35-3
「アーランは、息災か?」
ハリーファの言葉に、黒人の少年の眉がぴくりと上がった。砂をはらう手を止めると、ハリーファを凝視してきた。
「あんた、誰だ?」
「アーランの、腹違いの弟だ」
「弟? じゃ、あんたがハリーファ皇子?」
そう聞いて、黒人奴隷の少年は大きく目を見開いた。少年の驚く顔もサライとよく似ている。
「……これは……ご無礼を」
黒人の少年は口では詫びたが、ハリーファを疑うように眺める。
ハリーファの事情をアーランから聞かされ知っているのか、漆黒の瞳にどことなく憐れみの色が浮かぶ。そんな気がしたが、ハリーファは違和感を覚えた。少年の心の中がわからない、何も伝わってこないのだ。
ハリーファに向けられた視線は、ハリーファを哀れんでいるのか、蔑んでいるのか、それとも疑っているのか。黒人少年の心のうちは何も伝わってこない。
自分の異能が突然消え去ったのだろうかと、焦る気持ちを表情の下に隠し、ハリーファは少年に問いかけた。
「ずいぶん前から何度も皇宮に来ているらしいが、ラシードが一体ここに何の用件だ? それともアーランからの遣いか?」
「ハリーファ皇子? あんたさぁ、弟なのになんにも聞かされてないのか?」
黒人少年は、ずいぶんなれなれしい言葉で語りかけてきた。少女のような表情が歪み、哀れんだ視線がハリーファに向けられる。
「皇女さんの御母堂の体調が優れないんだよ。知ってるだろ? ココの病気だ」
少年は右手の人差し指を自分の側頭部にあてた。
「主人に遣いを頼んできたのは、アイシャ様本人だぜ。オレは市井で流行っている薬を、遣いで届けに来てるだけなんだ」
メンフィスはオス・ローの医者や職人が多く移住した街だ。それに、異母姉の母親がもう何年も前から体調を崩していることも事実だ。
だが、少年の言うことが本当に正しいのかどうか、心の声を聞くことに慣れすぎていたハリーファは判断できなかった。
「なぜこんなところにいる? ここで何をしていた?」
「アイシャ様がさ、最近昼間、海鳥の声がうるさくて休めねぇって言うんだよ。城壁の上に巣でも作られてないか見てこいって言われたのさ」
確かにさっきまで鳥がうるさかった。使い走りの少年に怪しいところはなさそうだったが、相手の心が聞こえないことにハリーファは内心穏やかでなかった。
なぜこの少年は心の声が聞こえてこないのだろう……。何も考えないように訓練されているのだろうか?
ハリーファは、黒人少年に人知を超えた能力を疑った。自分と同じように何か不思議な力を持っているのだろうか。普通じゃないのは自分のほうだというのに、猜疑心が心を覆う。
しかも、少年はサライやアルフェラツに似ている気がする。自分がジェードに言ったように、長く皇宮に閉じ込められて黒人を見ていなかったせいで、自分自身も人の顔の判断がつかなくなってしまったのだろうか。
「……ここには毎日来ているのか?」
「前に十日ほど毎日つめて来てたけどな。先週から週に一回だけだ」
「お前の名は?」
「ソル」
さらりと答えた少年の名は、ファールーク皇国の市井ではよく聞く愛称の一つだった。おそらく本当の名ではない。市井では忠実な人付の奴隷は主人以外に本当の名前を明かさないと聞く。
そんな奴隷の少年に言っても無駄かと思いながらハリーファはたずねた。
「ソル。俺は、この通り不自由な身だ。お前のように、自由に外と出入りできる奴隷が欲しい」
あまりに唐突な言葉に、ソルと名乗った少年は目を白黒させた。
「オレは自由じゃないし、主人はラシードだけだ」
「別に、お前をラシードから買い取ろうとは言わない。遣いを頼まれて欲しいんだ。報酬ならその都度与える」
「ふーん……」
ソルは不振な目付きでハリーファを見定めた。
「オレは、金持ちや身分の高いやつらは自由なんだと思ってたんだけどな。そうじゃないのか?」
ソルは胸の前で腕を組みながら首をかしげた。
「……俺は軟禁同然でここからは出られない」
軟禁と言う言葉をハリーファの口から聞いて、ソルは笑いをかみ殺した。
「そりゃあ、不自由なことで。でも別にオレじゃなくても、皇子様なら奴隷なんかいっぱいいるだろ?」
「……」
ハリーファは思わず口ごもった。その様子を見てソルは感づいたようだ。
「もしかして、奴隷もいないのか? やっぱり異例の第二皇子様は冷遇されてるってことか?」
納得したような表情で、ハリーファの服装をじろじろと眺めた。
「そんなんで、本当にちゃんと報酬が払えるのかよ。いくら皇子様が相手でも、オレはタダ働きはしないぜ」
「なら先に払えばいいだろう」
そう聞いてソルは頭を縦にふった。そして、わざとらしいほど大げさに、右拳で左手をぽんと打ちならした。
「あー、そうだ! 金の代わりに阿片が欲しいな。なければ麻でもいい」
それを聞いてハリーファは眉をひそめた。おそらく国交のないファールークにとって、今は金子よりずっと価値があるのだろう。
「ここにあるのは医療用のものだ」
「ああ、粗悪品だったら市井でも手に入るんだ。だけど質が悪すぎて何人も死んだ。欲しいのはシュケム製のものだ。最近メンフィスでも手に入りにくいんだ」
ソルは口のはしを少しあげた。もともと阿片や麻の精製技術はシュケムから持ち込まれたものだ。
「……いいだろう。ここから北西位置に赤土色の離れがある。次に義母上を見舞った後に来てくれ」
「御意のままに」
ソルが皮肉っぽく返事をする。相変わらず奴隷少年の心からは何も聞こえない。
早速ハリーファはソルに一つ用事を頼んだ。余計なことを知られずに、黒人少年の力量を測るのに丁度よいものだ。
細かに指示する間も、ハリーファは黒人少年の心に耳を傾けた。しかし、ソルの心からは何も聞こえてはこなかった。
日没前にジェードは【王の間】に戻ってきた。
薄暗かった室内にランプが灯され、不機嫌そうなハリーファの顔がジェードの瞳に映る。
ハリーファは長椅子に深く腰をかけ、珍しく乱暴に足を投げ出した。腕組みをしながらジェードをじっと見つめる。
そのハリーファの態度を見たジェードの心の中は、罪悪感でいっぱいになった。
(……ハリ、昼のこと、怒っているのかしら。だってアルフェラツ様の馬が停まってたんですもの……)
どうやら異能がなくなったわけではない。ハリーファはジェードの心の声を聞きながら、ソルの心の声がまったく聞こえないことについて考えていた。
聖地で会ったアルフェラツ以外に、今までそんな人物に出会ったことはない。ソルは本当に何も考えないように訓練されているのだろうか。
「……アルフェラツ以外に、心でものを考えない人間がいるのか?」
ハリーファは、独り言のような口調でジェードに問いかけた。
(前に、暗殺者はそういう訓練をしてるって言ってたけど……)
目も合わせずに話しかけられ、ジェードは困ったように首をかしげた。