33.歴史と真実
ジェードがファールーク皇国に来てから、雨が降ったことは一度もない。空に雲が出ていることもまれだ。そのおかげで、毎朝洗濯女に洗われた衣や布は、乾燥した空気にさらされ、真昼のうちにすっかり乾いてしまう。
昼の掃除を終えたジェードは、井戸端へ向かおうと外に出たところで、一人の男性に出くわした。この朱鷺色の離れに、ジェードとハリーファ以外の人が来ることはほとんどない。
その男は、ハリーファの成人の式典の時に見た若い歴史家だった。若いといっても青年とも中年ともつかない。おそらく宰相とは近い年齢だろう。宰相と同じような黒い長衣を身に着けているが、対照的にどこか物腰の柔らかい男だ。
歴史家は、偶然中から出てきたジェードに対して、ゆるやかに会釈する。
「ヴァロニアの女奴隷よ。ハリーファ皇子はご在室か?」
その姿を見て、ジェードの顔が明るくなった。先日、本宮を半ば迷いながら、この男性を探し回ったのだ。
「ええ! 中に居るから伝えてくるわ」
男はジェードの頼みを聞いて、ここに来てくれたのだ。ハリーファが会いたいと言っている、宰相には秘密で来てほしい、と。約束通り来てくれたことは喜ばしかったが、宰相にばれるのではないかと少し心配になる。
「……宰相に黙って来てくれたの?」
「いいえ。今日私は、あるお方からハリーファ殿下にと、伝言を預かってきたのだよ。だから、ここに来ることはジャファル様もご承知の上だ」
そう聞いてジェードは安心した。秘密裏の行動がばれて、歴史家がとがめられることはなさそうだ。
歴史家はかすかに口角を上げると、ジェードが開けた入口の扉をくぐる。
男は物々しい表情で【王の間】へと入った。
歴史家が応接の入り口に来ると、金の髪の部屋の主はすでに男を見据えていた。
(【王の間】とは……。皮肉だな……)
男は軽く息をつき、室内を見回した後、椅子に座るこの部屋の主に目を向けた。
「歴史家か。よく来てくれたな」
ハリーファは男に入室を促した。
「イヤスと申します、ハリーファ殿下」
イヤスは腰を曲げて深々と頭を下げた。
イヤスは宰相の秘書官として仕官している。ハリーファとシナーンの式典の時や、それ以前にも時々イヤスの姿を見たことがある。
「このように直接お話しするのは初めてでしょうか。殿下がわざわざ、私を呼び出して聞きたいこととは、何でしょう?」
ハリーファは椅子から立ち上がると、部屋に少し入ったところで立ち止まったままのイヤスに近づいた。
「【エブラの民】について、歴史家のお前が知っていることを教えてくれ」
ハリーファの質問は、イヤスの意表をついたようだった。
(一体何をお聞きになりたいのかと思えば……)
「殿下は、【エブラの民】にご興味がおありなのですか?」
だから聖地に行かれたのだろうか、とイヤスの心が伝わってくる。
「シナーンが【エブラの民】は二百年前に滅んだと言っていたが、それは本当なのか?」
「そうですね。神の末裔は滅んだと言われております。近年では、【エブラの民】は元より存在しなかった、架空の存在だとも言われ始めております」
シナーンと同じことを言われ、ハリーファの眉間に皺が寄った。【エブラの民】は架空の存在などではない。
その様子を見て、イヤスは続けた。
「しかし、【エブラの民】は実在の存在です。一族の存在は、シュケムの歴史書によって証明されています。今から二百十五年前のシーランドとの戦争で、オス・ローは崩壊しましたが、【エブラの民】の住む城砦だけは崩壊を免れました。
ですが、その時、既にドームの中には【エブラの民】は居なかったようなのです。彼らの姿は、もっと以前から見られなくなったと、記録されております。ただそれがいつからなのかは、はっきり分かっておりません。戦火を逃れ、違う場所へ移り住んだと言う説もあります」
まるで教本のような答えに、ハリーファは肩を落とした。イヤスの答えは、ハリーファの知る事実とほぼ一致している。
黙ったままのハリーファに、イヤスは続けた。
「民間伝承では、【エブラの民】が人々の病を治したと言うように伝えられますが、それは物語の話だと言うことはご存知ですか? 本当はオス・ローの医師や薬師が人々の病を治していたのです。
近隣のシュケム王国には、独自の薬の抽出技術があり、オス・ローの医師が活躍できたのも、全てシュケムの技術の恩恵があってのものです。しかしながら、シュケムの崩壊と共に、その製薬技術は失われました」
イヤスの説明に間違いはなかった。ハリーファは気を落として、椅子に腰かけた。
「失礼致ししました、殿下が知りたいのは【エブラの民】についてでしたね。
【エブラの民】が聖地に壁を立てたのは六百年頃。今からおよそ八百年前になります。彼らは天使の血を引く末裔だと言われており、その姿は、」
「もういい……」
ハリーファは、イヤスの言葉をさえぎった。落胆した気持ちがため息となってもれる。
視線を落とし、自分の手のひらを見ながら、ハリーファはつぶやいた。
「それより……、俺は、本当に皇家の血を引いているのか?」
白い肌と、視界の端に揺れる金色の髪が、ファールークの皇族とは異なる容姿であることは幼い頃から自覚していた。シナーンがハリーファの出生を疑うのも無理もないのだ。
「こんな、白い肌で……」
「ハリーファ殿下……。殿下のそのご容姿では、御身の血筋を不安に思われるのでしょう。ですが殿下は、ファールークの血を引く、紛れもない第二皇子です。殿下の母上、ファティマ様も、殿下と同じように金色の髪に白い肌でした」
歴史家の言うように、過去の記憶の中の幼いファティマは、顔立ちこそファールークの血筋であったが、白い肌で髪は亜麻色だった。そして、姿見のとおり、瞳は『ホールの色硝子のような翠色』だった。
ただ、モリス信仰の慣習により、ハリーファは今まで一度も鏡を見たことがない。
「私は十の時分から、この宮廷に身を寄せておりますので、ファティマ様が四歳の頃から存じております。それに、殿下がお生まれになった日の事も、はっきり覚えております」
「俺が、生まれた時?」