36-2
アーランの態度に軽いいらだちを覚える。いや、本当はラシードをアーランに盗られたことに腹を立てているのだ。そんな子どもじみている自分にも腹が立つ。
階段をおりる足につい力が入り、ドタドタとみっともない音をたてながら、ソルは玄関への階段をくだった。
「ソル! お待ちなさい!」
先に階下におりたソルを追って、アーランが手すりに身を乗り出して声をかけてきた。アーランには聞こえないように軽く舌打ちすると、ソルはふり返って上方を仰いだ。
アーランの黒い髪、小麦色の肌はラシードと同じ皇族の血筋のものだ。漆黒の大きな瞳が階上からソルを見おろした。
「ラシードから聞いたわ。あなた、今日ハリーファに会ったの?」
「あぁ。あんたとは随分似てない弟なんだな!」
階段の上のアーランに向かって、強い口調で答えた。
宰相の娘のアーランを見ていると、なおさら今日出会ったハリーファだけが、同じ宰相の血を引いていながら、異様なほどにその外見が違うことに改めて気づかされる。
「ハリーファに近づいては駄目!」
唐突に言われた言葉に、ソルは目を丸くした。
呆れてため息がもれそうな顔を、手のひらでおおう。
「あのなぁ。いくらあんたでも、オレはラシードの命令しか聞かないって言っただろ」
「ハリーファは人の心を読むのよ!」
そう言いながら、アーランはソルを追いかけて階段をおりてきた。
「はぁ? 人の心を読む?」
近づいてきた主人の妻に向かって、ソルは眉をしかめた。
「ハリーファは、人の心の声が聞こえるのよ」
「からかってんのか? そんなの戯れ言だろ」
「戯れ言ではないわ。真実よ」
「姉弟で心が通い合うほど仲が良かった、って言いたいのか?」
「お黙りなさい!」
アーランの顔は怒りで赤くなった。ソルは肩をすくめると、茶化すのはやめて真剣な表情で答えた。
「皇女さん。人の心が読めるなんてのはなぁ、悪魔か神魔だけだ」
ソルの真っ直ぐな視線を受けて、アーランは悔しそうに口を閉ざした。
「ま、確かに、あの髪と肌の色は皇族にしちゃ、かなり異様だな。それとも、あんたの弟は神魔に取り憑かれてるってのか?」
「……」
アーランは押し黙ったまま、やや不満そうな顔でソルを見あげた。
ソルはふんっと鼻を鳴らした。話は終わったと思い、身をひるがえし玄関に向かう。
「お待ちなさい!」
「うるせーな。何なんだよ」
「あなた、今から何処へ行くの?」
「夜市に行ってくる」
そう言いながら、袖口から出した一枚の金貨を上方に指で弾くとぱしっと受けとめた。
「……いいわ。お行きなさい」
ソルはアーランに背を向けると、きっちりと着ていた衣服の首元をゆるめ胸元を大きく開けた。そして袖をまくり上げると、玄関の大きい扉をおしあけ、外へと向かった。
* * * * *
翌週の午前中、ソルはハリーファに言われたとおり、第四夫人を見舞った後に【王の間】にやってきた。
年季の浅い異質な朱鷺色の館に入っていくと、応接室にハリーファの姿を見つけた。
「なんなんだ、ここは……」
そう言いながら、黒い少年は朱鷺色の室内を見渡した。ソルが来るか来ないか半信半疑でいたハリーファは、ソルの来訪にまんざらでもない様子だ。
「頼んでいた物は持ってきたのか?」
ソルは、腹の帯にはさんでいたモノを取り出して、布包みをハリーファに差し出した。
「これでどうだ?」
ハリーファは受け取ると、手のひらの上で包み布を一辺一辺広げていく。その中に包まれていたものを見てハリーファは満足そうにうなずいた。
「思っていたより良い出来だな」
「腕のいい職人を知ってるからな。模倣品なら、見本があればなんでも本物そっくりに作れるぜ?」
ソルは自慢げに言うと、近くの椅子にハリーファの指示を待たず勝手に越しかけた。
「今回はこれで十分だ」
布包みの中身は、金属製のー櫛だった。
「メンフィスでは、今も東大陸との交易が行われてるのか?」
外の様子を知りたくて、ハリーファはソルに問いかけた。
「何言ってんだ。オレらが生まれるずっと前から、港は閉鎖中で、国境も封鎖中だろ。それに、昔みたいに東大陸なんかに頼る必要ない。西大陸だけでまわってるしな」
ハリーファはソルの嘘に気がついた。なぜなら、過去に金髪のハザールという男は、東大陸との交易仲介人をしていたのだ。おそらく今も秘密裏に東大陸と繋がっているのだろう。
だが、話の後半は真実だった。ファールーク皇国が、繁栄することも衰退することもなく、時間に取り残された不気味な状況が続いているのは、皇都だけでなくファールーク皇国全土のようだ。聖地オス・ローが復興しないのも、あそこが今はファールークの領土だからなのだろう。
まるで国境に大きな壁があるように、外から干渉されることもなく、偽りの平和の中、何も変わらずただ時間だけが過ぎてゆく。
(もしかすると、それがアーディンと【悪魔】との契約なのか……?)
ハリーファは、ソルには気づかれないよう、小さなため息をこぼした。
そして、思い出したように、小さい薬筒をソルに差し出した。ハリーファは薬筒の中の薬を少なめに入れていたが、ソルはそれを見ても文句を言わなかった。メンフィスではシュケム製の薬はとても貴重なのだろう。
ソルは微かに笑いながら立ち上がると、
「不自由だとか言っといて、こんな貴重なものを簡単に準備できるなんて、手癖の悪い皇子様だな」
そう言って、懐に小さな薬筒を隠すようにしまう。
「ありがたいね。また来るよ」
そう言って、ソルはそのまま【王の間】を出て行った。
やはり、今日もソルの心からは、何も聞こえてこなかった。