードは少し頬を膨らませた。しかし、すぐに子どもっぽい反応をしてしまったことに気づき、あわてて真顔に戻る。ハリーファは特に気にした様子もなく、穏やかにジェードを見つめていた。
「そうだ、ジェード」
ハリーファが何か言おうとしたが、ジェードはそれを止めるように、手に持っているものをハリーファにさっと押し付けた。
「これを届けに戻ってきたのよ」
ジェードは手にしていた木椀を、おもむろにハリーファに手渡した。手のひらがしっとりと汗ばんでいて、木椀をハリーファに手渡すと両手を自分の服で拭いた。
「家畜番からハリにって、預かったの」