32-3
宮廷内を自由に散策するジェードは、時々宰相とリューシャの姿を見かけることがある。リューシャをそばに連れていても、宰相の表情はいつも憮然として厳しそうなのだ。さらに、二人が仲睦まじい姿など見たこともない。
「宰相は本当にリューシャさんを愛してるの?」
ジェードは井戸の綱を引き上げながら、ジャファルの憂いた漆黒の瞳を思いうかべた。
以前、色々あったおかげで、リューシャからの宰相への想いは知っている。
「それに、宰相には正式な奥さんが何人も居るんでしょ?」
「四人ね」
二人はもう亡くなっており、昨年、第一夫人は実子のシナーンによって遠方の街に追放された。
「ここでは四人も奥さんがいることが普通なの? ルカのパパもそうなの?」
「まさか! 奥様が何人もいるのは、正統な後継ぎが必要な皇族とかお金持ちの名士だけよ。奥様方をちゃんと平等に愛さなきゃならないんだから」
「全員平等に愛するの!?」
引きあげた水桶の綱が、思わずジェードの手から離れそうになった。複数の女を平等に愛する男など、女としてとてもじゃないが許しがたい。ジェードは受け入れがたい文化の違いにあ然とした。ヴァロニアの王族でも妻はたった一人だけだ。
「そんな神様みたいなこと、信じられないわ」
ジェードは、落としかけた水桶の取っ手をつかむと、また足元の桶にひっくり返す。
「でも、宰相は奥様方の誰も愛していないんじゃない? だって、ハリもシナーンも、本当の家族のはずなのに、まるで他人みたいだもの」
「だから、宰相様が本当に愛してるのはリューシャ様だけなんじゃないのかな」
「でも、リューシャさんとは、宰相の決まり事か何かで結婚もできないし、子どもも生めないんでしょ?」
「宰相の奥様はファールークの血を引いていないと駄目なの。だから、結婚しなくても、子どもを生まなくても、そばにいられればいいって思うくらい、二人は愛してあっているのよ」
ルカは少し小声になって答えた。しかし、ジェードにはジャファルが本当にリューシャを愛しているようには見えなかった。
「愛し合っているのに認めてもらえないなんて、わたしだったら耐えられないわ。宰相はこの国で一番えらいんでしょう? だったら、決まりなんて変えてしまえばいいのに」
おしゃべりに夢中で手の止まっている年頃の少女たちに、年配の女奴隷が話に入ってきた。
「ルカ、あんたは何でも女奴隷贔屓に物事を考えすぎだよ。ジェードの言うとおり、リューシャ様だって、宰相様から本当に愛されてるかなんてわかんないよ。実を言うと、宰相様は、リューシャ様にファティマ様の面影を見ているだけかもしれないんだ。ファティマ様とリューシャ様は年も近いからね」
そう言われて、ルカは「夢ぐらいみたっていいじゃない」と、少しふてくされながら桶の水を洗濯桶に注ぎに行った。
「ファティマ様って誰?」
ジェードは初めて聞く名前について、物知りの年配女性に問いかけた。
「ファティマ様は、奴隷皇子様の母上様だよ」
「ハリの? ママ?」
以前ハリーファは、母親はハリーファを産んですぐに死んだので、顔も知らないと言っていた。
空になった木桶を持ってルカが話に戻ってきた。
「そうそう! 宰相様は、ファティマ様のことをとっても愛してたって聞いたこともあるわ。妹みたいに可愛がっていたんだって」
そんな話ばっかりどこで聞いてくるんだろうねーと、外野から声が聞こえる。
「宰相はハリのママのことを愛していたなら、どうしてハリのことを愛せないのかしら?」
「それは、奴隷皇子様を産んだことで、ファティマ様が亡くなったからじゃない?」
ルカが答える。
「そんな……」
母親の産褥死はハリーファのせいではないのに……と、ジェードはハリーファが気の毒になった。
年配の女奴隷は、若い娘たちの話に、軽くため息をついた。
「ルカも知らないだろうけど、本当はね、宰相様が本当に愛してらしたのは、異母姉のレイリ様なんだよ。レイリ様と宰相様は歳もずいぶん離れていたから、宰相様はレイリ様のことを母親のように慕っていたんだよ」
姉――。そう聞いて、ジェードはルースのことを思い出した。
ジェードも姉のルースが大好きだった。忙しく働く母親より、一緒に過ごした時間が長かった。ジャファルの姉に対する想いを、ジェードは少し理解できそうな気がする。
「奴隷皇子様の母のファティマ様はね、そのレイリ様の娘なんだ。でも、不幸は続くんだよね。実は、ファティマ様が奴隷皇子様を産んでお亡くなりになったように、レイリ様もファティマ様を産んだ時にお亡くなりになったんだよ」
「じゃあ、宰相様は、レイリ様を死なせた、ファティマ様のことも憎んでいたのかしら?」
ルカは女奴隷に屈託なく問いかけた。
「いいや。ファティマ様は、レイリ様に生き写しの様にそっくりだったからね。宰相様はファティマ様が小さい頃から、娘……じゃないね、妹のように可愛がってらしたよ。まぁ、ファールークの黒髪・小麦肌のレイリ様と違って、ファティマ様は金色の髪に白い肌だったんだけどね」
「だから、ハリはママに似て白い肌に金の髪なのね」
「もし、奴隷皇子様が皇女様で、レイリ様やファティマ様に似ていたら、宰相様は奴隷皇子様を、とっても可愛がったのかな?」
「うーん、それはどうだろうね。アーラン様のこともあるし……。だいたい、男と女は魂からして性別が違うんだ。男の考えてることなんて、女には理解も納得もできないもんだよ。特にファールーク皇家の男たちは呪われた一族って言うしね」
ジェードとルカは、年功者の話に何と答えていいのかわからず、お互い顔を見合わせて肩をすくめた。
井戸からの帰り、乾いた空気の中を城門広場の方から、馬のいななきが響いてくる。
広場には、厩舎守たちが馬装した馬を三頭連れ出していた。その中の一頭は、ひときわ黒い艶の毛並みだった。遠目に見ても、その美しい毛並みや、立派な体格は他の二頭よりも際立っている。
それが宰相の馬であることを、ジェードは厩舎守から聞いて知っていた。
日ごろからジェードは、厩舎守に宰相の馬にだけは触れることを禁じられているのだ。
(今日は、宰相がどこかへ出かけるのかしら?)
その時、建物の方から、ジャファルが二人の供を連れて出てきた。
ジャファルの姿を見つけ、ジェードは歩みを止めて彼を見つめる。なぜか理由はわからないが、ジャファルを見ると胸が苦しくなるのだ。
ジャファルは、暑気の中でもいつもと同じように黒い服に身を包んでいた。憮然とした表情で、振り向きもせず従者に何かを話している。
ジャファルはジェードの視線に気がついたようだった。悠然と歩みながら、憂いた漆黒の視線をジェードに向ける。
その瞬間、ジェードの胸の拍動は強くなった。
ジャファルの瞳に惹きつけられて、ジェードはジャファルから目をそらすことができない。ジャファルの漆黒の瞳に浮かぶ憂いの色に、胸の奥から何かこみ上げてくるような不思議な感覚にとらわれる。
ジャファルがジェードの正面を通り過ぎると、二人の視線は自然と外れた。
ジャファルは厩舎守から手綱を受け取ると、そのまま馬にまたがる。ジェードは、城門の方へと馬を駆る姿が見えなくなるまで見守った。
そして、ジャファルが城門から出て行ったのを確認すると、ジェードはハリーファから頼まれたことを思い出し、急いで本宮の歴史家の元へと向かった。