32.幻覚の少女
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オトコの頭の中はいつも朦朧としていた。
身体はやせ細って骨がうき、鉄の枷がつけられた右足は、皮膚がめくれ骨が露出している。歩くときは、鉄鎖の音と右足を引きずった。
時々、ろれつの回らぬ舌でブツブツつぶやく以外に、言葉を発することもない。
食欲を感じることも少なくなり、生きているのかわからなくなった。日に一度だけ、奴隷の女が運んでくる食べ物に手をつけるのも、三日に一度ほどであった。
オトコは空腹のときだけ、身体の感覚が自分のものとなる。その時、いつも激しいのどの渇きに襲われた。右足に付けられた、太い金属の足枷が嫌なほど重い。それらの苦痛が、オトコにまだ生きていることを実感させてくれた。
重い右足をじゃらじゃらと音を立てて引きずり、血染め色の部屋から逃れようと試みる。だが、いつも、足枷に付けられた鎖の長さの限界で引き止められるのだった。
血染め色の部屋に閉じこめられ、気が狂うほどに時が過ぎた。もう自分の歳もわからない。
ある時、面格子のついた窓の外の、さらに外の鉄柵の向こうに少女の姿が見えた。
柔かい亜麻色の髪に翠色の瞳をした、白人の少女だ。歳は七、八歳くらいだろうか? 建物の中の様子をうかがっているようだ。
よく見ると不思議な顔立ちの少女だった。混血児なのだろうか、西大陸人の顔立ちなのに、外見は東大陸人の様に金髪に白い肌だ。まだ幼い少女の瞳は憂いて、どこか【自分】に似ている。茜色の夕日をうけて、幼い少女の髪は一段と明るく輝いた。
――また、幻覚か……。
そう思った矢先、少女と目が合った。驚きが全身をかけめぐり、右足の足枷と鎖がじゃらりと鳴る。鉄鎖の重みに痩せた身体がよろめき、とっさに手が出ず、壁で頭をぶつけた。
空腹で腹が刺すように痛むが、代わりに意識はハッキリとしている。ぶつけた頭も痛む。少女の姿が幻覚でないことに、オトコは気がついた。
オトコは、木製の格子窓を内側に開いた。目の前には、更に鋳物の面格子が、外界との接触をさえぎる。しかし、鈴を転がすような少女の声は、何にもさえぎられずオトコの耳に届いた。
「あなたが、あたくしの父なのでしょうか? この宮廷に、あたくしと同じ色の肌と髪と目をした者は、あなたしかいないわ」
そう言いながら、少女は肩よりも少し長い自分の髪をつかんで、その髪色を確認した。少女と同じ金色だった。
突然話しかけてきた少女の言葉に、オトコはこの建物が宮廷内にあるのだと悟った。
「……おまえ など……しら……。おれ は……お えのちちおやでは……ない……」
久しぶりに発した声はずいぶんと老けていた。そして、舌がもつれて、うまくしゃべれない。一体ここに閉じこめられて何年経ったのだろうか。
しかし、にわかに頭の靄が晴れた感じがする。忘れている記憶を取り戻せそうだ。このままもう少し話したい。オトコにそんな欲求が生まれた。
オトコは少女に問いかけた。
「おまえの 母おやは……なんとゆう……名まえだ?」
オトコのかすれた声が聞き取りづらかったのか、少女は少し遅れて答えた。
「母上様の名はレイリともうします」
聞いた事のない名前だった。
「……お前の母おやは……美しい人 なのだろうな……」
一言話すごとに、オトコは生きていることを実感した。
鉄柵の向こうに見える少女は、大人びた雰囲気を持ち、瞳にはどこか寂しげな色が浮かんでいる。見覚えのある色だ。
「母上様は、あたくしを生んですぐにお亡くなりになられました。だから、あたくしは母上様のお顔を知りません」
「お前を……見れば わかる。きっと、美しい人、だっただろう」
「あたくしの目の色はどんな色ですか?」
「姿見……か?」
「はい」
鏡のないファールーク皇国では、他人の瞳に自分を映すことを『姿見』と言った。女というのはいつでも『姿見』を好むものだ。美しい詞で、花を持たせてやると、女達は喜ぶのだ。
こんな少女でも姿見を好むのかと微笑ましく思う。そのおかげで、オトコはすっかり何も感じなくなっていた心までも、動き出すのを感じた。
(俺は、姿見は不得手なんだが……)
オトコは目を細めて、二十パースほど離れた場所にいる少女の瞳を見つめた。幸いにも、目は悪くなっていない。少女の瞳は、薄い翠色で、まるで影がおちるように、少し灰色がかっていた。
美しい花の色や、自然の情景に譬えてやりたいが、オトコは何十年もこの血染めの壁しか見ていない。悲しげな色を浮かべる美しい少女の瞳に、気の利いた姿見をしてやりたかったが、鈍った思考では、ふさわしい言様が思い浮かばなかった。
「……『ホールの色硝子のような翠色』だ……」
無粋だと思いつつ答えた姿見だったが、少女の頬が少し紅く染まった。それまで姿勢良く立っていた少女は、食いつくように鉄柵をつかんだ。
「ホールの色硝子! 本宮の丸天井のことでしょうか? それなら、あなたの瞳と、あたくしの瞳はまったく同じ色だわ!」
少女は子どもらしくはにかんだ。少女はオトコと瞳の色が同じだったことに興奮している様子だった。髪の色も、確かに同じ亜麻色だ。
この少女は、本当に自分の子だと言うのだろうか? 自分の年齢さえもわからず、昔の記憶は全て曖昧だ。
「……お前の名は、何と言う?」
オトコが問うと、少女が答えるより先に、遠くから少女を探す声が聞こえてきた。
「――ファティマ様ぁー、どちらにいらっしゃいますかー」
少女は名を呼ぶ方をふり返った。
少女は自分を探している声の主が、まだ遠くにいるとわかると、名前を答える代わりにオトコにたずねてきた。
「ジャファル様はあなたのことを狂人と呼ぶのだけど、あなたの本当の名前はなんというの?」
――本当の名?
ここに閉じこめられて、名前を呼ばれたことなど一度もない。急いでいる少女のために、オトコは必死で頭の中で記憶をたぐり寄せる。
名前、名前だ。
「俺は……、ユースフ……、いや、違う……違う。アーディ……、違う……、俺の名は……そうだ、ハザールだ。メンフィスの交易仲介人、ハザールだ」
オトコは答えた。
少女はそれを聞くと、そのまま黙って名を呼ぶ方に走り去った。
結局それきりだった。
それきり、その少女とも会っていない。会ったかもしれないが、記憶には残っていない。
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