33-2
立ったまま話を続けるイヤスに、ハリーファは組んでいた腕をほどいて顔を向けた。イヤスは懐かしむようにゆっくりとうなずいた。
「十二年前の十月に、殿下はこの皇宮内でお生まれになりました」
(ハリーファ殿下の生まれた日。あの日、ルクンが命を落としたのだ。忘れられるわけがない。あのような神秘的な現象を……)
――ルクン?
初めて聞く名を思わず口にしそうになり、ハリーファはきゅっと口を閉ざした。
「そのようなことをお聞きなさるとは、殿下は、もしや御自身の身の上を御存知なのですか?」
「俺が【王】だということか?」
ハリーファの答えを聞いて、イヤスが気の毒そうにハリーファを見つめた。今までこの建物に閉じ込められた、【王】の処遇と末路を知っているようだ。
「殿下、私はこの皇宮に来て三人の【王】を見ました。そのうちの一人が、ハリーファ殿下、貴方です。殿下が生まれた時、宰相殿もひどく懊悩されたのです。我が子が【王】の証を持って生まれてくるとは、露も思っていなかったでしょうから」
「【王】の証?」
「【王】の証というのは、殿下の右頬にある古い傷痕のような痣のことです」
ハリーファは、そっと自分の右頬に触れた。触れた指先に微かに違和を感じた。頬の皮膚が若干引きつれている。だが、これは聖地で、ジェードから短剣を奪おうとして揉み合いになった時の刀傷だ。他に頬の古い傷痕というと、アーディンに頬を斬られたあの時のことが思い浮かんだ。
「私は自分の目で、殿下と同じ聖痕を持つ男を他に二人見ました。二人ともに、右頬に殿下と同じ聖痕を持っていました」
ハリーファは、思わず手をぐっと握り締めた。イヤスが語る以上の【王】の記憶がハリーファにはある。にわかに、右足首に嫌な違和感を覚えた。右足が重くて動かない。
「【王】がここに監禁される理由は何だ?」
【王】はファールークの人柱――。【王の間】に監禁されるようになったのはアーディンが死んでからだ。アーディンがあの【悪魔】ラースと何かの契約したのだろうと考えた。
「その理由までは存じ上げておりません。私もまだ師から全てを受け継いだわけではないのです。ですが、おそらく、その理由は、宰相だけが引継ぐものなのではないかと」
「そうか……」
「殿下。歴史家は一歩引いて、皇家を見守ることしかしません。しかし、このように【王】がファールークの皇族の中に生まれたことは、私は奇跡だと思っております。こうして【王】と直接話が出来るとは思いもしませんでした。正直に申し上げると、私の方が殿下に色々お聞きしたいぐらいです」
勿論、個人的な興味からです、とイヤスは付け加えた。
しかし、ハリーファは再び黙ってしまい、二人の間をしばし沈黙の時間が流れた。
自分が皇家の血筋であろうとなかろうとどうでも良かったが、ハリーファはファティマのことが気になった。
幼いファティマは、ハザールのことを父親だと言った。それが真実なら過去の自分は、今の自分の祖父だということになる。以前調べていた資料に、女の系譜はあまり書かれていなかったのだ。
「ファティマの母親は、レイリと言う名なのか? ファティマを生んで死んだというのは事実か?」
「はい。ファティマ様の母は、宰相殿の異母姉のレイリ様というお方です。皮肉なことに、レイリ様もファティマ様も、御二人とも御子を生んですぐにお亡くなりになられたのです」
「では、……ファティマの父は誰だ? 俺の祖父にあたる男は?」
ハリーファは少しためらいがちに聞いた。
イヤスは渋い顔をして、小さくため息をつく。
(これは言って然るべきなのか……)
答えるべきか考えている様子のイヤスの心から、悩む声が聞こえてくる。
(レイリ様は御懐妊を隠し通して、たった一人でファティマ様を産んでお亡くなりになられたと聞く。あの事件では、宰相殿も酷く心を痛められたと聞いているが……)
イヤスは、しばし閉口したまま思い悩んでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……噂では、ファティマ様の父親は、狂人だと、言われております」
「狂人……」
ハリーファの脳裏に、幼いファティマの口から出た言葉がよみがえった。
――ジャファル様はあなたのことを狂人と呼んでいるのだけど。
今まで夢だと思っていた曖昧な記憶が、ハリーファの中で鮮明さをとり戻した。
ファティマの言っていたことは真実で、ファティマは過去の自分の子だ。そして、ハリーファの母親でもある。真実が繋がって、急に目の前が暗くなった。
「ハリーファ殿下? 大丈夫ですか?」
ハリーファの顔色に気づき、イヤスがそばに来てハリーファの肩を支えた。
「ご気分が優れないのでは?」
「……だ、大丈夫だ……」
イヤスは腰を落とし、片膝を床に着いてハリーファに語りかけた。
「狂人も、殿下と同じ【王】でした。ですが、本当にファティマ様の父なのかどうか、真実は誰も知りません。真実を知っているのはレイリ様のみです」
イヤスの言葉も、ハリーファの耳を虚しく通り過ぎた。知っているのはレイリだけではない。狂人と呼ばれた、ハザールも知っている。
その時、バタンと【王の間】の扉の開く音が応接に聞こえた。イヤスは入り口の方をふり返り、ハリーファも廊下の方に青ざめた顔を向けた。
ぱたぱたと、サンダルが床をはじく軽い音をたてる。白い布の山を抱え、黒髪を揺らしながら女奴隷が廊下を横切った。
ジェードの足音が聞こえなくなると、イヤスはハリーファの方に向き直った。
「ハリーファ殿下。私から一つお聞きしても宜しいでしょうか」
答える代わりに、ハリーファはイヤスに視線を向けた。
「一年前、殿下が宮廷から失踪されたのは、誰の手引きがあったのですか? 殿下ももう、分別つかない御歳でもない。犯人は第一夫人様ですか? それともヴァロニアが関与していたのですか?」
「あ、あれは……、俺が自分で抜け出しただけだ」
「殿下が御自分で? あの粉砂漠を、お一人で、ですか?」
穏やかだったイヤスの表情には、嫌疑の色が浮かんでいる。何も教えられていないハリーファが一人でオス・ローに行けたとは信じられないようだ。
「フロリスとの国境が封鎖されてから、二百年余り経ちますが、メンフィスの交易家だけは秘密裏にフロリスと繋がっていると噂があります。メンフィスは元々交易で栄えた街。フロリスとの繋がりがあってもおかしくない。殿下の誘拐にヴァロニアか、メンフィスの名士が関わっているのではないかと、私は思っているのですが……」