35.黒人奴隷
春を呼ぶ風が吹き始めた。風は上空にまで粉砂を舞い上げ、青い空を砂色にくすませる。
そして、一月ほどして風が吹き止むと、皇国は春らしからぬ陽春を迎える。
真昼の炎天の下。強い日差しを浴びながら、宮廷内の石畳の遊歩道を歩く少女と少年の姿があった。
ハリーファはジェードに誘われて厩舎に向かっていた。ジェードは手をひいてハリーファを急かす。昼の休憩時間がさほど長くないからなのだろう。ハリーファを連れ出すことに成功して、女奴隷の心から嬉々とした想いが伝わってくる。
二人のサンダルが、パタパタと音をたてる。
まるで子供のように急かすジェードに、ハリーファは不思議な既視感を覚えた。昔、こうして自分の手をひいたのはサライだったか。ジェードよりも小さな手の感覚がよみがえる。
「ハリは馬に乗れないって聞いたんだけど。ほんとなの?」
ジェードの声がハリーファの思考をさえぎった。
確かに、ハリーファ自身は、乗馬の指導は受けたことはない。馬に乗ることが出来たのも、オス・ローへの道を知っていたのも、ユースフの記憶があるからだ。
「お前と会った時まで、俺は宮廷から出たことすらなかったからな」
余計なことを言う必要はない――。話をはぐらかすつもりでいたが、その必要はなかったようだ。ジェードはハリーファの胸中に気づかずにほほ笑んだ。
「じゃあ、乗馬ならわたしが教えてあげられるわよ?」
「お前が? 俺は駱駝なら何度か乗ったことあるぞ」
「駱駝に!? 本当? わたしも乗ってみたいわ」
「行商隊が着た時に、乗せてもらうといい。駱駝の歩みは慣れたら揺れが心地良くて眠ってしまうぞ」
「そうなの?」
「いや、嘘だ」
「えぇ!?」
めずらしいハリーファの嘘に、ジェードの目が丸くなる。
「何も食わずに乗るのが賢明だな」
そう聞いて、ジェードは勝手にハリーファの経験を想像し、楽しそうに笑った。あのおとなしそうな駱駝の背は、気分が悪くなるほど揺れるのだ。
動物好きなジェードにとって、馬は特別な存在のようだ。馬に乗りたくて仕方がない気持ちがジェードの心から伝わってくる。
「馬に乗ろうなんて考える女奴隷は、お前くらいだろうな」
ハリーファが言うと、ジェードはハリーファに心を読まれていることに気がついた。
「ねぇ? ハリの正体は本当は動物なんじゃない? 動物は人の心が読めるのよ」
「ああ、そりゃ、ちがいない」
ジェードの突拍子もない言い分に、ハリーファは笑いがこみ上げてくる。
「お前、呆れるほど動物好きなんだな」
「ええ、大好きよ。動物たちは嘘をつかないし」
ジェードは歩きながら答えた。
(さっきはからかわれたけど、ハリも嘘をつかないものね。やっぱり動物なんだわ!)
隣でくすくす笑うジェードを見て、ハリーファは軽く肩をすくめる。
他の奴隷たちからすれば、異国人のジェードはすることも言うこともとんでもないことばかりだろう。
最近特に、ジェードはハリーファの身分などお構いなしだ。ジェードの胸裏には、ハリーファに対するあざとさもへつらいもない。今もジェードの胸のうちにあるのは、無邪気な好奇心だけだ。ハリーファには、少女の心の中がきらきらと輝いてみえた。
そして、こういう時、いつもサライのことを思い出すのだ。気づいてやれなかったサライの想いを、ジェードが代弁しているかのようだ。
人気のない広場にさしかかると、熱さが増して石畳の上に陽炎がゆらゆらとゆれていた。地面から照り返す光に、思わず目を細める。
厩舎を目前にして、ジェードは立ち止まり、ハリーファをふり返った。
どうしたことか、さっきまで上機嫌だった笑顔はすっかり消えている。何かを必死で隠そうとしているが、ジェードの顔には不安の色が浮かんでいた。
「ごめんなさい……、やっぱり今日はだめだわ……」
ジェードの心からは、あの馬の主に会いたくないと聞こえてくる。
――馬?
ハリーファが前方に目を向けると、ジェードの肩越しに、黒い馬が城門近くに繋がれているのが見えた。
「宰相か……?」
ジェードは、視線を地面に落としたまま何も答えず、ハリーファの手を離すと逃げるように走って行った。
広場の向こうには陽炎が立ち上り、蜃気楼の泉が静寂の中を揺らめいていた。