31.密偵
――二か月前――
1426年2月14日、ファールーク皇国 エトルリア海岸――。
夕べは満月だった。
神々しいほど蒼白い月明かりのもと。西の大陸モリスと中央の地の間を隔たる砂漠を、一頭の黒馬がゆっくりと駆けた。星の見えない夜、粉砂を舞い上げると方向を見失ってしまう。
馬の口には、布製のマスクが付けられていた。西大陸とオス・ローの間の粉砂の砂漠を抜けて来た者の証だ。
漆黒の馬を駆り、黒人奴隷の少年は中央の地を駆け抜けると、ヴァロニア方面へと向かった。
空が明るくなる頃には、足元から聞こえていた波のような砂の音は、馬蹄が土を蹴る音に変わった。
馬を介して身体に伝わる土の感覚が、西の大陸とは異なる。遥か遠くに見えるのは緑の森。土は徐々に水気を帯び、赤茶けた色へと変化していった。
国境沿いを北へ向かう途中、遠くにシュケムの街が見える。その城壁を横目で見ながら、少年は海岸を目指した。
やがて波の音が、少年の耳に届く。
砂浜に着くと、少年は荷物を下ろし馬を放した。
「アキル、あんまり遠くに行くなよ」
そう言って、黒馬の鼻を優しくなでた。漆黒の馬は、少し浜辺で蹄を冷やすと、水場がある場所でも知っているのか、浜辺に足跡を残してどこかへ行ってしまった。
人気のない浜辺には、放置されたままの小船が転がり、その底に堅い殻がたくさん固着している。大きな船の残骸らしきものや、流木もたくさん流れ着いている。
少年は、海岸沿いでは必要のない砂避けの布を外すと、大きな流木に腰を下ろした。
しばらくして、水平線から小さな船が近づいてきた。
波間をこいでいた四本の櫂の動きが止まる。緩やかに打ち寄せる波は、二人の男を乗せた小船を海岸にゆっくりと寄せてきた。船底が浅瀬の底をこする音が聞こえた。
少年は立ち上がり、波打ち際のぎりぎりまで歩み寄った。
寒い土地の服を着た二人の男は船を下り、ひざまで浅瀬に浸かりながら、小船から荷物を背負って砂浜に近づいてくる。
ターバンを頭に巻いた少年が自分たちの取引相手だと確認すると、男たちは目深にかぶっていたフードをとって顔を見せた。中年と若い男で、二人とも金色の髪に青い瞳で肌は真白い。
若い方の男は、少年の顔を見ると、浅瀬で足を止め動かなくなった。
「く、黒い肌だ……、あいつ、死病の悪魔だ……」
おののく声は少年の耳に届いた。
もう一人の中年の男が、恐る恐る慎重に少年に近づいてくる。そして、声の聞こえる距離を残して中年男も立ち止まった。少年を見る目には、好奇と怯えの色が浮かんでいる。
少年が、胸元から家紋のメダルを取り出して男に見せると、中年男の口からかすれた声がもれた。
「……お主、その身体……、【黒】の病なのか……?」
憐れむような、怖れるような視線を感じながら、少年は何も答えなかった。
フロリス人は、黒い肌の人間を見たことがないのだ。
「それに、船もなしで……、どうやってここに来た?」
いつも取引している相手は、船で来ていたのだろう。周りに船がない所為か、男たちはますます不信がる。
「オレは砂漠を越えてきた。海は好きじゃない」
「……お前、まだ子どもではないか」
「モリス信仰は十二で成人だ」
黒人を見て驚き、取引をためらっているのか、つまらない問答がしばらく続いた。
「オレはそちらさんに呼ばたから、わざわざここまで来たんだぜ。さっさと本題に入ってくれよ」
少年が苛立ったのを察知したのか、金の髪の男はようやく切り出した。
「……人を探して欲しい。ヴァロニア人の娘がファールーク皇国に迷い込んでいる」
中年男は若い相方を振り返った。青年はようやく仲間のそばにやってきて、ふるえた声で話し始めた。
「名前はジェード・ダーク。歳は十四歳だ」
「金の髪の女は、ファールークにはそんなに多くはいないからな。すぐに見つかるだろ」
「いや、この娘は髪も目も【黒】なんだ」
汚いものを言う言い方をされて、少年は白人の青年を睨みつけた。少年の髪の色はターバンに隠れて見えないが、肌と同じようにその瞳も黒い。
ヴァロニアとの国境が封鎖されて以来、ファールーク皇国で金髪の人口は減ってしまったが、黒髪黒目の白人女はごまんと居る。
正直とても見つけ出せるとは思えなかったが、少年は態度にはあらわさず続けた。
「何か特徴は?」
「髪は曲毛だ。……それと、右手の人差し指に、怪我の傷跡が残っているらしい。それに魔女らしい」
「魔女?」
そう聞いて、黒人の少年は呆れたように肩をすくめた。
「ひどい情報だな」
少年が中年男を見やると、男は黙ってうなずいた。
「我々も情報が少ないのだ。詳しくわかれば、また鳥を飛ばす」
「わかった。その魔女を見つけたら、また連絡するよ」
前報酬として男たちから、金貨の袋を受け取る。
談合はつかの間だった。
男たちは、また目深にフードをかぶると、着たときと逆に櫂をこぎ、海岸を去っていく。
(ヴァロニア人の娘か。ジェード・ダーク、ね)
小船の姿が肉眼では見えなくなると、黒い肌の少年は、口笛を鳴らして黒馬を呼び戻した。