4-2
「ジェード、起きて」
ルースに名を呼ばれた気がして目を覚ましたが、その声も夢だった。幼いころの夢だったが、あの後起こったつらい出来事を思い出し、そこで目覚めて良かったとジェードはほっとした。しかし、自分の現状を思い出し、夢のことなど一瞬で頭から消えていった。
木の太い根を枕にして眠っていたせいか、頬がじんと痛む。それに全身あちこちが痛い。
「わたし、どのくらい寝ていたの……」
独り言ちた声が少しかすれていた。外套を巻いていたが、昨日から雪がちらつくほどの寒さだ。しびれる右頬をおさえながら森の外に目をやると、太陽の向きから今はもう夕方なのだとわかる。
ジェードが目覚めたことに気づいて、馬がブルルッと鼻をならした。
「ごめんね。荷物を下ろさずに眠っちゃって」
ジェードはのろのろと立ち上がる。睡魔のあまり、馬のことをすっかり忘れていたのだ。馬に乗せたままだった荷物をほどいておろした。
昨夜両親が用意してくれた荷物をほどいてみると、中にはジェードが学校で使っていた聖典、毛布、水筒、干した羊肉、果物、木の器、服、昨日食べたパンもいくつか入っていた。それを見てジェードは急に空腹なことに気がついてパンにかじりついた。夕べ母親が自分とホープのために作ってくれたことを思い出して涙がこぼれた。
涙が口につたってしょっぱく、パンは昨日のように美味しく感じられない。
今ならわかるが、自分は村を追い出されたのだ。
(どうしてこんなことになってしまったの?)
忌年だというのにウィルダーから贈り物をもらった罰なのか。ホープが言っていたとおりの不吉なことが起こってしまったにちがいない。ウィルダーもそんな言い伝えがあるとは知らなかったのだろう。秘密にしていたのに、一体誰か気が付いたのだろうか。
ジェードははっと昨日牧師に言われた言葉を思い出した。
『天使様はこの世のすべての出来事をご存じなのだよ』
誰にも見られていなくても、きっと天使様は見ていたんだわ……。
「きっと天使様の罰なんだわ。教えを守らなかったから……」
ジェードはひどく落ち込んだ。ルースも教会の教えを破ったのが原因で死んでしまったので、自分はそうならないように気を付けていたと言うのに。
これからどうしたら良いのか考えることも出来ずため息がもれる。
「日が沈む前に宿泊所までいかなきゃ……」
一人ぼっちかと思ったが、ふと目の前の栗毛の馬の存在に気づき、ジェードにはとても心強く感じられた。そして友達に話すように馬に語りかけた。
「たしか、村で一番早い馬って言ったら、あなたウーノよね。私はジェードよ。これからよろしくね、ウーノ」
ジェードは再び荷物を積みあげ、自分も馬にまたがると森の奥へと馬を進めた。
「あなたに乗らせてもらえるなんて、とっても嬉しいわ。だって羊飼いが仕事に使っていいのはリボーだけだったの。あの子は力持ちだけど、気が荒くて怖かったの」
一人話し続けるが、馬から返事が返ってくることはない。
おしゃべるを止めると、とたんに昨夜のことを思い出して涙が馬の鬣にポタポタと落ちる。ルースから聞いた物語の中に、親から森に捨てられた双子の話があったのを思い出したりもした。だが、その物語のように双子の弟はいない。気は進まないが、とにかく安全に休めるところまで行かなければならなかった。
馬はジェードの手綱にしたがい道を進んでいった。森は鬱蒼としうす暗かったが、不思議と森の外よりも道はわかりやすかった。ひたすら西へ向かって、人が三人並んで歩けるほどの道が今も残っている。薄暗い森の中では雑草が育たず、人が長年踏み固めた道にはコケも生えていない。
道沿いに進むと、まだ明るいうちに小屋を見つけた。小屋のまわりには薪が積まれ、その表面に灰緑のコケが生えている。
小屋の横手にまわってみると井戸があり、そこから水をくんで馬に飲ませた。
この森にはオオカミが出ると村人や学校から散々聞かされていたので、村人がこの森に近づくことはほとんどない。だが、羊飼いのジェードが知る限り、村でオオカミの被害は一度もなかった。その話を姉にした時は、本当は森に人を近づけないためなのだとルースが教えてくれた。
しかし、もし馬を失って本当に一人きりになるのは怖くて用心した。
「オオカミが出るかもしれないから、あなたも一緒に中に入りましょう」
ギイッと音を立てる古木の扉を開け、馬も小屋の中にひき入れた。
小屋はもう長らく使われていない様子だった。ところどころ蜘蛛の巣が綿のようになり、ジェードが歩くとその風でふわふわと揺れる。板張りの床を馬が歩くとさすがにミシミシ音を立てるところもあったが、掃除さえすればいつでも人が住めそうだった。暖炉や長椅子やテーブルがあり、荒らされた様子もなく静かにほこりをかぶっているだけだった。
石造りではないが、小屋の中は教会の教室と少し似ている。
目が暗がりに慣れてくると、奥の壁には教室と同じように絵が描かれていた。聖典の挿絵と同じ構図だった。
その前に小さな祭壇がある。上に小さな木箱が置かれていて、ほこりの下に黒髪の束が入っていた。
ジェードは祭壇の前にひざまずいて両手を胸の前に組んだ。
「天使様、無事にここまで来られたことに、感謝します」
目を閉じ、耳を澄ますが、森は風もなく不思議と静まっていた。小屋に入れた馬の息づかいだけが聞こえてくる。
「天使様、わたしが村を追い出されたのは、ウィルから贈り物をもらったからなのですか? もしそうなら、このペンダントはどうすれば良いのですか? 村に戻りたいの……。どうか……お教えください」
そう小さな声で呟くと、心の中に【天使】の声が聞こえてきた。
『ジェード、すべては必然なのです。あなたは自分の天命と良心に従えば良いのです』
「……天命? 天命って?」
天使に問いかけたが、その日はそれ以上天使の声は聞こえなかった。
天使の声はジェードが祈った時にだけ返事を返してくれた。しかし、いつも聞こえるわけではない。時には突然話が終わることも、全く返事をもらえない時もある。
牧師先生の教えのとおり、心を開いて真摯に天使に向かい合い、言葉を発して祈るほど、天使は祈りに答えてくれる。ジェードはみんなが自分と同じように天使に祈っているのだと思っていた。
その晩ジェードは馬と同じ部屋で眠った。蹴られてはいけないので、足をまげて休む馬から離れたところで、一人毛布にくるまった。
「村に戻っちゃいけないよね……。ごめんね、ウーノ。一緒に行くことになっちゃって……」
真っ暗な部屋の中で呟くと、馬は返事をするかのようにブルブルと鼻を鳴らした。