29.母と子
もうすぐ暦は春になるというのに、王都ランスの空には雪雲が広がり、静かに雪が降っていた。
ランスでは、つい先週から、ようやく初春の暖かさを取り戻してきたところだった。それが昨晩、突然ぶり返した寒さに見舞われた。
薄暗い空の下、街の人々は、久しぶりの大寒を逃れ、家の中で暖炉に薪をくべていた。
時折通る馬の蹄の音も、柔かく降り積もった雪に吸い込まれていった。
王都のラヴァール家では、養子として出て行ったはずの長兄が、突然来訪していた。
そのことに、妹のラシェルはひどく怒っていた。連絡なしに帰郷したばかりか、家主に許可も取らず、ある人物を実家に呼び出した事に対して怒り心頭だ。
ヴィンセントの妹は、ホープと同じ歳位に見えた。応接室はすっかり暖まっているのに、ストールを肩から羽織ったまま、暖炉の前を苛立ちながらうろうろとしている。兄に良く似た金髪の美人だったが、この時は、眉を吊り上げ目を尖らせていた。
「五年振りに現れたかと思ったら! お兄様は、どうして、いつもいつも恐ろしいことを考えておられるの!」
信じられないといった様子で、長椅子に腰掛けるヴィンセントとホープの前で、怒りと共に大袈裟なため息をもらした。
ラシェルのそんな様子を見て、ホープは帽子も取れないままでいた。この状態で黒髪を晒せば、彼女の怒りに油を注ぐだけだと判断した。
小一時間前、この屋敷にはヴィンセントに呼び出された、ヴァロニア王妃イザベラが来訪していたのだった。
ヴィンセントとホープが、ラヴァール家に到着した時。
積もった雪の上には、屋敷の入り口へ向かう車輪の跡が、既に描かれていた。ラヴァール家の正面の入り口の前には、黒い箱馬車が停まっている。
応接室では、目立たぬ様に黒い衣装に身を包んだ女性が、ヴィンセントの到着を待っていた。
ギリアンの母親、ヴァロニア王妃イザベラだった。
イザベラは金色の髪を隠すように被った毛皮の帽子もそのままで、ファーの付いた黒い重苦しいコートや、ビロードの手袋を外すことすらしていなかった。
暖炉の中でパキパキと音を立てて燃える炎を、イザベラは立ったままじっと見つめていた。
「お待たせしました、王妃陛下」
時間に少し遅れて入室してきたヴィンセントの外套には、雪が積もっていた。
ヴィンセントは、外套を外し椅子の背に掛けた。暖められた応接では、間もなく雪が解けて絨毯を濡らした。
「よく、ランスまで戻ってきましたね、ヴィンセント・フォン・ラヴァール。私には、あまり自由な時間はないのよ。あまり手間を取らせないで頂戴」
「では、手短に。陛下の御愛息の話です。ここなら、誰にも聞かれることはないでしょう」
イザベラは、『何を知っているのか』というような視線をヴィンセントに向けた。
「陛下の噂が、ギリアンの耳にも届いています。悪魔を信仰していると」
「悪魔信仰など!」
イザベラは短く怒鳴りつけ、ヴィンセントをにらんだ。
「何が目的? あなたまで、私を脅迫するつもりなの?」
「脅迫など、とんでもありません」
「私は魔女ではないし、ギリアンも断じて悪魔の子ではありません。もちろん不貞の子でもない。あの子は間違いなくカルロス陛下の御子よ。今更こんな話をしても仕方がないでしょう。言いたい事がそれだけなら帰らせて頂くわ」
イザベラが扉の方に向かい歩みだした。
「ギリアンが、戴冠する決意を固めました」
ヴィンセントの言葉に、イザベラは驚いて振り返った。一瞬で、白い肌がより青白くなったように見えた。
「何を言っているの! 聖ソフィアの大司教は、ガイアールに人質に取られている! それに大聖堂のあるランス東方は、シーランドに侵略されているのよ!」
「その程度の障害、取り除くのは容易いことです」
ヴィンセントの実力を知っているイザベラは険しい表情になった。
「駄目よ、やめて!! ギリアンを王にしてはいけない!」
「【黒】だから、ですか?」
ヴィンセントの言葉に挑発されるかのように、イザベラの表情がますます険しくなった。
暖炉の中の薪が燃えて、パキンと割れる音が部屋の中に響く。
王妃は苦い顔をして、かすれた声を絞りだした。
「……そうよ。魔女狩りの蔓延を知っているのでしょう? ここ数年で何人殺されたと思っているの? それも【黒】の女ばかり。今ギリアンが【黒】を公表すれば、あの子はきっと悪魔の子とされてしまう。そして私は悪魔の子を産んだ魔女として処刑の身よ。今動けばシーランドの思う壺だわ」
「先程、ギリアンはカルロス王陛下の子だと、はっきりおっしゃったではないですか」
「ヴァロア家に黒髪はいない。どうしてギリアンがあんな髪に生まれてしまったのか、私にもわからないのです……」
王妃は悔しそうに、黒いコートの裾を両手で掴み握りしめた。
「リナリーは【黒】を魔女であるように仕立て上げて、ギリアンと私を追い詰めている。そして、悪魔の子をシーランドに差し出すようにと要求しているのよ」
「それは、前シーランド王がカルロス王陛下より先に死んだ所為で、ヴァンデ条約が無効になってしまったからでは? リナリー殿下は、息子のアンリをヴァロニアの王にしたいのでしょう」
ヴァンデ条約の通り、ヴァロニア国王カルロスの死後、シーランド国王ローランがヴァロニアの国王になれば、ヴァロニアとシーランドで二重王国が成立した。二国間の争いも終わり、いずれは、リナリーの息子アンリが二国の王となるはずだった。
だが、シーランド国王ローランは病でヴァロニア国王カルロスより先にこの世を去ったため、ヴァンデ条約は無効になった。相次いでヴァロニア国王カルロスが崩御した所為で、ヴァロニアでは王位後継で混乱している。
「……私の子ども達は姉弟で争うのね。不憫だと思うわ」
イザベラは視線を少し落として、寂しそうにつぶやいた。イザベラは王妃と言う立場から、『王威派』に名を連ねてはいるが、息子のギリアンの身も案じているのだろう。
「もうこれ以上は長居出来ません。ヴィンセント、あなたが私に伝えたかったのは、ギリアンの戴冠の意思表明だけですか?」
王妃は顔を上げ厳しい表情に戻ると、ヴィンセントを見た。
「おっしゃる通りです」
ヴィンセントは、ゆっくりとうなずいた。
「ヴィンセント、私がわざわざここまで出てきたのは、私からもあなたに直接伝えたいことがあったからです。シーランドが悪魔の子として身柄を要求しているのはギリアンだけでない。貴方もなのよ。それもギリアンと同じ、五年も前から」
「なるほど。陛下、これを」
以前、ホープから受け取った魔女の召喚状を手渡した。
「私がヘーンブルグへ行った後に、ヘーンブルグの娘が二人、魔女として疑惑を受けました」
ギリアンが、王都から追放されたのは、ちょうど五年程前のことだ。
目の前に、身柄の引き渡しを要求をされているヴィンセントが居るというのに、イザベラはヴィンセントを捕らえようとはしない。そして、王太子の所在についても、詮索しようとはしなかった。イザベラは、シーランドからの要求に応じるつもりはない様子だった。
「ヴィンセント。どうか、馬鹿なことは考えないで。ギルの傍に居てやってちょうだい」
その一言だけ、母親の顔で言うと、イザベラは屋敷を後にした。
王妃の去った応接室で、長椅子にヴィンセントとホープは並んで腰掛けていた。その前を、ラシェルは、何か問いた気にうろうろするばかりだった。
そんなラシェルを無視して、先程まで出された茶を啜っていたヴィンセントが立ち上がった。
「外套が乾いたな。ローゼンに戻るぞ。ホープ」
ヴィンセントは、暖炉の傍に置いた椅子の背に掛けていた外套を手に取ると、ラシェルに声を掛けることもなく颯爽と部屋を出ていった。
ホープは、慌てて席を立つと、ヴィンセントの後を追った。その時、ヴィンセントの妹をちらりと見ると、訝しげな視線をホープに向けている。彼女は、何も言わず立ち去る二人を見送った。
ずっと被ったままだった、ホープの帽子の下を、気にしている様子にも見えた。