36.メンフィスのラシード
皇都サンドラから北へ二ファルサク程行くと、メンフィスの街がある。メンフィスは、かつて東大陸との交易で栄えていた街だ。
近くに流れる川の水を利用して、荷運びの小船が行き交う水路が街を網羅している。皇都サンドラよりも緑が多く、街の至る所にナツメヤシが生え、その根元や大きな建物の周りには緑の芝が生いしげっていた。
約二百年前に国境越えが禁じられて以降、交易は廃れたが、西大陸の中では、今も異国風情の感じられる街だ。
ソルがメンフィスに戻ったころには、東の空のすそが勝色に染まりつつあった。
斜めに差してくる日差しに目を細めながら、首元ににじむ汗をターバンのすそで拭う。
ソルの主人であるラシードの屋敷は、街の中心にあった。
往来に入ると馬からおり、その手綱を引いて人の行き交う中を歩く。見知った顔ぶれが、ソルを見つけると声をかけてくるので立ち話に興じた。
立ち話から解放されると、黒い馬に話しかける。
「アキル、お前も疲れただろう? 帰ったらゆっくり休めよ」
ようやく屋敷に着き、格子柄の門を開け中に滑り込むと、自分で馬を厩舎へと連れていく。餌箱と水の確認をすませ、玄関まで戻り館の中へ入った。
「ソル殿、おかえりなさい」
ソルの帰還に家奴隷が声をかけてきたが、ソルの耳には届かなかった。家奴隷には返事ではなく、ゆるりとそよ風が届いた。
ものすごい勢いで、玄関のすぐ横の階段をかけあがり、主人であるラシードの部屋へ向かう。
主人が在室なのはわかっているので、軽く戸を叩くと返事を待たずに戸を開けた。ベッドの上で身体を起こしていた人物は、帰ってきた奴隷少年の姿を見てほほ笑みかけた。
「ソル、戻ったか」
「うん」
ベッドに身体を起こして座っているのが、ソルの主人のラシード・アル・ハリード。かつての第二皇子ハリードの息子で、ファールーク皇国の宰相ジャファルとは従兄弟にあたる。ジャファルと歳も近い。ラシードの黒髪と小麦色の肌は、皇族であった父親譲りのものだ。
昨年の末に、ラシードは急に病に倒れ、そのせいで実際の年齢よりも老けて見える。病気のせいで頬はこけ、漆黒の髪は切ることが出来ず少し伸びて肩に掛かっている。今は気分が良いのか、言葉も明朗でソルを見つめる黒い瞳には光が宿っていた。
ソルは、黒い上衣を脱いでわきの椅子の背に投げ掛けると、主人のもとにかけよった。そばに置いてある椅子には座らず、ベッドの上に座り込み、主人の足元であぐらをかく。
「義母上様はどうだった?」
ソルの行動をとがめることなく、ラシードはまるで息子を見るように、ソルに笑顔を向ける。
「だいぶ良くなってきたみたいだ。変えた薬があってたんだと思う」
「そうか。それはアーランも喜ぶだろうな」
皇女の名前を聞いて、ソルは口を尖らせた。
「さぁね。あいつが喜ぶところなんて、オレには想像もつかねーよ」
「そう言うな。お前のお陰だよ」
ラシードが妻の母を気遣う言葉に、ソルは少し渋い顔をした。ラシード自身も病を発症しているのに、それを公にしないまま、日に日に弱っている。そして、自分の命が長くないことを悟ったラシードは、つい先月、奴隷達に金品を与え解放してしまった。この家に残っているのは、家奴隷二人だけとソル、そしてアーランだけだった。
(あんたの方がよっぽど悪いのに……ラシード)
宮廷にいる皇族達と同じ、漆黒の髪と瞳、小麦色の肌をしたラシードを見て、ソルは今日出会った人物を思い出した。
「そうだ、ラシード、聞いてくれ! 今日面白いやつに会ったんだ」
「面白い? 一体誰だい?」
「《《第二皇子》》の、《《ハリーファ殿下》》」
「ハリーファ皇子? あの異例の第二皇子か」
ほう、とソルの話に身を乗りだす。
「うん。確か、箱入り皇子でほとんど人前に姿を見せないって言ってたろ?」
「皇族の血が薄いせいかな」
「あぁ、それそれ! 噂以上に毛色が違うんだな。白人奴隷と勘違いしちまった」
「白人奴隷か! 宮廷の奴隷は、宰相の趣味で皆白人しかいないからな」
そう言いながら、ラシードがハッと笑った。主人が声を出して笑うのは久しぶりだ。
「白人で、しかも金髪だぜ? あれで皇家の血を引いてるなんてありえねーよ」
「ハリーファ皇子か。ジャファルは金の髪が好きなようだからな。ファールークの掟を破ってまで宮廷に残すなんて、よほど気に入りなんだな」
主人の問いにソルは肩をすくめた。
「いや、それが何やら、ハリーファ皇子の方は色々不自由してるみたいだぜ。宮廷からは一歩も出してもらえないみたいだな。その上、奴隷も居ない。どうも離れに住まわされてる。哀れな第二皇子様だ」
二人が話していると、扉がノックされた。ソルと同じように返事を待たずに入ってきたのは、黒髪の少女だった。
銀のタンブラーを盆をのせ、黒く長い髪を揺らしながら、真直ぐにラシードの傍らに歩み寄った。
「貴女にこんなことをさせてしまって、すまないね」
「別に……、構わないわ」
少女はベッドの横の台に盆を置くと、持ってきたタンブラーをラシードに手渡した。
ソルは、この少女に対する主人の態度が気に食わない。ソルの顔からは笑みが消えた。自分の存在などまるで気にもとめない少女をにらみつける。
「ありがとう、アーラン」
ラシードの感謝の言葉と笑顔にも、アーランと呼ばれた少女は表情を変えず椅子に腰かけた。その様子を見て、ソルは黙ってベッドの上から降りるとそっと部屋を後にした。