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天国の扉  作者: 藤井 紫
第四章 天使の子 悪魔の子
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33-3

「メンフィスの名士(サドル)?」

 メンフィスの貿易商だったハザールの記憶が甦る。皇国の各都市には名士(サドル)と呼ばれる家系が在り、今でも皇家と繋がりのある家が多い。ハリーファのような第二皇子を養子として受け入れたり、皇女を妻として迎える。そしてファールークの血を引く子どもが女なら、宰相の妻として宮廷に迎えられることもあった。

「殿下は幼い頃、姉皇女(ウフト)のアーラン様とご親密だったはず。そのアーラン様は、メンフィスの名士(サドル)、ラシード殿のもとに嫁がれましたね」

「アーランは、何も関係ない」

 ハリーファは、寄りそうイヤスをふり払った。イヤスは、メンフィスの交易家がハリーファの逃走に手を貸したのだと疑っているのが聞こえてくる。

「そうですか。近頃、ラシード殿のところの奴隷(ラキーク)が、頻繁に第四夫人(アイシャ)様を訪ねてきております。どうやら、余計な憶測をしすぎたようですね。どうか、このことはお忘れに……、いや、以前の第一夫人(シェーラ)様の件もありますので、身辺にはお気をつけください」

 ハリーファは黙ったまま、何も答えなかった。

「殿下。御気分が優れないようなので、私はもう下がらせて戴きます。女奴隷を呼んできましょう」

 イヤスがジェードを呼びに行こうとしたが、ハリーファは呼び止めた。

「イヤス、お前は……シュケムについても詳しいのか?」

「聖地の鎮守府ですか? 勿論です。シュケムの何がお知りになりたいのです?」

 ハリーファは実に歯切れ悪く、なんとか口を開く。

「……最後の王の、……ファールークのことを……」

 国の名ではない、個人の名前としてファールークの名を言うのがためらわれた。ハリーファの言葉尻が小さく消え入るようだった。

「ファールークとは、始祖ユースフの父ファールーク? 『シュケムの英雄』ですか? それならば、私よりも語り部に語らせるほうが良いのでは?」

 ファールークが英雄と呼ばれるに至った経緯は、今も物語として語られているのだろう。

「……いや、物語じゃない。俺は事実が知りたいんだ」

「承知致ししました。ですが、殿下。それはまた次の機会にしましょう。私も殿下の期待に添えるよう、再度皇国の起源を、深く遡って勉強してから参ります」

 イヤスの心の中からは、本当にハリーファの体調を案ずる想いが聞こえる。

 イヤスは応接の入り口まで歩んで、ようやく自分が【王の間】に来た本当の目的を思い出した。

「ああ、そうでした。今回お伝えにきた用件を忘れるところでした」

 イヤスは柔かい表情に戻り、ハリーファに向き直った。

「ハリーファ殿下、成人の儀式はどうなさいますか? 延期にされてから、そのままになっております。その事を、宗教家(イマム)殿が随分気になさっているのですよ」

「……もうあんな茶番はごめんだ」

 ハリーファの答えにイヤスは苦笑する。

「承知致しました。私がイマム殿には上手く伝えておきましょう」

 本来の目的を果たし、イヤスはジェードに声をかけると、【王の間】を去っていった。



 イヤスに呼ばれ、ジェードは応接にやってきた。

 傾いた西日が、朱鷺色の壁をますます茜色に染めている。そんな中、ハリーファは応接のテーブルにつっぷしていた。

「ハリ? どうしたの? 体調が良くないって聞いたけど……」

 歴史家と話をして、一体何があったのだろう。体調が優れないと聞いたが、イヤスが来るまではとても元気だったはずだ。

「お腹がすいたんじゃない? 先に食事を持ってくるわ」

 明るく言ったが、ハリーファはまったく動かない。ジェードが厨房へ行こうとすると、

「……行くな……」

 ハリーファの声はひどくくぐもっていた。ハリーファのそんな声を聞くのは初めてだ。

「ここにいろ……」

 引き止められて、ジェードは困惑した。

(何があったのかしら……)

 自分の考えはハリーファに筒抜けだというのに、ハリーファの考えていることは良くわからない。

 食事を取りに行くのをやめ、先程のイヤスと同じように、ハリーファのそばに腰を(かが)めた。

 つっぷしたままハリーファは話し始める。

「……俺は、罪を犯した……」

「え……?」

 聖地オス・ローで、兵士を殺したことを、懺悔(ざんげ)しているのだろうか?

「わたしは聖職者じゃないから、ハリの罪を(ゆる)すことはできないけど……」

 ジェードはハリーファがモリス信仰者であることを思い出し、言葉を止めた。

 そして、クライス信仰もモリス信仰も、同じ天使信仰であることを思い出し、ジェードは聖地で天使(アルフェラツ)に言われたことを思い出した。

「……天使(アルフェラツ)様でも、赦しは与えられないって、言っていたわ。罪科(つみとが)は償って、自分で赦さなくちゃ……」

 こんなことを、教会勤めの(ホープ)が聞いたら、きっと怒るにちがいない。

「……死んでしまった者に、もう償えない……」

「じゃあ、その人の家族や、子どもに償えばいいのよ」

「……ファティマに……」

(えっ? ハリの本当のママ?)

 井戸端で聞いた話が、ジェードの頭をよぎる。

 ハリーファは自分が母親を死なせたと思っているのだろうか。ならば、その家族や子どもはハリーファ自身だ。

「それは……、ハリのせいじゃないわ」

 そう言うと、ハリーファはようやく顔を上げ、ジェードの方に顔を向けた。

 ハリーファは泣いていなかったが、泣いていたのはジェードの方だった。静かに涙が頬をつたう。

「ハリのママが亡くなったのは、ハリの責任じゃないわ」

 ジェードの瞳からこぼれる涙を見て、ハリーファは申し訳なさそうに答えた。

「……お前は勘違いしている……。お前が思っているようなことじゃない」

「わたしはまだ子どもを生んだことないけど、でも、わかるわ」

「そんなことじゃない!」

 怒鳴るように言われ、ジェードの瞳からはますます涙がこぼれた。

「悪かった……泣くな」

 そう言われても、ジェードは涙を止めることができなかった。

 気がつくと、逆にハリーファがジェードを慰めなければならなくなっていた。隣に屈んで、手のひらでジェードの頬を少々雑にぬぐう。

 一年かかってやっと気がついたが、こんな時ハリーファはひどく不器用なのだ。人の心が読めるのに、気持ちは全くわかっていない。きっと、ハリーファは愛され方も、愛し方も知らないのだ。

 何度も頬をぬぐわれ、ハリーファの不器用なやさしさが伝わってきた。

(わたしがハリを慰めなきゃいけないのに……)

 ジェードは顔を上げ、ハリーファの頭を包むように抱くと、

「ハリのママは、ハリを恨んだりしていないし、ゆるしているわ」

 そう言って、ハリーファの髪にそっとキスをした。

 ――母親が自分にしてくれたように、自分が家族にするように。心をこめてハリーファの金の髪に口づける。

 気づけば、すっかり部屋の中がうす暗い。

 ジェードは思い出したように立ち上がると、持ってきた火種からランプに火を点けた。

 うす暗かった部屋が、ぼんやりと明るくなる。橙の炎の色が、ハリーファの金色の髪に映って、きらきらと輝いた。


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