34.黒きもの
雲一つない青い空が高く広がり、真夏のような強い日差しが、宮廷の石畳を焼いていた。
年明けから春が来るまでの間は、皇宮へ出入りする者の数が増える。朝から城門広場や脇の水飲み場に外来の馬や駱駝が繋がれ、主が戻ってくるのを待っている。
その中に、宰相の馬によく似た黒い馬が繋がれている。
馬好きのジェードは、一目見てその黒馬は宰相の馬ではないことに気がついた。
水くみの途中だが、ジェードは黒馬に近づき首をなでようとしたが、警戒した馬がジェードの手をふり払うように首をまわした。村飼いの馬とはちがい、主人だけにとても忠実な馬なのだろう。
黒い馬は先が白い睫毛を瞬かせると、黒い大きな瞳でジェードを見つめ返した。
「急にさわろうとしてごめんね。あなた、どこから来たの?」
馬から答えが帰ってくるはずもない。しかし、馬は答えるようにブルブルと鼻を鳴らす。ジェードは苦笑した。
「あなたの言葉がわかればいいんだけど」
ジェードは心から残念そうにつぶやいた。動物たちは人間の言葉を理解しているのに、なぜ人間は動物たちの言葉がわからないのだろう。
しかし、その時、他人の心が読める少年のことが頭にうかんだ。
(そうだわ……、ひょっとして、ハリは動物の心もわかるのかしら?)
もし動物たちの心がわかるのなら、なんて楽しいのだろう。昼にでも連れ出して確かめてみたい。ふとしたひらめきに、心が踊りだし休憩時間が待ち遠しくなる。ジェードは、黒馬に別れを告げ、朝の仕事へと戻った。
しかし、昼の休憩時間に、ハリーファの姿は【王の間】には無かった。少々肩を落としながら、ジェードはいつものように一人で厩舎へと向かう。
太陽は春に向けて少しずつ高くなり、痛いほど日差しがふりそそぐ。人気のない庭園の砂地の上には、ゆらゆらと陽炎がたゆたっていた。
門前の石畳の広場の手前で、最近ジェードは必ず一度足を止める。陽炎の中、石畳の上に水面のように光が揺らめいているのだ。それを眺めるのが好きだ。
駱駝を連れた商人たちはすでに帰ってしまったようだった。さっきの黒馬一頭だけが、広場の横手に今も繋がれて主人を待っている。
ジェードは手でひさしを作り、目の前の光景を粛然と眺めた。
水は青空を映してゆらゆらと微かに波打つ。ヴァロニアでは見たことのない美しい情景だ。あの幻水を『サラーブ』というのだとハリーファが教えてくれた。幻想的な景色に熱さを忘れ、時間が止まる。
――綺麗。まるで泉みたい……。
ジェードはサラーブに心を奪われた。今日は、その泉のほとりに黒馬がたたずむのもまた美しい。近づけば逃げてゆく、触れることの出来ない神秘の泉だ。ずっと見ていたいと思っても、しばらく時間が経ち太陽が動くと姿を消してしまう。
しかし、ジェードは幻想の世界からひき戻された。黒衣を纏った人物が、幻の泉の上を横切ったのだ。
その人物は黒い布を頭に巻き、その上から頭布の付いた真黒い上衣を纏っている。まるで聖なるものを蹴散らすかのように、泉の上をずかずかと踏み歩く。ジェードの視界を横切ると、広場の脇に繋がれていた黒馬に寄りそった。
あの黒馬の主人なのだろうか。背丈は宰相よりすこし低そうだ。
(……誰?)
そう思った瞬間、頭巾の下の顔がはっきりと見て取れた。ジェードは思わず息が止まった。
年頃はジェードと同じくらいだろう。とても美しい造作で、瞳は優しく慈愛に満ちている。そして、口はきっちり結ばれて表情は凛としていた。
頭には布を巻いていたが、その肌は黒い。遠目でもジェードにははっきりとわかった。
(――ア、アルフェラツ様!?)
黒馬の主はアルフェラツにとても似ている。ジェードは激しく打つ胸を手で押さえた。聖地で見た姿よりも歳若くは感じる。
アルフェラツに似たその黒人は、すらりとした黒い手を馬に伸ばした。愛しむ様に首をなでる。馬の耳に向かって何か語りかけ、首を抱くと唇を寄せた。その動作がとても優美だった。
ジェードは硬直してしまい、目をそらせないでいた。
馬の主はなでる手を止めた。ジェードの視線に気づいたのか、はっと振りかえる。
その瞬間、ジェードは背を向けて、その場を走り去った。サンダルの底に砂が入ってもかまわず走り続けた。
心臓は激しく鳴り続けている。もしかしたら、天命を果たせと告げに、ジェードの前に現れたのかもしれない。ジェードの心は不安で覆いつくされた。
逃げるように【王の間】に戻ると、意外な人物が来訪していた。
――宰相だ。
ジェードはなぜか安堵した。さっき、アルフェラツに似た人物を見た時の緊張感から解放された。
黒衣の宰相は、憮然とした表情でジェードを見おろした。ハリーファが不在だったため、待っていたのか、出て行こうとしていたのか。ジャファルは入り口の廊下で一人立っていた。
ジェードを見るなり、
「賦国の女奴隷よ。ハリーファは何処へ行った」
と、ジャファルは少しくぐもった低い声で言った。
初めてジャファルに声をかけられ、ジェードの鼓動はまた強くなった。走ってきて切れた息を、まだ整えることができない。
「……わ、わたしはっ、ハリのことを、監視してる訳じゃ、ないわ」
ジェードは、息を必死で整えながら答えた。ファールーク皇国の最高権力者と対峙し、心臓の音も聞こえそうなほどだ。顔もほてってくる。
「賦国には、敬語といった概念がないのだな」
ジャファルはつぶやくように言うと、ふっと小さく笑った。やはりどことなく悲しげではあるが、この人も笑うのだとわかると、ジェードは少しほっとした。