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「メンフィスの名士?」
メンフィスの貿易商だったハザールの記憶が甦る。皇国の各都市には名士と呼ばれる家系が在り、今でも皇家と繋がりのある家が多い。ハリーファのような第二皇子を養子として受け入れたり、皇女を妻として迎える。そしてファールークの血を引く子どもが女なら、宰相の妻として宮廷に迎えられることもあった。
「殿下は幼い頃、姉皇女のアーラン様とご親密だったはず。そのアーラン様は、メンフィスの名士、ラシード殿のもとに嫁がれましたね」
「アーランは、何も関係ない」
ハリーファは、寄りそうイヤスをふり払った。イヤスは、メンフィスの交易家がハリーファの逃走に手を貸したのだと疑っているのが聞こえてくる。
「そうですか。近頃、ラシード殿のところの奴隷が、頻繁に第四夫人様を訪ねてきております。どうやら、余計な憶測をしすぎたようですね。どうか、このことはお忘れに……、いや、以前の第一夫人様の件もありますので、身辺にはお気をつけください」
ハリーファは黙ったまま、何も答えなかった。
「殿下。御気分が優れないようなので、私はもう下がらせて戴きます。女奴隷を呼んできましょう」
イヤスがジェードを呼びに行こうとしたが、ハリーファは呼び止めた。
「イヤス、お前は……シュケムについても詳しいのか?」
「聖地の鎮守府ですか? 勿論です。シュケムの何がお知りになりたいのです?」
ハリーファは実に歯切れ悪く、なんとか口を開く。
「……最後の王の、……ファールークのことを……」
国の名ではない、個人の名前としてファールークの名を言うのがためらわれた。ハリーファの言葉尻が小さく消え入るようだった。
「ファールークとは、始祖ユースフの父ファールーク? 『シュケムの英雄』ですか? それならば、私よりも語り部に語らせるほうが良いのでは?」
ファールークが英雄と呼ばれるに至った経緯は、今も物語として語られているのだろう。
「……いや、物語じゃない。俺は事実が知りたいんだ」
「承知致ししました。ですが、殿下。それはまた次の機会にしましょう。私も殿下の期待に添えるよう、再度皇国の起源を、深く遡って勉強してから参ります」
イヤスの心の中からは、本当にハリーファの体調を案ずる想いが聞こえる。
イヤスは応接の入り口まで歩んで、ようやく自分が【王の間】に来た本当の目的を思い出した。
「ああ、そうでした。今回お伝えにきた用件を忘れるところでした」
イヤスは柔かい表情に戻り、ハリーファに向き直った。
「ハリーファ殿下、成人の儀式はどうなさいますか? 延期にされてから、そのままになっております。その事を、宗教家殿が随分気になさっているのですよ」
「……もうあんな茶番はごめんだ」
ハリーファの答えにイヤスは苦笑する。
「承知致しました。私がイマム殿には上手く伝えておきましょう」
本来の目的を果たし、イヤスはジェードに声をかけると、【王の間】を去っていった。
イヤスに呼ばれ、ジェードは応接にやってきた。
傾いた西日が、朱鷺色の壁をますます茜色に染めている。そんな中、ハリーファは応接のテーブルにつっぷしていた。
「ハリ? どうしたの? 体調が良くないって聞いたけど……」
歴史家と話をして、一体何があったのだろう。体調が優れないと聞いたが、イヤスが来るまではとても元気だったはずだ。
「お腹がすいたんじゃない? 先に食事を持ってくるわ」
明るく言ったが、ハリーファはまったく動かない。ジェードが厨房へ行こうとすると、
「……行くな……」
ハリーファの声はひどくくぐもっていた。ハリーファのそんな声を聞くのは初めてだ。
「ここにいろ……」
引き止められて、ジェードは困惑した。
(何があったのかしら……)
自分の考えはハリーファに筒抜けだというのに、ハリーファの考えていることは良くわからない。
食事を取りに行くのをやめ、先程のイヤスと同じように、ハリーファのそばに腰を屈めた。
つっぷしたままハリーファは話し始める。
「……俺は、罪を犯した……」
「え……?」
聖地オス・ローで、兵士を殺したことを、懺悔しているのだろうか?
「わたしは聖職者じゃないから、ハリの罪を赦すことはできないけど……」
ジェードはハリーファがモリス信仰者であることを思い出し、言葉を止めた。
そして、クライス信仰もモリス信仰も、同じ天使信仰であることを思い出し、ジェードは聖地で天使に言われたことを思い出した。
「……天使様でも、赦しは与えられないって、言っていたわ。罪科は償って、自分で赦さなくちゃ……」
こんなことを、教会勤めの弟が聞いたら、きっと怒るにちがいない。
「……死んでしまった者に、もう償えない……」
「じゃあ、その人の家族や、子どもに償えばいいのよ」
「……ファティマに……」
(えっ? ハリの本当のママ?)
井戸端で聞いた話が、ジェードの頭をよぎる。
ハリーファは自分が母親を死なせたと思っているのだろうか。ならば、その家族や子どもはハリーファ自身だ。
「それは……、ハリのせいじゃないわ」
そう言うと、ハリーファはようやく顔を上げ、ジェードの方に顔を向けた。
ハリーファは泣いていなかったが、泣いていたのはジェードの方だった。静かに涙が頬をつたう。
「ハリのママが亡くなったのは、ハリの責任じゃないわ」
ジェードの瞳からこぼれる涙を見て、ハリーファは申し訳なさそうに答えた。
「……お前は勘違いしている……。お前が思っているようなことじゃない」
「わたしはまだ子どもを生んだことないけど、でも、わかるわ」
「そんなことじゃない!」
怒鳴るように言われ、ジェードの瞳からはますます涙がこぼれた。
「悪かった……泣くな」
そう言われても、ジェードは涙を止めることができなかった。
気がつくと、逆にハリーファがジェードを慰めなければならなくなっていた。隣に屈んで、手のひらでジェードの頬を少々雑にぬぐう。
一年かかってやっと気がついたが、こんな時ハリーファはひどく不器用なのだ。人の心が読めるのに、気持ちは全くわかっていない。きっと、ハリーファは愛され方も、愛し方も知らないのだ。
何度も頬をぬぐわれ、ハリーファの不器用なやさしさが伝わってきた。
(わたしがハリを慰めなきゃいけないのに……)
ジェードは顔を上げ、ハリーファの頭を包むように抱くと、
「ハリのママは、ハリを恨んだりしていないし、ゆるしているわ」
そう言って、ハリーファの髪にそっとキスをした。
――母親が自分にしてくれたように、自分が家族にするように。心をこめてハリーファの金の髪に口づける。
気づけば、すっかり部屋の中がうす暗い。
ジェードは思い出したように立ち上がると、持ってきた火種からランプに火を点けた。
うす暗かった部屋が、ぼんやりと明るくなる。橙の炎の色が、ハリーファの金色の髪に映って、きらきらと輝いた。