34-2
リューシャの気持ちが少しわかる気がする。ジャファルには、他人にこの寂し気な人に笑って欲しいと思わせる、不思議な雰囲気がある。憂いた黒い瞳を見ると、不思議と目が離せない。
しかし、本人にとって、そんなことは関係ないようだ。
「ここで大人しくしているのかと思えば、度々歴史家を呼び出しているそうではないか」
厳しい口調でジェードに言い放つ。
「度々って……、二回だけよ。それに」
あの後、歴史家が【王の間】を訪れたのは一度きりだった。ジェードは、ハリーファが歴史家から何か教わっているのだと思っていた。
「ハリは、勉強しているのよ」
ジェードの答えに、ジャファルの眉間の皺が深くなった。
「余計な事は一切するな。ハリーファには何も教えてはならん。【王の間】に大人しく籠っていれば良いのだ」
ジェードには、ジャファルの言葉がひどく冷たく感じた。
「どうして? ハリにはシナーンと同じようにしてあげないの? 剣術も馬術も、歴史だって。どうしてハリには何も教えないの?」
感情的になるジェードに対し、ジャファルは冷静なままだった。抑揚のない低い声で答える。
「私は、ハリーファに武器を持たせるつもりはないのだよ」
「ハリは、武器なんて、何も持っていないわ」
望んでも武器など手に入らないのは、ジェード自身がこの一年間で強く実感している。そんな自分の悔しい想いも、その言葉に混ざる。
「娘よ、そなたは文字も読めないのだろう。そのような者に、わかるのか? 知識がこの世で最も強い武器だと言う事が」
ジャファルの言葉に、ジェードは息が止まった。
――ジャファルはハリーファと同じ事を言っている。以前、ハリーファは『知識は時に剣より強い武器になるぞ』と言っていた。これは、ハリーファがジャファルから教えられた言葉だったのだろうか。
何も教えていなくとも、父の意思は息子に伝わっているということなのだろうか。時に、ハリーファは、ジャファルを理解できるような言い方をすることさえもあった。
「……あなたはハリの父親なんでしょう? どうしてこんな処に一人で住まわせるの? ハリを……愛してないの?」
「一人? ハリーファには、そなたが居るではないか。奴隷は『家族』だ。ハリーファが愛を求めているなら、そなたがハリーファを愛してやれば良い」
背の高いジャファルを見あげ、ジェードはおし黙った。
ジャファルはジェードを見おろす。
「これでも私は、随分寛大なつもりだ。ファールークの一族は『神殺し』の血脈。だがハリーファは【王】に生まれた故、『神殺し』の血を引く男子でありながら、この皇宮に留めておいてやっているのだ。枷も付けず、鍵もかけずな。そなたは、それ以上の何を、ハリーファの為に望むのだ」
ジェードにはジャファルの言っている意味が分からなかった。だが、きっと、それが以前ハリーファが言っていた、ハリーファを宮廷に留める『専横ではない理由』なのだろう。
「それが、ハリを宮廷に留めている『理由』なの? リューシャさんを愛しているからじゃなくて、ハリが【王】だから?」
「そうだ」
答える黒衣の宰相は、自分の父よりは若い男だ。きっとこの人もハリーファと同じで、誰のことも愛せないのだ。望まぬまま、宰相の地位についたのかもしれない。
漆黒の髪のジャファルの姿を見て、ジェードの胸には急に寂しさがこみ上げてくる。はっきりと思い出せないが、誰かに似ている。
「あなたは、お姉さんのことを愛していたんでしょう? ハリはそのお姉さんの血を引いているのに、どうして、」
ジェードは自分でも何が言いたいのかまとまらないまま言葉を続けた。
しかし、すべてを言い終わらぬうちに、ジャファルはジェードのそばに寄って来た。かと思うと、そばにあったピッチャーで水瓶から水をすくう。
「ヴァロニアの女奴隷よ、そなたは少し頭を冷やすといい」
宰相は表情を変えず、ジェードに頭から水を浴びせた。
ハリーファが【王の間】に戻った時、ジェードははいつくばって、ぬれた床を拭いていた。
「ジェード?」
突然背後から声をかけられ、飛び出しそうになった悲鳴を、ジェードはなんとか飲みこんだ。
入り口の方をふり返ると、黒尽くめの人物とはまるで対照的な、金色の髪の白人少年がジェードを見つめている。
「お、おかえりなさい……」
ハリーファの眉根が寄った。水浸しの床とジェードの姿を見るなり、怪訝そうに声をかける。
「何をしているんだ?」
ジェードの髪は、びしょびしょに濡れている。水に濡らされたジェードの髪は、波が緩やかになり、その先からしずくがポタポタと滴り落ちている。衣服も身体にぴったりとはりつき、背中の骨が服越しに透けて見えた。
ハリーファは、ジェードの心から宰相の来訪を知って、呆れてため息をもらした。
「父上が来たのか。床なんかいいから、先に自分の顔を拭け」
ジェードは、床を拭く手を止めて立ち上がった。濡れた黒い髪の先から水が滴り落ちる。滴った水は、頬にもつたった。
「また泣いてたのか?」
「泣いてなんかないわ!」
しかし、そう言うジェードの目に、本当にかすかに涙がうかぶ。
ハリーファは、奥の自室から大きめの布を一枚持って戻ってきた。布を広げてジェードの肩にかけた。
「ほら。これで拭け。みっともない」
ジェードの波打った黒髪は、濡れてしまって緩やかに伸びていた。
「ハリのパパがここに来る前に、【天使】様の姿を見たの……」
「アルフェラツを?」
ジェードはこくりとうなづいた。
「……わたしが天命に従わないから、だから、【天使】様が……来たんじゃないかしら」
ハリーファはジェードの心を読んで、ジェードが何に怯えているか気がついた。ジェードの心の中は、【天使】に対する畏怖で覆われている。
「【天使】様は、聖地で、わたしにハリを殺すように命じたわ。でも、ハリのパパは、ハリを皇宮に閉じ込めて、ここで大人しくしていろって言ってたの。それって……」
都合よく考えると、ジャファルがハリーファを【天使】から守っているようにも思える。
「今までここに閉じ込められた【王】は、皆ろくな死に方……いや、生き方をしていない。父上にとっては、俺も同じだ。まだ、こうして自由に動けるだけましだ」
「一体なんのためにここに閉じ込めてるの?」
「それを今調べている」