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1426年2月6日、ファールーク皇国 皇都サンドラ――。
サンドラの西に流れる大河の氾濫はすっかり落ち着き、ファールーク皇国にも、名ばかりの冬が来ていた。
二月は、ヴァロニア王国では最も寒さ厳しい真冬にあたるが、ファールーク皇国では井戸の水位が上がるくらいで、毎日真夏のような暑さが続いている。
ジェードが皇宮に来てから一年が過ぎ、男のように短かった曲毛も、ずいぶん伸びて時間の経過を感じさせる。
「……わたし、ハリの『家族』になるわ」
ジェードが、そうハリーファに宣言したのは、一月前の話だ。
その『家族』宣言の後から、ハリーファは時間の合間を見て、ジェードに色々なことを教えてくれるようになった。
昨日は、ジェードの念願が叶って、市井について教わったところだ。
「だが、お前を一人で外に行かすわけにはいかない。外に出入りできる家奴隷が居ないか、自分で探してこい」
そうハリーファに言われて、ジェードは思わず小躍りしてしまった。
しかし、はたと気がついて肩を落とす。自分は外に行けたとしても、きっとハリーファは一緒には行けないのだ。
今朝もジェードは、いつものようにルカとおしゃべりしながら、水をくみ上げるのを手伝った。ここの洗濯女たちとはすっかり仲良しだ。
季節の変化も、井戸水をくみ上げる綱の長さで感じることができる。
「ジェードも、髪がずいぶんのびたね」
ジェードが髪をかき上げる仕草を見て、ルカは言った。そう言う彼女は、今日は頭に紅い布をくるりと巻いて、髪を隠している。ジェードは物珍しそうに頭布を眺めた。
「ルカは、今日は髪を巻いてるのね。いつもより大人っぽく見えるわ」
ジェードの褒め言葉に、ルカは愚痴るようにつぶやいた。
「十三にもなって、髪を下ろしてるのは良くないって、母に言われちゃったのよ」
十三と聞いて、胸がドキリとする。クライス信仰者にとって、十三歳は忌年だ。ヴァロニアでは、言うのも聞くのも嫌らわれる忌数であるが、ルカはそんなことを知るはずもない。それはクライス信仰者だけの問題であって、モリス信仰者には全く関係ないのだ。
そんな感覚の違いが、ジェードにはとても不思議に思えた。ヴァロニアで、クライスの教えしか知らずに育ったジェードは、今までそんなことを考えたこともなかったのだ。
ジェードが髪を隠していないことを言及されないのも、ここのみんなが、ジェードはクライス信仰であることを知っているからなのだろう。改宗を強要されることもなく、同じ天使信仰として認めてもらえている。
「ワタシだって、ジェードみたいに髪をおろしたいのに」
「そういえば、ルカのママもここに居るの?」
言いながら、足元に置かれた桶に井戸水を注ぐ。石畳の上に飛びちった飛沫は、地面に吸いこまれるように消えてゆく。
「うん、そうよ。ワタシの父も母も宮廷の家奴隷よ」
「ふぅん」
ルカの言葉に、ジェードは自分の両親のことを思い出した。
父と母とホープは元気でいるだろうか? 村に戻ってこない自分を、もう死んでしまったと思っているかもしれない。
井戸に腰かけ、ルカが水を運ぶ姿を見つめた。ルカの姿が少しぼやけて見える。
(《《わたしはここで元気にしてるわ》》)
寂しさをごまかすために、波打つ髪先をつまんで、くるくると指先にからめた。
そして、はっと思い出す。
「ねぇ、ルカのパパとママは、皇宮の外に出かけたりしないの?」
「アブは毎年年末には荷運びに行ってるわ。このスカーフ、その時に市場で《《わざわざ》》買ってきてくれたんですって」
ルカの父に頼めば……と思ったが、今はまだ二月だ。年末までまだ十か月もある。
「だけど、ジェードは、奴隷皇子様にしっかり見せつけなきゃね!」
「何を見せつけるの?」
ジェードには、ルカの言いたいことがわからない。
「髪よ、髪! 長い髪は、女の象徴なんだから」
そう言って、ルカは空の桶をジェードの足元に置いた。洗濯桶をかこんで洗濯する大人たちには聞こえないように声を落とし、ジェードの耳元でささやく。
「髪を濡らして奴隷皇子様を誘惑するの。男は女の濡れ髪を見て欲情するのよ。女が髪を濡らすのは、男を誘う合図よ」
ルカは、長い睫毛を可愛らしく瞬かせ、悪戯っぽく笑う。
「ハ、ハリとはそんなんじゃないわ!」
「そう? ジェードってば、最近あんまりお昼に来てくれないんだもん」
友人の言葉に、ジェードは動揺をごまかすように、少しとぼけた。
「それに髪が濡れたままなんて、風邪ひいちゃいそう」
「風邪なんかひかないわ。乾いた髪はちぢんじゃって子どもっぽいじゃない」
それは確かに、ルカの言う通りだ。ジェードの曲毛は乾くと縮んでしまい、伸びてきたおかげで朝などはひどく乱れて、手櫛ではおさまらない日もある。
「男はだいたい、まっすぐで長い髪が好きなのよ。ほら、リューシャ様だって、あのキレイなまっすぐな髪のおかげで宰相様付きになれたんだから」
ルカの言葉に、ジェードは湯浴み上がりのリューシャの濡れた髪を思い出した。しっとりと濡れた清艶な金色の髪は、ジェードも見惚れてしまったほどだ。男でなくとも、あの美しいまっすぐな髪には憧れてしまう。
「そうね、リューシャさんの髪はとても綺麗ね」
「そうよ。あの怖ーい宰相様が夢中になるくらいだもん。それに、男はみんな母親贔屓だって言うから、奴隷皇子様もリューシャ様みたいな髪が好きにちがいないわ」
ルカの言葉に、ジェードは眉根をよせた。ハリーファのことよりも、リューシャの主人である宰相の事が頭にうかぶ。
「ねぇ、ルカ。わたし、宰相がリューシャさんに厳しい顔をしているのしか見たことないの。好きならもっと優しい顔をすればいいのに。どうしていつもあんなに悲しそうな目なの?」
「悲しそう?」
ルカは不思議そうに首をかしげた。